第19話 血に塗れていない剣

      ◆


 屋敷の通用口の戸を叩くと、少しして物音がして、それが開いた。

 老人である。以前にちらりと見たことがある。下男下女を取りまとめている立場のようだった。

「傘を返しに参りました」

 そう告げると、老人は「お預かりします」と頭をさげる。

 傘だけを渡すわけにもいかない。

「いえ、ホタル殿とお話ししたいことが」

「お嬢様からうかがっています、中へ、さ、どうぞ」

 これは意外だった。ホタルは屋敷のものに俺が来ることを伝えてあったのだ。確信があったのか、予防線なのかは、判然としないが、都合がいい。

 老人に傘を渡し、俺は通用口を抜けた。

 屋敷に上がり、今度は少女が俺を連れて奥へ進む。

 入ったことのない一室に通され、少し待っていると足音がしてから襖がほとんど音を立てずに開いた。

「お越しくださいましたね」

 俺の横を抜けて、向かいに立ったホタルが静々と座る。俺は頭を下げた。

「傘を返す、という理由だけで押しかけて、申し訳ない」

「いいえ、こうでもしなければ、あなたはここへ来ることはないと想像していましたから」

 頭を上げると、ホタルはやはり無表情にこちらを見ている。

 作り物めいた顔の作り。感情がうかがえない。

「一つ、気になることを聞きました」

 俺の言葉にも、わずかにも表情は動かなかった。

「どのようなことでしょうか」

「ホタル殿が、剣術を修めている、という話です」

 不意に、クスッとホタルが笑う。口元を隠すことさえした。

 その様子は明らかに人の上に立つ立場にいる、洗練された女性の所作である。

 とても刀を振り回して相手を切るような人間には見えない。

「どなたが、そのようなことを」

 俺は宿の下女の話から始めた。ホタルは穏やかな表情で聞いている。

 下女がきっかけとなり、次に銭湯で町民と話したこと。

 剣術道場の老人のうわ言のような言葉。

 結局、結論は出ずに、こうして当のホタルに直接に訊ねている、ということ。

「あなたもおかしな方ですね」

 ホタルは静かな調子で言う。

「私が剣術を修めていて、それであなたにどういう関係が生じますか。父を切ったように、私を切りますか」

「そのようなことは考えません」

「では何故、私が剣術を身につけているかを気になさるの?」

「アマギ殿の剣のことが、気にかかるからです」

 またくすくすとホタルが笑う。しかし目元はほとんど変化しない。それが不自然で、歪な表情に見える。

「父の剣が失われたことが気がかりだ、ということかしら。父を切ったのがあなたですよ。自身で切ったのに、気にかかる?」

「切りたくなかった」

「ならあなたが切られれば良かったでしょう」

 どうやらホタル流の冗談らしい。俺をからかっているのだ。

「話を戻しましょう、ホタル殿。あなたは剣を身につけたのですか?」

「父の手ほどきは受けましたよ。だからなんだというのです?」

「その身につけた技は、何のための技です?」

「人を切るための技です。剣術とはそういうもの」

 人を切るための技。

 ホタルの技は、あの街の道場で繰り返されるような技ではないのだ。

 実践的であり、流血を伴う技。

「アマギ殿はなぜ、あなたにそれを?」

「才能があると、父は繰り返しました」

 俺の頭の中で、師の言葉が響き、幾重にも反響する。

 才能がある。俺もその言葉を何度かぶつけられた。

 お前には才能があるのだ。それを無駄にするな。お前にしかできないことがある。お前は人が立てない場所に立てる。

 励ましでも、叱咤でもなく、まるで何かをすり込むように繰り返された言葉。

 それを聞くたびに、自分のことがわからなくなったものだ。

 自分に才能があるかなど、自分ではわからない。

 人を切っていく中で、少しずつ、何かが形になったものの、その血と死がなければ、俺はずっと不安定なままだっただろう。

 では、ホタルはどうなのか。

「人を切りましたか」

 俺の言葉に、ホタルは目を細め「まさか」と小さな声で言った。

「人を切るような場面など、女の私にはありませんよ」

「あなたの剣は、血にまみれていない剣ですか」

「ですが、必要とあれば」

 ホタルがわずかに気配を硬化させた。

「切りますよ」

 刃のように怜悧な言葉だった。

 必要とあれば、切る。

 そううまくいくだろうか。

 刀を抜くこと、抜き身の刀を構えること、振りかぶり、振り下ろすこと。

 その全ての段階に、抵抗が伴う。

 刀は人の命を奪うものだ。刀を取るとは、人を傷つけることである。

 何の躊躇いもなく人を傷つけ、命を奪えるとしたら、それまさに才能である。

 冷酷、非情、そういうものはある種の才能なのだ。

 ただ俺には、ホタルにその素質があるかはわからなかった。

 刀を扱うこと、体を扱うことに恐ろしく長けているものは、今までに何人も見てきた。ゼンキなどはその中でも高みに位置する、稀な使い手だった。

 そのゼンキのまとっていた気配と同じものがホタルにあるかと言われれば、重なる部分もあるが、全く異なる部分もある。

 二人に共通するのは、不自然なほどの落ち着きである。どこか深いところにあるもの、心の重心のようなものがピタリと止まったまま、動じない。

 異なる部分は、ゼンキがどこか全てを放り出している、執着しない姿勢を見せるのに対し、ホタルにはそのような態度は見えない。

 刀を手に取るとは、極端に言えば自分の命を捨てることだ。

 ゼンキは自分の命を捨てる覚悟を、常にしていたのではないか。

 ホタルにその覚悟が、あるだろうか。

「おすすめしませんよ、ホタル殿」

 俺の言葉に、ピクリとホタルの目元が震える。

 彼女はゆっくりと、わずかに頭を下げた。

「ご心配、ありがたく存じますが、私のことは私のこと」

「あなたは刀を取るべきではない」

「失礼ですが」

 ホタルが顔を上げる。

 鋭い視線が、まっすぐに俺を見る。

 時折見せる、射抜くような眼光。

「私にも私の自負があります。私は私の技を、頼るに足るものだと考えています」

「自負で相手を切れますか」

「自負のない技で刀の前に立てますか」

 堂々巡りだ。

 深入りするのは、無意味だ。

 俺はホタルの技に関する興味が少しずつ消えていくのを感じていた。彼女が相応の技を身につけているのは間違いない。しかしそれは彼女の独りよがりの技だった。

 命を取り合ってまで知り、暴き、体験したい技ではないだろう。

 もし刃を交えることになれば、俺は、ホタルを切ってしまうような気さえした。

 切ってしまえば、それまで。

 屍となり、言葉を発することも、笑うこともなくなる。

 無駄というものだ。

「アマギ殿を切ったことを、お恨みですか」

 話題をわずかに変えた。

 ホタルにとってアマギは、父でありながら、師でもあったことを俺はやっと知ったのだ。二重の意味での仇を、ホタルはどう見ているのだろう。ここまで俺に対して親切に対応した理由とは、何なのか。

 ホタルはわずかに目尻を下げた。この時だけは、人間らしい笑いに見えた。

 だからこそ、背筋が冷えた。

「父が破れたのは、父が弱かったから。そう、父は弱かったのです」

 俺が想像していた返答と少し違う。どうもすれ違いがあるようだ。

「アマギ殿は、十分に強力な使い手でしたが」

「技には見るべきものがありました。それは私も認めます。しかし父は、心が弱すぎた。牙を抜かれていたのです」

 少しだけ、ホタルの話の道筋が見えた。

「それが」

 俺はわずかに声をひそめた。

「ホタル殿の、あの言葉に通じるのですね」

 そう、あの言葉。

 ケイロウを切れ。

 その通りです、とホタルが頷く。

 屋敷には最低限の人間しかいないようだが、今はまるで無人のように静まり返っていた。



(続く)

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