第20話 野心

      ◆


 いかがですか、とホタルがひそやかな声で言う。

「ケイロウ様を切ることはできますか」

 まさか、と俺は思わず笑い混じりに言っていた。

 笑ってしまうほど、大胆で、冗談のような話だった。

 しかしホタルは真面目な顔のままで俺を見ている。

「あの方の技量は大したことはありません。家臣たちもです。正面からでも切ることができるでしょう」

「ですから、それを実行する必要がない」

 好機を捨てるつもりですか、とホタルが詰めてくる。予想外の言葉去った。好機?

「何の好機です」

「領主を切れば、そのものが領主となる」

「それこそ馬鹿げている。そこまで単純なものではないでしょう」

「しかしきっかけとしては十分です。ケイロウ様、その取り巻きの家臣を切り捨てれば、まったく新しいものがハバタの街を治めることになる。そうではないですか」

「それでもまだ単純化のしすぎです。切られたものの縁者が黙っていない。血で血を洗う、悲惨な争いになります」

 俺の指摘に、ホタルは平然としていた。想像のうちだったのだろうし、織り込み済みだったのだろう。

「その争いを無意味だと思わせるものが、剣ではないのですか。優れた使い手の、その威光によって、凡百のものは従うはずです」

「それは理想というものです、ホタル殿。我々、剣を取るものが考えるほど、世間のものは剣というものを意識しない。優れた剣術の崇高さなど、剣を取らないものにはわからないのです」

「そうでしょうか。何が優れ、何が正しいか、剣は示せるはずです」

 自然と食い下がるホタルに、俺は歯がゆいものを感じた。

 彼女が口にしていることは、現実に全く即していない。

 いわば、願望と理想で編まれた物語なのだ。夢と言い換えてもいい。

 彼女がおそらく超一流の使い手であり、同時にその技を一度も実戦の場で使っていない、という矛盾が彼女に夢を見させるのだろうと想像できた。

 敗北を知らず、絶望を知らず、苦悩さえも知らない人間の願望だ。

「オリバ様がどのように考えておられるにせよ、あの方は違うようですよ」

 どう諌めようと思ったところへのホタルの言葉に、俺は思わず彼女を睨んでいた。

「あの方、というのは、カイリ殿のことですか」

「あの方は剣術というものをよくご存知です」

 カイリがケイロウを切る気になっている?

「それを人は、野心と呼ぶのではないですか」

 ホタルは普段通り、いや、超然としていた。

「野心のない人間など、死んでいるようなものです。オリバ殿もやはり、ある部分では死んでいますね」

 冗談としては笑えないこともないが、ホタルが真剣なのだから、笑うことはできなかった。

「無駄な混乱を引き起こすだけです。おやめなさい」

 俺が言うことではないとは思うが、指摘する。それが最低限の、そして唯一の俺にできる抵抗だった。その抵抗を前にしても、ホタルは全くの平静だった。

 平静に見える、狂気。

「数年前まで、この世は乱れていたのです。今の平穏など、一時のことでしょう。また力で全てを変更する時代が来ます。野心と行動こそが、自分を高め、上昇させる原動力になるのです」

「ホタル殿は、流血ということをご存じないのですが」

 ホタルの表情に浮かんだのは、冷ややかな色。

 それは言葉を探せば、軽蔑だった。

「オリバ殿が、父を切ったのですよ」

 そうなのだ。

 それが全てではないが、俺は自分の技のため、好奇心のためにアマギを切った。

 それは正しいこととは言えない。

 分かりきっていたことだ。

 ケイロウの言葉があったからこそ、立ち合いの場が生まれたし、それは拒絶ができないものとなった。

 もしそれがなければ、どうなっていただろう。

 そもそも、ここに辿り着くまでの旅の間に、何度となく刀を抜いて、人を切ってきた。そこには強制などないこともあったし、同意すらないこともあった。

「オリバ殿」

 ホタルの声が、近く、遠く、重なり合う。

「あなたは何のために剣を手に取るのですか。より強いものを切るためではないのですか。自分を向上させるためではないのですか。栄達のために剣があるのではないですか」

 違う。

 俺の剣は、そんなもののためにあるのではない。

 では、何のためにある。

 未来のためではない。

 明日のためでもない。

 剣と剣を向け合う、ほんの短い一瞬を、生き延びるためにある。

 剣術を高めるのは、生きるためだ。

 より良い暮らしとか、地位や名誉さえも、関係ない。

 技を探すのも、技を理解するのも、最後の最後に生き延びるためか。

「あなたは、何人もを切ったはずです」

 ホタルが言葉を続ける。

「切ったのは、何のためですか。より高みを目指すためではないのですか。あなたの個人的な満足のために、大勢を倒し、その上に立っているのですか。それで敗れたものは報われるのですか。自らの死を誇れますか」

 ホタルがどこにいるのか、見えなくなっていた。

 俺には権利がない。

 人を切ってきたのは事実。命を奪ったのだ。

 どうして切ったのか。

 俺が流血を求め、受け入れ、押し付けただけだ。

 ホタルの理屈は、わかる。上に立つものを倒し、自らがその座を継ぐのはないことではない。そこに流血が伴うとしても、それさえも全くないことではない。死が量産されてることさえも、当たり前の時期があった。

 しかし俺にはそれに挑む力はないようだ。

 一人と一人としてなら、剣士と剣士としてなら、刀を抜ける。

 一人を屈服させるのには、力を出せる。生き残るためなら、力を絞り出せる。

 しかし、領地や地位のためには俺は何の力も出せない。

 領地も地位も、支配も権力も、求めていないのだ。

 失礼する、と言葉にした。ホタルは無言。

 狭まっていた視野が広がり、静かに座っているホタルが見えた。彼女はわずかに頭を下げた。

 俺は一礼して、立ちあがった。

 部屋を出て廊下を進む。下男も下女も姿がない。門のところには例の老人が待っていた。ホタルの指示、人払いとそれに付属する指示があるようにも見えたが、もう俺とは無関係だ。

 俺が通用口から外へ出ると、背後で戸は閉まり、老人が閂をかけたようだった。カイリが帰ってきたらどうするのかも、俺とはもう無関係。

 昼間で、食事を取って帰ることにした。もう店のものと顔見知りになっている蕎麦屋で、素早く済ませ、宿へ戻った。

 建物に入ったところで、番頭の男性に「明日には発とうと思います」と声をかけた。番頭はちょっと驚いたようだったが、「はい、承りました」と丁寧に頭をさげる。先に銭を払いたいから、と告げると、夕食の後にお支払いください、とのことだった。

 自分の部屋に上がり、戸を開いて寝転がった。

 風が吹き込んでくる。もう秋の気配は完全に過ぎ去ろうとしている。

 長くハバタの街に滞在したが、後味の悪いものになった。

 剣術というものが、ただ相手を切るだけの技ではないと、知らされたようなものだ。

 相手を切る技術だとしても、切るには理由があり、切れば因縁がまとわりつき、剣術に基づいて剣を振るうことで、余計なものがこれでもかとまとわりついてくる。

 ゼンキを切った時、そういうものは何もなかった。

 ゼンキが世間と縁を切っていたからだろうか。

 あるいは世間の中にいる、集団を作るということは、ある種の剣を鈍らせる防御なのだろうか。様々なしがらみを用意して、剣を向けてくるものを先に縛り上げて、身動きを取れなくする。

 ケイロウが強い剣士を求めるのは、あるいは何かを防いでいるのかもしれない。

 少ない流血で、大きな効果があるのだ。あるいはそれは、恐怖による支配かもしれず、そうでなければ残酷さによる威圧かもしれない。

 支配者、権力者というのは、そういう防御を常に意識するものなのだろう。でなければ、今いる地位から転落してしまう。常に身を守り続けないといけない立場なのだ。

 これもまた一つの学習、ということか。

 ひときわ強い風が吹き込んできた。

 冷えた、透き通った空気だった。



(続く)

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