第16話 空想

       ◆


 理由は自分でもわからない。

 しかし決め手は、あの夜の月明かりの中にあった、作り物めいたホタルの顔かもしれない。

 何にせよ、俺はハバタの街に残った。

 朝は遅くに起き、軽い朝食を食べると宿の一室でぼんやりと過ごす。何冊か書籍を借りてきてあり、それを読むこともあった。昼前に支度をして表へ出て、何かを食べる。朝に量を食べないので昼にはしっかりしたものを食べることが多い。

 もっとも、ハバタの街では食べられるものは限られる。蕎麦の店が二軒あり、そのどちらかを利用することがもっぱらだ。他には魚屋に付属した飯屋があり、そこで魚がたっぷり入った鍋料理を選ぶこともあった。

 それから銭湯へ行き、体を流したら銭湯の二階で、のんびりしている町民に混ざって時間を過ごす。

 日が暮れる前に宿へ戻り、夕食を食べ、適当な時間に自分で布団を敷いて眠る。

 あまりにも時間を持て余したので、よく晴れた日にそばの山にあるという神社へ行ったこともある。山と聞いていたが、行ってみると丘という表現の方が正しそうだった。

 鬱蒼とした木立の中に社があり、境内は比較的、綺麗に整えられていた。しかし人気はない。

 参拝したところで、特に意味はない。もともと、俺は信心深い方ではなかった。

 そんな一日が特別に感じるほど、この時の俺の日々は彩を欠いていた。

 宿の裏手に小さな庭があり、洗ったものを干す場所らしかったが、俺は宿のものに断ってそこを二日に一度、借りるようにし始めた。

 借りたとしても、やることはほとんどないのだが。

 真ん中に真っ直ぐに立って、目を閉じる。

 それだけだが、そうするとまぶたの裏に、様々な人物が浮かび上がる。

 彼らはみな、刀を持っている。そしてそれぞれの技を持っている。

 切りかかってくる幻に目を凝らす。

 速度は最初こそ早いが、どんどん遅くなる。遅くなり、さらに遅くなり、刀が俺に触れるときにはほとんど静止している。

 そこで溶けるように幻は消え、また別の幻が現れる。

 刀を見る。見据える。

 目を凝らして、刃が走る軌跡を凝視する。

 出現するのは、全て俺が見た技から始まっている。

 それなのに、幻が見せる技は、その記憶から逸脱していく。

 新しい技の萌芽があり、再現不可能な技があり、時にはっとするような鮮やかな技が出現する。

 俺はそれを何度も確認し、どう受けることができるのか、どう返すか、それとも機先を制して潰しにいくのか、対応を練っていく。

 どの技にも主張がある。

 剣術を向けあうのは、主張の押し付け合いでもある。

 ただ、機というものは確実に存在し、重要な要素だ。

 どれだけ優れた技を持っていても、出遅れれば発揮する時間が与えられない。

 どれだけ優れた技を持っていても、先走れば敗北する可能性がある。

 相手の動きを読み取り、理解し、その上で最適な機を逃さない。

 容易にできることではない。

 むしろそれは理想であって、理想とは現実に出現しないからこそ、理想と呼ばれるのだ。

 幻の刃は、俺を切ることはない。

 空気を引き裂く音を伴うことも、空気を巻き込む気配を伴うこともない。

 殺気さえ存在しない。

 現実とはまるで違うところで、技を練り上げようとするのは無理なことかもしれない。

 師の言葉にある通り、動きというものが重要なのだ。

 想像すること、思い描くことは、体の動きを伴わない。

 こんなことばかり続けていると、師の怒りを買うかもしれないが、俺の勝手だと割り切っている。これまでも旅の合間にも繰り返しやってきたことだ。うまくいったこともあったが、危険を招き入れたこともあった。

 それでも今も生きているのが事実だ。

 俺は数え切れないほどの幻を前にし続けた。

 幻の剣術は、現実の剣術と違うとしても、稽古相手にはなる。

 空想に捉われるのが危険だとしても、何もしないよりはマシだ。

 幻がある時、カイリの姿を取った。

 構える。

 ゼンキの影が重なる。あるいはアマギの影が。

 刀が動き始める。

 それはもうゼンキの技でもなく、アマギの技でもない。

 刀がまったく新しい、未知の筋を走り始める。

 凝視する。

 筋を目に焼き付けるように。

 翻った刃が緩慢に速度を落としていき、俺の首筋で停止する。

 いや、かすかに、本当にわずかずつ首筋へ近づいていく。

 死の気配がするわけもない。

 するわけもないのに、冷や汗が流れる。

 閉じていた瞼を開けていた。

 実際に汗が流れて、こめかみから顎へ流れていた。

 息をただ吐くだけなのに、その息が自然と震える。

 恐ろしい技、というほどのことではない。

 恐怖を克服することが重要だ。そもそも、優れた技は総じて恐ろしい。

 俺は腰の刀をゆっくりと抜いた。

 正眼に構え、目を細める。

 先ほどの技を改めて思い描く。カイリの技。空想の中のカイリの技。

 見えはしない。しかし今は、気配はする。

 刀を動かさずに、頭の中で刀が動くことを思い描く。

 来る。

 返す。

 自分が負けているのが、直感的にわかった。

 もう一度だ。

 幻が先ほどより強く立ち上がって来る。

 刃が実際に見えた気がした。

 刀は動かさない。

 冷静に。

 見るのだ。

 そこに刃は、ある。

 想像の中の刃がすれ違う。

 切られたのは、俺だった。

 もう一度。

 しばらくそれを続けたが、どうしても勝つ場面を想像できなかった。

 刀を鞘に戻したときには、全身が汗でびっしょりと濡れ、着物は色が変わっていた。屋外なので、風が吹き付けると体が震えるほど寒い。たった今まで、寒さなど感じなかったのは不思議だ。

 深呼吸して、気を落ち着けた。

 銭湯に行こう。その前に着物を変えないと。

 振り返ったところで、宿の下女がこちらを見ているのに気づいた。

 いつからいたのか、すぐそこにいるのに知らなかったことも驚きだが、本当に驚いた理由は別にある。

 下女が真っ青な顔で立っているからだ。

 まるでこの世のものではないものを見ているような、恐れ一色の顔をしていた。

「申し訳ない」

 反射的に頭をさげると、一歩、二歩と下女が足を後ろに送って距離をとった。

「怖がらせるつもりはないんだ」

 言葉を付け足したが、下女が返事をするのには短くない沈黙が必要だった。

「剣士は好きではありません」

 舌足らずな口調だったが、嫌悪、恐怖は紛れもなくそこにある。その口が、続きを口にする。

「人を切るからです」

「人を切らない剣士はいない」

「人でなしだと、教わりました」

 その人でなしに意見をするのだから、なかなか豪胆な少女だ。

 思わず笑ってしまった俺に下女は不可解そうな視線を向け、ふっとそっぽを向いた。

「剣がなければ生きていけないのだよ、俺は」

 言い訳めいたことを口すると、横を向いたまま、言葉だけははっきりと返ってきた。

「私は剣などなくても生きていけます」

 やはり肝が太い。

「女でも剣を持つ者はいるだろう」

「私はあの方のようにはなりません」

 思わぬ言葉だった。

 俺は世の中には剣を持つ女もいると言ったのだ。しかし下女は、誰か特定の個人のことだと勘違いしているらしい。女の剣士? いったい、誰のことだろう。城の道場に女性の門人はいなかった。

 問いかけるべきか、と思っているうちに、下女が俺の方を探るように見た。

「ホタル様とあなたが夫婦になればいいのに」

「ホタル殿? 何故、急にその名前が出てくるのかな?」

「あの方も、あなたと同じ剣士ですもの」

 衝撃というほどの衝撃ではないが、興味が湧く、膨れ上がるのを止めることはできなかった。

「ホタル殿、彼女は剣を使う?」

「アマギ様のご息女ですもの」

 さらに問いを重ねようとしたが、下女は別のものに呼ばれて返事をすると、俺に一礼してから駈け去ってしまった。

 裏庭にひとりになり、俺は思わず腕を組んだ。

 ホタルが剣を使う、か。

 全く荒唐無稽というわけでもない。

 強い風が吹き、俺は思わずくしゃみをしていた。

 銭湯へ行ってみよう。

 そう、たまには人に質問するのもいい。



(続く)

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