第30話 洞察
◆
タンゲとの稽古の中で、短い休憩を取ることはある。
お茶が用意されるのだが、これはモモヨが持ってくることが多い。彼女もタンゲの稽古が気になるのだろう。しかし俺には何も言わない。もちろん、タンゲにも。励ましもしない。ただ無言で様子を見て、静かに去っていく。
俺がこの辺りで、というところで声をかけて稽古を止める。まだ体力が足りないので、タンゲの動きが鈍くなり、木刀の先が定まらなくなってフラフラ揺れるようになる頃合いだ。そのまま続けても、技は身につかない。俺自身が、そう教えられた。
モモヨは質素にも茶しか用意しないので、俺とタンゲで庭に面した廊下に並んで腰掛け、湯呑みを手にする。いつもだいたい、お茶は冷えているが、タンゲは汗まみれだからちょうどいいだろう。
「よろしいですか、先生」
いつの間にかタンゲは俺を先生と呼ぶ。恥ずかしいが、止めなかった。止めたところで、タンゲは心の中でその呼び名を変えない。師弟とはそういうものだ。
その敬う心に、俺には応える必要があるのは理解している。しているが、実際には難しい。
俺は彼の成長も、結果も、見ることはない立場なのだ。
師とは言えない。真似事をしているだけだ。
「なんだ?」
促すと、タンゲはハキハキと喋る。いかにも利発だった。
「先生は、アマギ殿を切られたのですよね。ゼンキ殿という高名な剣士も切ったと聞きます」
「それがどうした」
「それだけの腕をお持ちなのに、カイリ殿に何故、破れたのですか?」
適当にごまかすこともできたが、勉強になるだろうと、正直に打ち明ける気になった。
「ゼンキとアマギ殿は同門だ。そしてカイリ殿はゼンキの弟子だったことがある」
「はい」
「俺はまずゼンキを切った。かろうじて勝った、というより、生き残ったから勝ったことになった、というところだ。ともかく、俺はゼンキの技を目の当たりにした。その次に、アマギ殿の剣を前にして、俺はゼンキの剣との共通点を見つけたんだ」
「それは、光陰流の弱点ということですか?」
そうでもない、と俺は応じる。
「弱点ではない。ただ知っていただけだ。ここでこう返せば勝機があるだろう、と。確信でもないし、きわどい賭けだが、賭ける価値はある。斬り合いなど賭け事のようなものだしな。で、俺は賭けに勝って、アマギ殿を切ることができた」
タンゲは俺の横顔をじっと見ているようだが、俺は庭の石を見ていた。
「そのあとに俺の前に来たのがカイリ殿だった。刀を抜いて向かい合い、俺は彼の技を観察しようとした。瞬間、俺にはカイリ殿が、アマギ殿やゼンキと重なって見えた。どうしてからは知らないが、無意識に考えたんだろう。ゼンキとアマギ殿が同門で同じような技を使うなら、ゼンキと繋がりのあるカイリ殿も似た技を使う。しかしそれは愚かな先入観、勘違いだった」
「勘違い?」
「カイリ殿の技はカイリ殿の技だった。あの俺が錯覚した場面が、意図的なものか、偶然かは知らないが、俺は早とちり、早合点したんだな。つまり、ゼンキを切り、アマギ殿を切り、対処法は確実だと錯覚したんだ。俺は亡霊の技を切ろうとしてカイリ殿に襲いかかり、実際にはまるで別の技が来た。それで、少しの対処もできなかった」
俺が口を閉じると、タンゲも言葉がないようだった。
沈黙したまま、俺はもう一度、自分がした説明を思い返した。こうやって言語化してみると、自分の愚かさがよくわかる。観察が重要だと言いながら、俺はカイリを見ていなかった。まさに亡霊を見ていたのだ。
我ながら、よく死ななかったものだ。
「しかし」
タンゲの声に含まれる否定的な様子に、俺は彼の方を見やった。
彼はまっすぐに俺を見た。迷いのない、信頼に満ちた眼差しだった。
「先生は今も生きています」
「だから?」
「本当の意味では負けていないと、私は思います」
またその理屈だ。
ケイロウも同じことを口にした。それは別にケイロウとタンゲが親子だからではなく、一般的な観察だ。負けとは死であり、死んでいない限り負けではない、という理屈だ。
俺がそれに懐疑的なのは、俺自身のことだからだろうか。
俺は確かに生き延びた。
しかし負けたと思っている。
生きているのは偶然に過ぎない。
「負けは負けだ」
短く応える俺に、タンゲがすぐに言葉を返す。
「しかし、また挑めるではないですか」
「拾った命は大事にしないとな」
冗談めかして答えたが、タンゲは若干、不服そうだった。
俺はゆっくりと湯呑みを口元へ運び、冷えたお茶で唇を湿らせる。
勝ちも負けもない。そう思うこともある。
生きるか死ぬか。それが重要だ。
死なないで済めばそれでいい。
「カイリ殿には勝てないと、そう先生は思っているのですか」
踏み込んでくるタンゲに、俺はわざと考えるそぶりをして見せた。
どう誤魔化そうか。
カイリに勝てるか勝てないかは、はっきり言ってわからない。それこそ風向きのようなもので、ある時には負けるかもしれないが、ある時には勝てるかもしれない。
挑むか挑まないか、というのも選択できるが、答えは出ない。カイリに俺が改めて挑戦する理由は今のところはない。ケイロウなどは無理やりにでも俺とカイリをぶつけたいようだが、まだ俺の裁量が残されている。
挑まないまま、ハバタの街を出ることで、俺が失うものは何もない。
一度の敗北の記憶と経験があったことを、後で感謝するだろう予感もしていた。それほど、カイリに敗北したことは、意味のある敗北である。生きていることに感謝することさえもできそうな、そんな重大な意味。
「勝てるかは、知らないな」
長い沈黙の後、俺がそう言葉にするのに、タンゲは納得できないようだ。
「なんとしてでも勝とう、とは思わないのですか」
「なんとしてでも勝とう、と思ったとしても、勝てるわけではない。そうだろう?」
「気力で相手は切れない、ということでしょうか」
「知ったようなことを言う」
俺が茶化すのにタンゲはちょっと微笑んだが、言葉はない。
さ、続けよう、と俺は稽古を改めて始めるように促した。
日が暮れかかるまで、タンゲは稽古を続けた。稽古が終わると、彼は礼儀正しく去っていった。
ある日の夕方には、入れ違うようにチセがやってきて、お茶をどうぞ、と湯呑みを持ってきた。この時は、菓子も添えられていた。
「兄上の様子はどうですか」
口調には好奇心が満ちている。チセもタンゲの稽古に興味があるのだ。
「一朝一夕では結果は出ないよ」
そう答えると、チセは途端に不服そうな表情に変わる。
彼女は頬を膨らませて、少し話をして、空いた器を手に去っていく。
俺は彼女を笑みで見送り、この時も一人になると庭に出た。そうすることはいつの間にか日常になり、何があろうと、俺は毎日、庭へ出ていた。雨の日さえも、出たのだ。
腰に刀を帯び、ゆっくりと刃を抜いていく。
構えて、体の動きを止める。
呼吸を意識して。
感覚を鎮め、眼を細める。
見えるものは見えなくなる。
見えてくるのは、無数の幻。
体を動かすことはない。
じっと幻を見つめる。
ゼンキの剣でもアマギの剣でも、カイリの剣でもない。
未知の剣。
実在するかも不明の剣。
しかし強い。
刃が宙を走る。素早く、あるいは緩慢に。
返す技。
受ける技。
避ける動き。
仕切り直すように。
あるいは最低限の動きで。
反撃を含んで。
ひたすら刃を見つめ続けた。
知らない筋から、駆け抜ける切っ先が頬を撫でる錯覚。
次には袈裟に切り捨てられている。
しかし生きている。
ふっと息を吐き、俺は現実に戻った。
すでに日が暮れて周囲は薄暗くなっているのに気づいた。剣を構えるだけで、思ったよりも時間が早く過ぎていく。
刀を鞘に落とし、ゆっくりと振り返ると、この日は廊下にお茶と菓子がそっと置かれていた。おそらくチセが持ってきたはずだが、その姿はない。やれやれ、人の存在に気付かないとは、俺も正気を失いつつあるかもしれない。
もっとも、剣士など、みな、どこかに歪なものを持っている。
全身が重くなっているのを感じながら廊下へ戻ろうとすると、不意にチセが廊下を渡ってきた。まさか俺の一人の稽古が終わるのを待っていたのか、と思ったが、そうではない、怒った顔をしている。
「食べ物を粗末にするのはいけませんよ!」
甲高い声に、思わず首をすくめてしまう俺だった。
「申し訳ない」
謝罪すると、チセについていたそばに控える少女がクスクスと控えめに笑う。チセはまだ怒っているようだったが、俺が素早く茶を飲み干し、菓子を口に放り込むと、ちょっと笑って器を手に元来た方へ戻っていった。夕食に行くついでに俺の様子が気になって見に来たのだろう。
俺は廊下に腰を下ろし、口の中の菓子を咀嚼した。冷えた茶を飲んだせいか、少し首元が冷えた。そうか、茶菓子を充実してもらえば昼間の空腹を解消できるかもしれない。しかし、チセに頼むと何かの時にまた怒られそうだった。
菓子を完全に飲み込み、俺は立ち上がって廊下へ上がった。
俺も夕食の時間だ。
(続き)
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