第18話 儚きもの
◆
俺は傘を手にとって宿を出た。
考えていても仕方がない。傘は手元にあり、この傘さえ返してしまえば、終わるのだ。
ホタルの剣術は気にかかる。どれほどの腕前で、どのような技なのか。アマギは何を伝え、ホタルはそれをどう解釈したのか。
だが、それはこの世に無数にある技の一つに過ぎない。
通りを進み、吹き付ける冷たい風を意識する。もうそろそろ冬になる。旅をするには厳しい時期になるが、ハバタに留まるのも落ち着かないのが実際だ。
少しでも、ここを離れて冬を過ごすべきだろう。
剣術指南役の屋敷の門が見えた。
思わず足を止めたのは、通用門が開いたからだ。
出てきたのは、カイリだった。
彼がゆっくりと歩き出し、すぐに俺に気付いた。パッと笑顔を見せて歩み寄ってくる。俺は頭を下げた。
「こんなところで何をしている、オリバ」
「いえ、お訪ねしようと思っていました」
「それは珍しいな。しかし、これから用事があるんだ」
そこまで言ってから、カイリがいたずらを仕掛けるような表情になった。
「用事というのはな、道場の見物だ。この町にある唯一の道場。一緒に来いよ」
「見物、ですか」
「これは、と思うものを探すのも剣術指南役の役目だと、ケイロウ様がおっしゃってな。そう都合よくいくとも思えないが、まぁ、他に腕に見込みのあるものが顔を出しそうな場所もない。さすがにケイロウ様も田畑にいる農民をしらみ潰しに当たれとは言わないだろうが」
来い、とカイリが先に立って歩き始めるのに、俺はついていくしかなかった。カイリの留守にホタルと会う、というのはやや避けたい状況だったからだ。自然、屋敷からは遠ざかった形になる。
先へ進みながら、カイリはハバタの街の食事事情について話し始めた。大して飯屋がないことが不満なようだ。屋敷にいるものの作る料理も不味くはないが、どこか素朴で、古臭い、と彼は笑っていた。
やがて道場につき、さすがに外から見物するわけでもないだろうが、と思ったが、予想に反してカイリは自然と道場の中が見渡せる窓のそばに見物の町民に混ざって立った。俺もその斜め後ろに控える。俺にも道場の中を見ることはできた。
いつか見たのと同じ、爽やかな打ち合いが展開される。
殺気も殺意もない、体を動かすのが目的の剣術。
剣術ではない、かもしれない。
「聞いたところでは」
カイリが低い声で言う。
「この道場にアマギ殿が何度か稽古をつけに来ていたそうだ。しかし、二十年以上前のことで、最近は絶えていたとか。その二十年より前の頃には、この道場からも有力な使い手が発見されたという」
俺の知らない話だった。
今、俺が目の当たりにしている道場には、アマギの剣の気配は少しもない。
アマギの技を誰が継承したのか、それが急に気にかかった。
剣術指南役が直接に指導する城内の道場にも、アマギの技は正確には伝わっていない。それを俺は更に薄めようとしたし、カイリがアマギの後を継ぐとしても技自体は変わるだろう。
剣士は儚いものだ。敗れるとは、そのまま死を意味する。
死ねば全てが消える。技も、言葉さえも消えていく。
影さえも薄れ、やがて誰にも気付かれなくなる。
しばらく俺とカイリは、揃って道場を見ていた。
「行こう」
カイリが声とともうに動き出す。去るのかと思ったが、道場の中へ入っていく。躊躇したが、俺もそれに続いた。どういう立場の者か、説明を求められると厄介だが、その時はその時だ。
カイリと俺が道場に上がり込む時、門人たちは稽古を止めなかった。無視された形だが、そもそもこの道場に剣術指南役が堂々とやってくることなど、久しい事なのだろう。
こちらも無視するようにカイリが道場の壁際を進み、上座へ向かった。俺はさりげなくもう一度、門人たちの稽古を眺めた。活気はあるが、非情さはない。仲良しの集団という感じだ。
上座にいる老人のそばにたどり着き、カイリが膝を折った。俺はその後ろでやはり腰を下ろす。
カイリが自己紹介すると道場主の老人も顔を上げ、名乗ったようだった。しかしその声は門人たちのあげる声にかき消されて、俺には届かなかった。
「溌剌としていますね」
カイリが言葉を向けると、老人が「それだけが取り柄だな」と答えたのがやっと聞こえた。
「昔はこんなもんではなかった。誰もが剣で身を立てようと必死だった。相手が親兄弟でも、打ち倒して栄達しようとしたものだよ」
老人の言葉は変にうわずっている。心がここではないどこかなるような、そんな喋り方に思える。カイリは構わずに応じている。
「ご老人はここでは長いのですか」
「元は流れてきたものだ」
「どちらから?」
「西だ。戦乱を生き延び、その戦場で生き残る方法を教えるのが目的でここに道場を開いた。領主の支援もあった」
二人の会話を聞くともなく聞きながら、俺はまだ門人の様子を見ていた。
アマギの技の片鱗を探しているのだが、少しもなかった。むしろ共通する部分を些細な要素でも探そうとしたが、どこにもない。これは一人の人間が、一つの理屈、価値観によって技を教えているわけではない、ということだと思われる。
今、カイリと話している老人は、そこに座っているだけだと、門人の様子でもわかる。
「元気なのを一人か二人、譲り受けたいのですが」
そんな風にカイリが切り出すと、老人は「構いはしない」と簡単に応じている。門人への執着もないのか。
耄碌というより無気力か。
門人についての意見交換を二人が始めるが、そこへ道場へ入ってくるものが見えた。
俺が緊張したのは、剣術指南役を一時的に受けていた頃に何度も見た顔だからだ。剣士の一人である。向こうは俺がいるのに気付き、訝しげな顔をしてから俺たちが辿ったのと同じような場所を抜けて、上座へ来た。
片膝を折り、「ケイロウ様がカイリ殿をお呼びです」と、低い声が告げる。カイリはといえば、いきなりの呼び出しに気にした様子もなく「すぐ行こう。先へ戻っていてくれ」と堂々と応じていた。
剣士が一礼して足早に去っていき、カイリは老人に何事かいうと「連れてきておいて、勝手にしてすまんな」と今度は俺に声をかける。
「城に行かなくてはならん。お前はどうする?」
「もう少しここにいるよ」
「そうかい。また今度、ゆっくりと話そう。呼び出してもいいかな」
「旅籠で暇をしていることが多いから、いつでも応じられると思う。ただ、そろそろハバタを出ようと思っている」
ギラリと短い時間、カイリの瞳が光った。
「俺の手助けはしたくない、ってことかな」
「そうなるな」
「俺を切れるかも知れないのだぞ」
今までにない、深い踏み込みだった。
しかし俺は余裕を失わなかった。
「機会があれば、切る。しかしその機会はないだろうな」
どうかな、とカイリが元通りの稚気に溢れた表情を見せる。
彼は改めて老人に挨拶をして、立ち上がると道場を出て行った。
俺は稽古が終わるまで、老人のそばに黙って座っていた。
ちょっと意外だったのは、稽古が終わると門人全員で道場の掃除をしたことだ。しかし考えてみると、意外でもなんでもない。ここは掃除だけをするような身分の者はいないのだ。
門人たちが挨拶をして去って行ってから、俺は立ち上がろうとする老人に問いかけた。
「ホタルという女性がここで剣術を学びましたか」
老人は杖代わりの木刀で体を支えながら、まだ膝をついている俺を見た。
俺を見下ろす老人の瞳は濁っている。どこにも焦点の合わない、ぼんやりした眼差し。
俺を見ているようで、見ていない。
今を見ているようで、過去しか見えない目だ。
「ホタルは」
老人の口調はあやふやで、聞き取るのに苦労する。
「ホタルは、才が走りすぎる」
言葉は通じているらしい。しかし同じ人物のことを思い描いているのだろうか。
老人が一歩、二歩と足を進める。踏み出すたびに木刀の先が床と当たり、硬い音を規則正しく立てる。
老人を見送り、最後まで残っていた門人たちの好奇の視線を受けながら、全てを無視して俺は道場を出た。
俺の手元には傘がある。
気乗りしないが、そもそもの目的だ。
カイリを不快にさせるかもしれないが、度量の広さに期待しよう。
俺は足早に、改めて剣術指南役の屋敷へ向かった。
(続く)
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