第23話 訪問者
◆
城に与えられた部屋で目を覚ました時、自分がどこにいるか、すぐに思い出せなかった。
ハバタの街の旅籠の狭い部屋とは違い、遡ってみれば旅の中で泊まったどの部屋よりも広かった。そう、余剰な空間が大きいのだ。布団が小さいように見えるが、広いのは部屋だ。
起き上がって、勝手に布団を畳んで廊下に出てみた。
静かだ。飯を炊く匂いがする。食事を出してもらえるはずだが、どこで食べるのだろう。こちらから歩き回るのは、落ち着きがないと思われるだろうか。それ以前に見張りがいるはずだが。
仕方なく部屋に戻り、寝転がってみた。
時間の流れが緩慢に感じる。
静かな足音が聞こえたので、体を起こした。
城の道場で稽古をつけている時に見たような気もする女中がやってきた。桶を持っている。そう、顔を洗えということか。
礼を言って顔を洗い、女中はしずしずと桶と手ぬぐいを持って去っていった。しかしどうも落ち着かない。この城での日常は俺とは縁遠いもので、とても馴染めるとは思えない。
次に料理が運ばれてきた。三人の女中が来たが、一人は先ほどの女中だ。
思い切って次の食事はいつかを聞くと、誰一人、ピクリとも顔を変えずにいる。冗談めかして言ったのわけで、笑ってほしいところだった。
返事は「夕食になります。もし何かございましたら、お申し付けください」というものだった。取りつく島もない。
食べ物が欲しいと言えば、適当に何かを出してくれるのだろうが、嫌な顔をされそうだ。しかしこの城の中にいるのでは、街の中で適当に饅頭を食うとか、団子を食うとかも出来なければ、鍋を食うとか、蕎麦を食うとか、そういう選択肢もありえない。
出されたものをおとなしく食って、耐えるしかない。そう心を決めた。
食事が終わるまで一人の女中が待機しており、食べ終わると丁寧に膳を下げていった。
また一人だ。こんなことなら、何か、暇つぶしになりそうなことを女中に確認するんだった。書物の一冊や二冊、普通にあるだろう。
仕方ないから城の中をうろついてやろう、嫌がらせだ。
そう決めて立ち上がろうとした時、「失礼します」と声が聞こえた。幼い声だ。少女。
どうぞ、と応じると、障子が開いて立派な着物の少女の姿が現れた。女中や下女の服装ではない。控え目だがきらびやかな着物を着ている。裾を少し引きずり、しずしずと部屋に入ってくる様子を、俺はただ見ていた。
何が始まったのか、見当がつかなかった。
まだ火鉢が必要な寒さではないが、襖や障子を開け放しておくと冷気を感じる。少女も襖を閉めた。少女は一人だから、自分で襖を閉めたのだが、誰も連れていないのが不自然だ。
彼女は俺に向き直り、静かに膝を折ってゆっくりと頭を下げる。
「チセと申します」
「オリバです」
そう反射的に答えてから、服装、所作からして、自分の無作法が間違いだと気付いた。
「失礼、オリバでございます」
チセが顔を上げる気配。
「楽になさって、オリバさん」
は、と答えて顔を上げる。もう一度、少女を確認した。年齢は十四、五だろうか。整った顔立ちをしていて、肌も白い。どことなく都を連想させる。着物はもちろんだが、目の配り方や所作、ささいな身振りなどが十分な稽古を意識させた。
「チセ様は、ケイロウ様の……」
言い淀んだのは、わざと答えを引き出すためだったが、チセはそれに躊躇なく乗ってきた。
「ケイロウは父です。オリバさんのことは前から聞いていたけれど、会うのは初めてですね」
「恐縮です」
頭を軽く下げながら、娘か、と考えていた。顔が似ていない。
俺が不躾なことを考えているところへ、スルスルっとチセが間合いを詰めてくる。大胆だけれど、無邪気で、雰囲気は好奇心に満ちていた。
「ねえ、オリバさん。あなた、ずっと旅をしてきたのでしょう?」
どうやらこの少女は俺とお話がしたいらしい。
実にのどかで、純真なことである。
「ええ、それは、その通りです」
律儀に答える俺に、チセが目を輝かせた。
「何歳から旅をしているの?」
「十五ですね」
「十五!」
パッとチセの顔が明るくなり、「今の私と同じ年!」と叫んだ。
「路銀はどうしたの? 誰かと一緒に旅に出たの?」
「路銀は半月分だけ我が師が工面してくれました。旅は最初から一人です」
「十五で一人で旅を始めたの? 夜は、旅籠に泊まって?」
「そのような余裕はありません。野宿をすることもあれば、納屋を借りることもありました。街の路地で寝たこともあります」
「でも路銀はあったのでしょう?」
不思議そうにするチセに、俺は思わず笑っていた。彼女は本当にケイロウの娘で、世間を知らないようだ。
「路銀があるとはいえ、潤沢ではないのです。節約できるときは節約しないといけない。それでも最初の路銀は一ヶ月でなくなりましたが」
「じゃあ、働いたのね」
「そうですね。堤を築く工事に人夫として参加しましたし、糞尿の処理をやったこともありましたね」
へぇ、とチセは目を丸くしている。
「そんなことをして、どうやって剣の道を究めるのですか?」
これには今度は俺が笑ってしまった。
「剣術を究める方法は、誰も知りませんよ。それぞれの剣士が、それぞれにこの道だと思ったところを選んで、そこを進んでいるのです。だからほとんど全ての剣士が剣術を究められない。途中で挫折するか、挫折しなくても、答えが出ない道を選んでいるので、どこにも辿り着かない。そういうこと」
難しいのね、とチセは感心しているようだった。
少し黙り、チセは上目遣いにこちらを見た。
「オリバさん、あなた、アマギさんを切ったって、本当?」
必要以上に怯えさせる必要はないが、事実を隠す理由もない。
「切りました。こちらも手傷を負いましたが」
「どのような傷?」
チセの顔色は明らかに悪くなっていたから、少し躊躇ったが、俺はぐっと着物の襟を開いて左肩を見せた。
チセが驚いた顔になり、言葉をなくしていた。
「この傷が、アマギ殿に切られた傷跡です。深い方の横にある、新しい方です」
「隣の大きな傷跡は?」
「これは、また別の剣士から受けた傷です」
「本当に、深そうね」
「ええ、数日、私は意識を失っていました。運良く、腕のいい医者がいたので助かりました」
そうなのですか、とチセはまだ俺の方から目を離せないようだった。
「それだけの傷を負って、今はもう痛まないのですか?」
「雨の日に微かに痛む気がしますが、それだけのことですね」
「動きに支障はないの?」
「医者の腕が良かったか、偶然か、あまりありませんね。以前、やはり傷に興味を持ったものが驚いていました。引きつったりして、動きが悪くなるはずだが、とそのものも言っていました。俺は幸運だったようです」
そうなんですか、とチセは興味が尽きないようだが、「どうぞ、元に戻してください」と声があったので、俺は襟元を正した。
「オリバさんはいつまでこの城にいるの?」
「さあ、それはケイロウ様が決めることです」
「あなたは罪人としてここにいる、と聞いていますよ。いつか処罰されるのですか?」
難しい問いかけだった。まさかケイロウが娘を利用して俺の真意を探ろうとしているのだろうか。ここまでのやり取りからして、チセは自分の知りたいことを質問しているようにしか思えない。つまりケイロウが背後にいるというのは、俺の妄想か。
それでも気をつけておくべきだろう。
「処罰するなら、それもケイロウ様が決めること。俺はつまり、あの方の言いなりということですね」
「父は気まぐれですから、いつかあなたを解放するかもしれません」
チセは言いながら困ったような顔になっていた。
「もしこの城を出ることができたら、そのまま、遠くに逃げた方がいいですよ、オリバさん」
少女の真剣な忠告に、肝に銘じておきます、と俺は頭を下げておく。
その時、廊下からまた足音が近づいてくるのが聞こえた。
俺は改めてきっちりと着物を直し、それを待ち構えた。
果たして襖が開くと、そこには青年が立っていた。
どことなく面影にはチセに近いものがあるのが見て取れた。
もっとも、その眼差しの鋭さは、まるで違ったが。
明確な敵意がそこに渦巻いていた。
(続く)
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