第35話 筋書き
◆
俺は黙っていた。
ケイロウは俺の視線に気づいているはずだが、手元で扇子を開き、閉じしている。パチリ、パチリと、彼の手元で扇子は音を発する。規則的だった。早くもなく、遅くもない。
「切れるか」
低い声には、感情が欠落していた。
ただ事実を知りたい。事実のみを。
そういう質問だ。
俺はすぐには答えなかった。焦らしたわけでも、躊躇ったわけでもなく、考えていた。
自分に何ができるのか、自分にできないことは何か。
自分の行動で何が生じるか。
誰が怒り、誰が泣くのか。
「切れるか、オリバ」
ケイロウが顔を上げる。その顔には苦渋はなく、愉悦もない。
静かな面持ちのまま、俺を見ている彼のその言葉は、どうしてもちぐはぐだ。
しかし人間は、そのようなものだろう。
「カイリ殿を、ですか」
「他に誰がいる」
「一度、手合わせをして、負けています」
ひときわ大きく音を立てて、扇子が閉じられる。
「勝てるか、勝てないか、それを言え」
「負ければ死ぬのみです。しかし勝ってしまえば、カイリ殿の命は無くなります。それでケイロウ様はよろしいのですか?」
「何が気になる」
「招いて仕官させたものを、都合よく処断して良いか、それで不満は出ないのか、ということです。ケイロウ様の考えのもと、カイリ殿は今の立場におられます。それをまたケイロウ様の考えで処断しては、身勝手と見るものもあるかと存じますが」
そのようなこと、とケイロウが小さな声で言う。
しかし感情はこもっていた。忌々しげで、吐き棄てる口調だった。
「そのようなことを、気にするものなどおらん。家臣はまとまっている。剣術指南役と言ってもカイリは道場主のようなものに過ぎぬ。それも看板だけの道場主だ。誰もなびくまい」
俺はケイロウに、剣術の師弟の間にあるものを伝えるべきだったかもしれない。
師匠と弟子は、親子なのだと。
無味乾燥な関係ではなく、血が通い、熱のある、まるで生きているような絆なのだ。
それが引き裂かれれば、痛みが走り、怒りが沸き起こる。
ケイロウにはそれがわからない。わからないが、領主がわかるようなことではないのかもしれない。ケイロウは兵士の出だというが、剣術家ではなく、また師を持たず、弟子も持っていないだろう。
領地を経営して、家を守るという日々の中にはないものが、師弟のうちにはあることを今、教えてもいいかもしれない。
「カイリ殿を慕う者もおりましょう」
「以前、お前をここへ引き込む時、兵を出した」
ケイロウはまた畳を見ていた。そう、この部屋には畳が敷かれている。上等な畳だ。
ここはケイロウが銭をつぎ込んだ、特別な場所か。
彼の懐に、俺は抱き込まれているらしい。
「お前一人では、十人を超えるものの相手はできなかった。それを考えればカイリの側につくものなど数はしれている。私の配下を動員すれば、どうとでもなる」
「そのような混乱自体が、余計なことではありませんか」
「だからこそ、お前に切ってもらいたい。私が独断で処断したのではなく、カイリは決闘に敗れて倒れた、としたいのだ」
「それでも不満は残りましょう」
「頭を失った獣に、何ができる?」
この議論は、終わりがなさそうだった。
ケイロウは全てを承知しているか、何が起こっても対処できると自信を持っている。やや相手になるかもしれないものを軽く見ている向きはあるが、ケイロウの力は大きい。
俺がカイリを切ることは、どうやら既定路線になりつつある。
「オリバ、改めて問うぞ。切れるか、切れないか」
睨みつけるような眼差しに、俺はわずかに目を伏せた。
「切れと言われれば、切りましょう。もし敗れるとしても、悔いはありません」
よろしい、とケイロウが低く言う。
「しかし」
俺は即座に言葉を続ける。
「もし許されるのなら、殺さずに済ませたい」
無言になったケイロウを俺はじっと見据えた。それをはねつけるように、俺は強い口調で言った。
「無駄な殺生は好もしくない」
「それだけではないな?」
即座に問いを向けられるが、俺はわざと知らないふりをした。ケイロウの問いかけを外す言葉を返す。
「カイリ殿は一度、私を殺さずにおきました。その借りを返すだけのことです」
「違うな」
誤魔化しきれるわけもなかった。ケイロウもこの件、俺の願望には強い興味があるのだ。
「何を考えている、オリバ」
「これは順番が難しいのですが」
うまく説明できるか自信がないが、今、言わなくては意味がない事柄だった。逃げることは許されないと、腹を決めた。
全てはケイロウと歩調を合わせなければいけない。
「カイリ殿とホタル殿を夫婦にします。カイリ殿との手合わせの後か先かは、判然としませんが、ともかく、夫婦にするのです」
「それで?」
「カイリ殿を、殺さずにおきます。しかし手合わせには敗れている状態です。なのでこれは、まず私がカイリ殿を破るのが大前提です」
「お前が勝って、生き延びたカイリとホタルを夫婦にして、それでどうなる」
「二人を揃って、隠棲させるのです」
予想外だったのだろう、ケイロウが少し目を見開いて、こちらを見ている。
「隠棲させる? それはつまり、追放か?」
「カイリ殿は剣術を使えない、となれば、身を引くのが自然なこと。ハバタ家の領地のどこへなりと、置かれるがいいかと存じます」
「しかし何故、ホタルと夫婦にしなければならぬ」
「ホタル殿はアマギ殿と血の繋がったお方。やはり火種になりましょう」
俺の言葉に、ケイロウが低く唸る。
ケイロウに剣術家の師弟の絆は理解できないだろうが、こうして噛み砕いた、というか要点だけをまとめた俺の言葉なら、理解できるかもしれない。
俺が言っていることは、ここでカイリとホタルをハバタ家の中央から外すことで、人心を一新できる、という単純なことなのである。
「その一件は、考えておこう」ケイロウが目を閉じる。「しかし夫婦にするのは立ち合いの後になるだろうな。今から動き出すのでは、どうしても間に合わん」
「手合わせを先延ばしに出来ませんか」
「そのようなことをすれば」
ケイロウは口元を歪めていた。
「カイリの肩を持つものも現れるかもしれん」
警戒はしている、とその一言でわかった。数を頼んで騒動は鎮圧できるといいながら、ケイロウの中にはしっかりと、もしもに備えての予測があるのだ。予測があるから安心できる、とまでは言えないが、無策ではない。
「何か、条件はあるか」
ケイロウが話を先に進めた。
俺がカイリを切って、何を求めるか、ということだ。
「求めることは一つです」
「言ってみろ」
「また旅に戻りたい。それだけです」
ケイロウが思わずといったように小さく笑い、何度か頷いた。
「面白い奴だ。銭が欲しいなどと言わない辺りがな」
「もらえるなら、銭も頂戴します」
期待しておけ、とケイロウは今度は大きく頷いた。
話はそれで終わった。感触としては近いうちに、俺はカイリと改めて手合わせをすることになるだろう。
自分の部屋に戻り、俺は刀を手に庭に降りた。
鞘から抜いて、構える。
勝利することは絶対だ。
しかし、俺はカイリを殺さずに無力化しないといけない。
腕を切ってもいい、足を切ってもいい。
しかし命を奪ってはならない。
困難、至難だった。
手加減のできる相手ではないのは十分に承知している。勝ち負けは紙一重で決まりそうだ。それなのに、俺には枷がかけられている。
圧倒する技はおそらく、俺の中にはない。
一度の手合わせで、お互いに繰り出した技は小さなもの。
しかしそれぞれの剣の一部は、お互いが知っている。
剣は合わせれば合わせるほど、手札を失っていくものだ。だから剣士は相手を殺そうとするとも言える。殺してしまえば、自分の技について知っているものはいなくなる。
刀を構えたまま、俺はカイリを具体的に想像した。
勝ちも負けもない。
生きるか死ぬかもない。
どう倒すかを徹底的に突き詰めていく。
どんな方法を使ってもいい。
カイリを死なせなければいいのだ。
いつの間にか目に映るのは幻だけになり、それがふっつりと消える。
瞼を開け、刀を鞘に戻して額の汗をぬぐった。
細く息を吐いたところで、気配に気づいた。
建物の方を見ると、廊下にチセが立ち尽くしている。
真っ青な顔をしていた。
声をかけようとすると、彼女は一歩、二歩と下がり、素早く頭をさげると足早に廊下を去っていった。
怯えていたようだが、過去に似たような経験がある。そう、いつかの旅籠の庭でも、同じようなことがあった気がする。あの時は宿で働く少女が、怯えていた。
人が発散する殺気というものは、当然、目には見えない。
しかしそれを感じ取れるものは意外に多い。剣士になるものの条件の一つに、殺気に敏感かをあげる使い手もいるほどだ。危険を察知することができる、という理屈だった。
俺としてはあまり考えたことはないが、刀を抜いて向き合うと、気配は感じる。
殺意を読むことは、呼吸を読むのと同じように身についている。
ともかく、チセを脅かしているようでは、俺もまだ修練が足りないということだ。
本当の使い手は、殺気など見せずに切りつけてくる。呼吸を読ませないのと同じように。
深く呼吸をしてから、俺は建物に上がった。
カイリとの手合わせは、生死の境目になる。
相手を生かす前に、自分が生き残らなくてはならない。
それでも殺したくはない。
葛藤を振り払うように、俺は自分の部屋の床に座り込んで、目を閉じた。
何も見えない闇の中で、心をただ落ち着かせた。
呼吸を整え、姿勢を作り、闇を見据える。
静寂の中で、胸の奥が熱を持っているのを感じた。
闘志が燃えているのだ。
(続く)
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