第32話 欺き

     ◆


 部屋の中はほぼ無音だったが、タンゲの苦しげな息遣いがそれを乱していた。

 布団が敷かれ、タンゲが横になっている。額で汗が光っている。

 すぐそばにモモヨが腰を下ろし、若い僧形の男性がその横にいる。医者だろう。

 俺は二人とタンゲを挟む場所に膝を折り、「オリバです」とタンゲに声をかけた。タンゲはうっすらと目を開き、俺を見とめたようだ。

「ご心配を、おかけします」

 こんな時でもタンゲは丁寧な口調だった。

「休まれるのがいい」

 俺も何度か見たことがあるが、怪我をした後に発熱が起こることがある。刀疵でよく起こるが、骨折などでも起こることはある。

 俺は医者の方を見る。医者はかすかに顎を引いた。大事にはならない、ということだろう。

 モモヨの方を見ると、彼女は至極、冷静に見えた。

「先生」

 くぐもった声でタンゲが言う。医者ではなく、俺に言葉を向けているようだ。しかし視線の焦点は曖昧だった。

「先生、私の腕は、どうなっているのですか」

 俺が答えられずにいると、タンゲが絞り出すように言葉を重ねる。

「腕が痛むのは、わかります。痺れているのも、わかります。治るのですか」

 気にするな、とは言えない。

 彼に稽古をつけたこともある俺が、いい加減なことは言えなかった。

 しかし他に何が言える?

「いずれ治る」

 俺が言葉にすると、本当ですか、とタンゲが掠れた声で言う。

「また剣を振れますか」

「振れる」

 自分の言葉で自分が傷つく時がある。今がまさにそれだった。

 心が痛むなどということは、ただの同情ではなく、ましてや言葉の上のことではなく、ちゃんと存在するのだ。

 タンゲの不運に俺が感じるこの思いは、同情ではないと実感出来る。

 憐れみでもない。

 では何だろう。

 最適な言葉はない。何かが胸の奥を刺し、鋭い痛みを生んでいる。

 刃で切られるよりも鋭いかもしれない痛み。

「また、稽古をつけてください」

 タンゲはそう言ってから、「お願いします」と付け加えた。さらにもう一度、同じ言葉を口にする。

 しばらくすると、タンゲは眠ったようだった。

 医者とモモヨとともに部屋を出ると、チセの姿はなかった。廊下で医者がモモヨに今後について話し始めるのを、俺は許されてそばで聞いた。

 タンゲは右腕の骨が折れており、容易には治らない。しばらく固定したままでおく必要があり、その間は痛みが出るだろう。熱はおそらくすぐに引く。右腕が以前と全く同じに戻るとは、断言できない。

 そのようなことを医者は説明し、元の部屋へ引き返した。当分はこの城に詰めているようだ。

「事故なのですか」

 俺は障子が閉まってから、さりげなくモモヨに問いかけたが、彼女はあまり表情を変えず「なのでしょうね」と簡潔に答えた。

「タンゲ様は、何が起こったか、お話しになりましたか」

 いいえ、とモモヨは首を振って答える。この時には一抹の寂しさが彼女の表情に浮かんだ。

「あの子は何も言いませんでした。言ったのは、自分の過ちだった、ということです。誰のせいでもなく、自分が間違っていたと、それを口にしました。それ以外は、何も」

 タンゲの口から、カイリに責任があるという言葉が出ていない。

 タンゲの幼いながらの高潔さが、カイリの不手際を隠そうとしているのか。それともカイリには不手際などなく、本当に事故だったのか。

 容易には知ることはできそうにないが、ケイロウは抜かりなく、探るだろう。朝の稽古はカイリとタンゲの二人だけではない。大勢が同じ道場で稽古をしており、事故の現場も目撃しているだろう。証言はいくらでも出る。

 その時にケイロウは決断するのだろうか。

 どのような決断になるにせよ、状況は再び動き始めた。動かざるをえない。

 俺はモモヨに礼をして、その場を離れた。自分が普段、起居している部屋に戻り、じっくりと考えるつもりだった。

 廊下を進み、部屋が見えてくる。

 足を止めたのは、軒下の廊下に腰掛けているチセが見えたからだ。

 彼女もすぐにこちらに気づいた。目元を泣きはらしているのはさっきと変わらない。表情もどこか寂しげに見えた。その様子は、驚くほどモモヨに似ていた。

 立ち止まっているわけにもいかず、歩みを再開する。

 自然、俺はチセの横に腰を下ろしていた。

 俺が黙っていたせいか、チセが呟くように言葉にした。

「お兄様の怪我は酷いの?」

「酷いかもしれないが、死ぬほどではない」

 冗談で紛らわそうとしたつもりだったが、チセのこちらを睨む烈火のような瞳を見れば、失敗だったとわかる。笑えない冗談だったか。もともと冗談の才能が俺にはないのだ。

「失礼。いずれ治ると思います」

 まだチセは俺を睨みつけていた。

「本当です。どんな怪我でも、いずれは治る。訓練が必要なこともありますが、時間とともに改善していくのがほとんどです」

 言葉にしながら、自分の言葉の空虚さに嫌気がさす俺だった。

 怪我は確かに治る。時間とともに改善もする。

 しかしはっきりと失われるものも確かにある。

 医者の見立てはともかく、腕の骨が折れたことで、間違いなくタンゲの片腕は力が衰える。力が衰えるだけで済めばいいが、物をつかむ力がそもそも発揮できないこと、物を支えると痛みが出ることなど、悪い結果は無数に想像できる。

 俺はタンゲに、また剣を振れる、そう言葉にした。

 いつかタンゲは俺の嘘に気づくだろう。

 俺を憎むだろうか。

 俺を恨むだろうか。

 それとも、カイリを認めている高潔さで、俺さえも許すのだろうか。

 救われない気持ちになりながら、今まさに、俺はチセを欺こうとしているのだった。

「彼はまだ若い。以前と同じようになるでしょう」

 そう言葉にしながら、内心では否定している自分は、とてもまともとは思えなかった。

「本当に?」

 チセの目が俺の目を覗き込んでくる。

 心の内を読まれそうな気がした。

 まっすぐな視線は、どこまでも貫き通しそうである。俺のこの矛盾する心さえも。

 しばらく無音で視線を交わし、チセはふっと瞼を伏せた。

「わかりました。あなたを信じます」

 切りつけられたようなものだった。

 俺がチセの信頼を裏切ることは、約束されている。奇跡が起きない限り、彼女は俺の嘘を知ることになる。

 俺はこの兄妹を欺いた咎を、いつか、受けるだろう。

 心構えはしておこう。

 傷を受けるのには慣れている。体も心も、今まで、何度も切りつけられてきたのだ。

 痛みも苦しみも、無数に引き連れてここまでやってきた。

 今更、一つや二つが増えたところで、変わりはない。

 チセがゆっくりと立ち上がり、「しばらくは来ませんからね」とさっきよりは少し明るい表情で口にした。俺の言葉が彼女を楽にさせたのだ。しかし俺にはそれも苦しいだけだった。

 軽い歩調でチセが去っていき、俺はしばらく廊下に腰掛けたまま、庭を見ていた。

 狭い庭で、ただ、二人で稽古をするにはちょうど良かった。

 タンゲが木刀を振っている姿は、ありありと思い出せた。

 同じ光景がまた、ここで展開されればいいのに。

 もはやそれは、空想の中にしかなさそうだった。

 ケイロウは怒っている。自分の息子を害されたことで、どこかで誰かに責任を取らせようとするだろう。しかしとりあえずはカイリを謹慎させた。首を打たず、追放もせず、謹慎という形にした。

 カイリに何か、利用する価値を見出しているのか。

 俺の知らない付属する要素があるのだろうか。

 ただ首を打つ以上の効果的な使い方、か。

 自分の息子の怪我さえも、そのような陰謀の道具にしてしまうケイロウに感じるものこそ、憐れみだろう。

 ただ息子のそばに行き、声をかけ、手を取り、励ます。

 それだけのことをする方がよほど人間らしい。

 怪我をさせたもの、その場を管理したものの責任など、大したことではない。一人の親とすれば。

 しかしケイロウは、ただの親ではなかった。領主であり、権力を、権威を守る必要がある。

 そしてタンゲは領主の息子であり、親に甘えることはできないのだ。

 何かが歪にさせているはずなのに、それを言い始めれば、この世の全てが歪だった。

 あるいは人を切ることに全てを賭す自分さえもが。

 では、歪ではない世界とは何だろう。

 暴力、財力、権力、野望、野心。

 そういう全てが意味を持たない世など、あるのだろうか。

 例えば、愛だけで成り立つ世。

 馬鹿な、と思わず呟いていた。

「馬鹿な」

 もう一度、言葉にして、俺はその妄想を振り払った。




(続く)

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