第21話 鬼
◆
灯りを消そうと思った時だった。
足音がした。それも小さな足音ではない。
俺は反射的に刀を引き寄せ、素早く灯りを吹き消していた。
足音が俺の部屋の襖の向こうで止まり、静寂。いや、一階で誰かが大声で話をしているのが聞こえる。片方は怒鳴ってるようだが、聞き取れなかった。
「オリバ様」
声は襖の向こう。
男、ではなく、少女のそれだった。
静かに立ち上がり、襖を薄く開く。
想像通り、そこにいるのは例の幼い下女だった。ひとりきりだ。こういう時、襖の向こう側に誰かが隠れていて、襖ごと刺し貫かれる場面もまるので警戒が必要だったが、すっかり失念していた俺も迂闊だ。
しかし奇襲がないのには、助かったと言える。
「変な剣士が、オリバ様をお探しです」
下女の声は少し震えていた。斬り合いになるのを恐れているのだろう。
「逃げることはできるかな」
俺が冷静に問いかけると、こちらへ、と下女が立ち上がった。
俺は素早く廊下に出る。少しでも時間を稼げれば、と襖をそっと閉めた。
宿の料金は既に支払ってある。宿のものとしては、このまま俺がこっそりいなくなれば、損得はないだろう。もしかしたら俺を逃したことで損をするかもしれないが。
下女は足音を消して進む。意外に巧みな忍び足だった。
どこへ向かうかと思うと、中庭に面した部屋に入った。宿泊客のいない部屋らしい。
部屋を横切り、奥にあるを戸をそっと開く。その向こうは中庭だが、二階なのでわずかに高さがある。しかし降りられないわけではない。
「庭に裏手に回る道筋があります。裏手の板塀に、戸がありますから、そこから逃げてください。路地を右手側に行けば、表の通りに出ずに街を出られるはずです」
実に大雑把な説明だったが、感謝するべきだろう。
すまない、と小声で伝えると、下女は一度頷き、それから「ご無事で」と言葉を続けた。
俺は身を乗り出し、飛び出した。
中庭に降りる時もほぼ無音だった。衝撃を殺すために膝、肘、肩、背中と転がったが、うまくいった。
起き上がって足早に中庭から裏の庭へ。剣の稽古を一人でしていた場所だ。
板塀に沿って進むと、下女が言った通りに戸があった。
そっと開ける。わずかに軋むが、小さな音だ。
戸の向こうは路地だった、右へ行け、と言われた通りに進む。
灯りを持っていないので、周囲には闇がわだかまっている。
足音を消したまま進む。無意識に胸に手をやり、財布の有無を確認した。銭がなければ旅などできない。財布は懐に収まっていた。
路地の行き止まりは細い道で、ハバタの街に短くない時間、逗留していたので位置関係はわかる。ここなら大通りを使わずに逃げられそうだ。
そう思った時だった。
建物の陰からやおら立ち上がったものがいる。
体格からして男。
すでに刀を抜いていた。
問答無用とばかりに、男が切りかかってくる。
半身になって刃を避けた。続けざまの振りを後退して空を切らせ、こちらも刀を抜く余地ができた。
白刃を向け合う。
全くの素人の技でもないが、洗練されてもいない。
お互いが闇の中でお互いだけを見て、間合いを加減する。
仲間を呼ばれると厄介だと思ったが、男にその素振りはない。指笛の一つでも吹けば、俺としては非常に困難な立場になるのだが、それをしようとしないのはなぜなのか。
仲間がいないわけがない。宿に少なくとも一人はいたはずだ。
そもそも誰が俺を襲っている? 大前提として、本当に俺を襲っているのか? 目の前にいる男は刀を抜いて、俺だけを見ている。なら俺を襲うつもりだったと見るしかないが、何もかもが噛み合わない。
まったくの不自然だった。
男は俺の疑問を無視して、声を発さずに踏み込んでくる。
横薙ぎと、それに続く二回の刺突。
やはり練度は感じるが、無駄が多い。
この技は道場や一流の使い手から学ぶ技とは違う。
もっと実戦的な、戦場に立つことで身につくような技に見えた。
しかし見物しているわけにはいかない。
横薙ぎをやり過ごし、一度目の刺突も避け、二度目の刺突には刀を合わせた。
火花が散り、横へ相手の刀を受け流しながら間合いを潰す。
手首を捻って相手の刀を巻き取り、跳ね飛ばした時には肩から相手の胸にぶつかっていた。
刀が宙に舞い、男が尻餅をつく。
その鼻の先に切っ先を突きつけた。
「どこのものだ。何が目的だ」
問いかけるが、男は無言。かすかな明かりの中で、瞳だけが輝いている。
殺す気はないが、口を割らせるには脅さなくてはいけないか。
そう思った時、背後の空気が動いた。
振り向きざまに刀を振り、頭上からの一撃を払いのける。
激しい火花に人の姿が一瞬、照らされる。
不意打ちを仕掛けてきたもう一人の男が、さっと間合いを取り、俺と正対する。尻餅をついていた方も跳ねるように立ち上がると、転がっている自分の刀に飛びついた。
二対一。
これで殺さずに済ませるのは困難になった。
腹が立った。
剣の道を汚す行為だ。
血で汚す、耐え難い侮辱。
考える必要はない。
二人が前後で俺を挟んでいる。
合図もなく、声もなく、二人がわずかな時間差で突っ込んでくる。
一人が倒れても、もう一方が俺を倒せばいいという理屈か。
非情とはいわない。合理的というべきだ。
しかし、幻想だ。
俺の体が動く。
前方からの一撃にこちらから踏み込み、斬撃をわずかに跳ね上げる。
反転して、後方の敵へ。
こちらは俺の動きのせいでわずかに間合いをずらされ、攻撃に不自然さがある。
刀を突き出す。相手もほんのわずかな差で切っ先を繰り出してきた。
刃がすれ違うが、構っている暇はない。
もう一度、振り返り、もう一方が繰り出す刃を避ける。先ほど、跳ね上げた時に刀がどの位置にあるかは把握していた。刀は常に連続して動く。だから位置さえ把握していれば、次にどの範囲に刃が向かうかは予想できる。
極限の集中力が、俺を動かした。
一撃が空を切った男の首筋を切っ先が走る。
血が一筋、夜の闇に散る。
振り返ると、もう一方の男は片手で刀を構えて、こちらを見ている。一方の腕は動かないようだ。刺突がすれ違った時、おそらく肩だろう、刺し貫いた手ごたえがあった。もう戦えまい。
俺の背後で鈍い音を立てて男が倒れる。首筋の傷は致命傷だ。
無言のまま、俺は残る一人に踏み出そうとした。
切るのは容易い。
技術的にはもちろん、今の精神状態なら、何の呵責もなく命を奪える。
鬼だ。
無意識の悪意が心を支配し、心はそれを受け入れている。
嫌悪、憎悪、そして怒り。
剣を何のために学んだのか。
何のために剣を取るのか、考えたことはないのか。
一歩、前に進んだ。
最初、その音は小さかったがあっという間に大きくなった。
足音だ。それも一つや二つではない。数十の足音。それが周囲から迫ってくる。
細い通りが明るくなり、それは無数の提灯によるものだった。
狭い空間を瞬く間に武装した男たちが埋め尽くし、俺を取り囲んだ。
賊ではない。これは、ハバタ家の兵士だろうか。装備は完全にではないが、統一されている。
俺は彼らを睨みつけ、九死に一生を得た襲撃者が痛みに耐えきれずに膝をつくのに忌々しいものを感じながら、刀を鞘に戻した。
「オリバ殿!」
どこかから声がする。俺を取り囲む男たちを指揮しているものだろう。
「ケイロウ様からのお指図である! 城へ参られよ! 今夜の件について、直々にうかがいたとのことである」
「今夜の件とは何か!」
俺が怒鳴り返すと、男たちが短くざわめいた。
それでも指揮するものは動じなかったようだ。
「城下での刃傷沙汰に関することである!」
バカな、と思わず小さく罵っていた。
俺のすぐそばで、首を切られた男が血だまりを作って倒れている。切ったのは俺だ。刃傷沙汰はあった証拠以外の何物でもない。
しかしそれはついさっきのことだ。城に知らせがいくような間もなければ、こうして武装した男たちが駆り出される間もない。
予知していたのだ。
つまりこれは、謀だ。
「刀を地面に置かれよ!」
男の声が響く。
俺は刀を鞘に納めたまま、腰から抜いて、そっと地面に置いた。
男たちが間合いを狭め、俺を取り囲む輪を一気に絞った。彼らの足元に俺の刀はすぐに見えなくなった。
無数の男たちと提灯の明かりに囲まれて、俺は城への道を進み始めた。
街はこれだけの騒ぎなのに、静かだった。
人が人を切るところなど、好んで見るべきではない。
本来、あってはならないことなのだ。
冷たい風が吹いて、俺は自分が汗にまみれていることに気づき、風の冷たさ以上に体が熱を持っているのに、やっと理解が及んだ。
刀は、人を人ではなくするのだと、改めて思った。
(続く)
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