第36話 再戦
◆
カイリの元にはほどなく、使者が向かったようだ。
冬は寒さをいよいよ厳しくし、城の部屋では火鉢が用意されていた。障子や襖も閉めていることが多い。
俺は何度か庭に出て、刀を構えていた。
振ることはない。
振らないだけでも少しの間で全身に疲労を感じることが普通だ。
俺の元に、雪がちらつく日の昼前、ケイロウからの言伝を城のものが伝えに来た。
カイリは手合わせを承諾し、二日後に城の庭の一つにおいて行われるという。
俺が提案した、カイリとホタルの縁組の話は俺の耳には届いていなかった。ケイロウは無理をせずに、決闘ののちに場合によっては動く、と決めたようだ。その時にカイリが死んでいればそれまでだ。もちろん、カイリが無傷で生き延びるようなことになれば、事態は余計に難しくなる。難しくなっても、俺は死んでいるはずで、何の苦労もせずに済む。
チセは俺に怯えた顔を見せて以来、俺の元へはほとんど顔を見せなくなった。タンゲが来ている時に来るか、茶と茶菓子を運んでくるくらいだ。一人では顔を見せない。
俺の様子に相当な恐怖を感じたのだろう。
チセを責める気にはならなかったし、むしろ申し訳なく思った。
領主の娘とはいえ、普通の娘が刀を見て、殺気を目の当たりにして、どうとも思わない方がおかしいのだ。
恐怖こそ、健全な反応だった。
恐怖を抱かない方が、何かがおかしい。
二日はあっという間に過ぎた。
俺の着物はケイロウが用意してくれたが、質素なものだった。俺の立場を強調する意図があったのかもしれない。ケイロウの支援を受けているわけではない、というような。
件の庭は、例の白洲だった。
むしろがあり、まるで罪人が座るような場所だと改めて思ったが、先にそこに座っているカイリは、まったくそうは見えなかった。堂々と膝を折り、まっすぐに背筋を伸ばしている。
俺を見ても、彼は表情を変えなかった。
すでに気持ちを整え、剣の技に集中しているようだった。
俺としても今更、カイリと何かを話す気にはなれなかった。
彼は言ってみればケイロウのわがままに翻弄されているだけだし、俺もまたケイロウに振り回されいる。
他人の都合で、どちらか一方が命を落としかねないというのは、道理が通らないと思うものがほとんどだろう。
しかしそんなことは日常茶飯事だ。
権力者の考え一つで、一人や二人ではない数のものが、首を打たれることがある。
乱世では戦の勝敗の結果で、一つの家のものがまとめて処刑されることさえあった。
俺もカイリも、剣士だった。
剣士である以上、刀に全てを乗せるしかない。
死にたくなければ、相手を切る。
それだけの簡単な発想しか、残らないのが剣士だった。
しばらく二人で並んで座り、時を過ごした。
この日も曇り空だったが、ちらほらと雪が舞い始める。積もることはないだろうが、着物が少しずつ湿り気を帯びてくる。
やがて家臣たちが庭に面した広間に集まった。遅れてケイロウもやってくる。
「この度の手合わせは」
家臣の一人が声を発する時、俺もカイリも頭を深く下げている。
「真に、剣術指南役として相応なものは誰か、ということを決めるものである」
「恐れながら」
カイリが即座に声を発したので、家臣、ヘビ顔の男は気を飲まれたようで声を止めた。
凛とした声でカイリが言葉を続ける。
「一度、こちらにいるオリバ殿には勝っております。命こそ奪わなかったが、奪うこともできた。それをこうして改めで手合わせとは、どういうことでございましょうか」
場は静かになり、すぐには誰も発言しなかった。
「カイリよ」
かけられた声は、ケイロウの声だった。
「お前はオリバに止めを刺さなかった。それが全てだ」
「情けをかけるのが剣の道というもの」
「負けるのが怖いのか」
このケイロウの言い分には、思わず俺が頭を上げそうになった。
あからさまな侮辱だった。カイリの論法は何も間違っていないと俺は知っている。他のものもそう感じたはずだ。しかしケイロウは、その思いを全て否定している。
家臣たちからも暗い空気が漏れる中で、ケイロウは言葉を止めない。
「言いたいことがあるのなら、そこにいるオリバを切ってから口にせよ。お前が勝者になれば、何を言うことも許そう」
「それは」
カイリはさすがに怒りを滲ませながら、しかし明瞭な口調で確認した。
「家臣として取り立てていただける、ということでよろしいですか」
家臣たちが短い声を漏らす。
ケイロウは、動揺しなかった。
「そのようにしても良い」
「する、と、言ってくだされ」
カイリが踏み込むのにケイロウはすぐに答えなかった。
「ケイロウ様」
「すべては勝てば、だ。始めよ」
俺は深く頭を下げて立ち上がった。カイリも遅れて立ち上がる。
むしろが片付けられ、俺とカイリだけになる。
「始めよ」
ケイロウの催促の声。
俺は刀の柄に手を置いた。カイリは悠然と刃を抜いた。
居合は通じないだろうと、俺も素早く刀を抜く。
それぞれに構えを取る。俺は下段、カイリは正眼だった。
切っ先をひねるように、移動させていく俺に対し、カイリは動かない。
アマギの技はもちろん、ゼンキの技もない。
カイリ独自の技だ。
俺の刀は真横に移動し、徐々に背後へ引かれていく。
カイリは仕掛けてこない。
受けの剣か。
わずかに足の位置を変える。
砂利をこするように足を進めるのに、カイリも自然と足を進めた。
瞬間に何かが弾ける。
呼吸が曖昧になった時には、体が動いている。
カイリが跳ねる。
二人がすれ違い、風を切る音が遅れて聞こえた。
振り返りざまにお互いが刃を繰り出す。
交錯。
背を逸らし、構えを取り直す。
カイリも目の前にいる。
両者が再び動きを止める。
俺の刃はカイリに触れていない。カイリの刃も俺には触れなかった。
どういう筋で来た?
ほとんど突きのような、振りの短い一撃だった。
牽制ではあるまい。
俺の振りがもう少し遅ければ、より深くカイリは踏み込み、その踏み込みで潰した間合いによって俺を刺し貫いたに違いない。
やはり俺とカイリの技量は拮抗している。
死なせずに切り抜ける術はなさそうだった。
余計なことを考えているだけで、斬り伏せられてしまう。
視線が集中し、逆に全てがぼやけていく。
カイリだけが浮かび上がり、輪郭は融解する。
人ではないものが剣を構えている。
いや、剣が人を動かすのだ。
来る、と思った時にはこちらからも仕掛けていた。
刃が交錯し、それぞれが切っ先を逃れる。
立ち位置が変わり、構えも変わるが、お互いに刃は届いていない。
息が止まっている。
しかし苦しくはない。
体の端々までが理解できる。
血が通い、気が通っている。
それはまるで刀にまで及んでいるようだった。
踏み込んだのは、何故か。
カイリの刀が翻る。
手応えがあるのと同時に、左肩に衝撃が走る。
足が砂利を踏みしめ、勢いを瞬間的に殺し、体を逆に跳ねさせる。
カイリもまた砂利を蹴っている。
空を切った刃を手元へ戻し、構えを取り直す。
カイリは上段に構えを変えていた。
その脇腹の辺り、着物の色が変わっていく。着物は切れていた。俺の切っ先が届いたのだ。
一方、俺も左肩が濡れていくのを感じる。
また左肩。
しかしまだ動きには余裕がある。痛みも緊張のせいか、感じなかった。
このまま続けても、どちらもが倒れるかもしれない。そう思った。
両者の技比べは相討ちに辿り着いてしまう。
これを打破するには、危険を甘受するしかない。
死ぬかもしれない危険を冒し、それを覆して相手を倒す。
そこにしか活路がない。
カイリも同じことに気づいたはず。
上段はそのための構えか。
死を覚悟するのは、容易だった。
刀を握れば、その時には俺は生きていないも同然。
死んではいないが、生きてもいない。
覚悟などと言えるものですらない。
呼吸をするようなもの。
自然。
意識することではない。
わずかにカイリの刀の傾きが変わる。
見たことのある構えだ。
それは、ゼンキか。
それとも、アマギか。
体が動いた。
俺が踏み込んだきっかけは、やはり幻だったのか。
殺されるかもしれない。
しかし今しかない。
強く足が地面を踏む。
力がまっすぐに、体を走った。
切れる。
カイリが緩慢に進み出てくる。
遅い。
こちらの勝ちだ。
「待たれよ!」
遠くで声がした。
刃が鈍る。カイリの剣も鈍る。
両者が相討ちになることに瞬間的に気づいた。
気づけば、それを回避する。
刀と刀が音を立ててぶつかり、火花が散った。
その反動も使って後ろに跳び、大きく間合いを取る。
息を吐いた。汗が噴き出す。
カイリだけを見ながら、先ほどの声を検討しようといた時、「待たれよ!」とまた声がした。
女性の声。
わかった。間違いなく、ホタルの声だ。
「下がれ!」
これはケイロウの怒鳴り声。
「下がりませぬ!」
ホタルが応じる。
俺はそちらを見た。
袴を履いたホタルが見えた。腰には刀がある。
立派な装いじゃないか。
俺はゆっくりとカイリから距離をとった。
呼吸を整え、意識を整える必要があった。それに現在の状況は全くの想定外だ。
カイリも同様な様子で、一歩、二歩と俺から間合いを取る。どのような技でも届かない間合いができる。
「何をしに来た」
舌打ちをしてからケイロウがホタルに問いかけた。
ホタルは堂々と答えた。
「仇を討つために参りました」
(続く)
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