第13話 短い間
◆
帰る途中で軽い食事をして、俺は旅籠に戻った。
もう旅籠に滞在する費用をハバタ家が払ってくれる立場ではなくなったので、自分で銭を払っている。例の最後に受け取った小袋の中の銭があるので、余裕は十分だった。
布団も敷かずに寝転がって窓から空を見ながら、思案していた。
俺の中にあるどこか落ち着かない感覚。これを解消する方法は何があるのか。
最も簡単なのは、カイリを切ることである。そうでなければ、カイリに切られるか。
俺を負かしたのはカイリであり、そのカイリではない剣士をいくら相手にしても、俺の中にあるわだかまりは消えない気がした。
もっとも、どこかで出会うかもしれない見知らぬ剣士と刀を向け合った結果、俺が死ぬ可能性もある。五分五分だろう。もしそこで死ねば、カイリがどうこうなどという苦悩は問題にならない。死ねば考えることなどできないはずだ。
フゥっと息を吐いて、眼を細める。
いつかはカイリのことなど俺も忘れるだろう。
カイリが誰かに切られる未来もあるはずだが、何故か、それは考えられなかった。俺に勝ったカイリが俺以外に負けるわけがない、と思うのは傲慢そのものだ。カイリが誰かに敗れると、結局、俺は大した使い手ではないと別の方向から証明されてしまうのだが、その証明は真実以外の何物でもない。
誰よりも強くなりたい、と思った時もあった。
しかしこの世界には数え切れないほどの剣士がいて、数え切れないほどの技がある。
そんな剣士たちが切ったり切られたりして、しかし剣を取るものが消えることはない。
どう考えても、この世の全ての剣士を切り捨てることなど、できない。
では、最も優れた使い手と相見え、切って捨てればいいのか。
もしそれができたとしても、今度は自分が挑戦を受ける立場になるだけのこと。
そして最後には敗れる。
最も強い剣士とは、どのような存在だろう。
剣はどこまで高めても、限界というものはないのか。
どれだけ技を磨いて高めても、やがて身体が衰え、力を失い、感覚は鈍るだろう。
今だけのこと。
ほんの短い間にだけ、光が差すということか。
「お客様」
声がしたので、俺は起き上がった。
「どうぞ」
声をかけると襖が開き、宿のものの姿が見えた。まだ夕食には早い。銭も払ってある。
宿のものは伏し目がちに言う。
「伝言がございまして、カイリ様という方からでございます」
カイリ。
俺が視線で促すと宿のものが言葉にした。
「お話ししたいことがあるので、剣術指南役の屋敷へお招きする、とのことです」
「いつ、かな」
「今日の夕方にでも、とのことでした」
「返事はどうしたらいい?」
「もしお気に召さないのなら、何の返事もしないで構わない、とのことでした。私がお返事を伝えに行って構いませんが、どうしましょうか」
後半は宿のものの思考らしい。カイリは返事を気にしていないのだろうが、そこがいかにも無骨で、剣士の乱暴さを連想させた。宿のものの方が、人の心というものを慮る傾向にある。
俺は少し考え、「承りました」と答えた。それから「夕食の用意はいらない」と付け加えた。宿のものが丁寧に頭を下げて襖を閉じようとしたところで思い立った。
「すまんが、酒と、何か肴になるものはあるかな」
「酒はいかほど、用意いたしましょうか」
「一晩、二人で口にする程度でいい」
承知いたしました、と今度こそ宿のものが襖を閉めた。
俺は一度、着物を整え、今度は立ったまま表を眺めていた。季節柄か、通りを行く人はそれほど多くない。誰もが足早にどこかへ向かっていく。
少しすると、宿のものがまず酒の瓶を持ってきた。二つだった。そういえば、いくら払えばいいか、聞いていない。まぁ、それほどの額でもないだろう。
更に待つと、宿のものが包んだ何かを持ってきて、俺に説明した。川魚を開いてタレをつけて焼いたものと、漬物を幾つか、といったところだ。それに小さな箱が添えられており、そこには干し柿が入っているという。
「アマギ殿のお嬢様はこれがお好きですから」
宿のものがそう言って、なるほど、と俺は納得した。女性にも贈り物を持って行くのは、ここのところの流行りだ。干し柿か。少し早いが、そういう季節なのだ。ただ、宿のものが俺の素性を知っているのか、という疑念があって、あまり感心してもいられない。油断は禁物だ。
適当な時間に、俺は腰に刀を帯びて荷物を持って宿を出た。
一人で通りを歩いていくと、自分がまるで場違いな場所にいて、身の丈に合わないことをしているような感じがした。
剣だけを頼りに生きるはずが、酒やらを持って自分を負かした相手を訪ねるとは、どうかしている。
これが卑屈というものだろうか。
敗北は実に多くのことを学ばさせてくれる。不愉快なことも、学ぶこととなる。
剣術指南役の屋敷が近くなった時、借りていた傘を持ってくるのを忘れていたのに気づいた。荷物が多かったので、うっかりしていた。
仕方がない、次の機会としよう。
自然とそう思ってから、これでは自分が剣術指南役の屋敷を訪ねる理由を、わざと残しているようではないかと考えが及んだ。
無意識に選んだのか、それとも無意識の偶然なのか、判然としなかった。
歩を進めて、目的の屋敷が見えてくる。
すでに空は暗くなり始めていた。
屋敷の表の門は閉ざされている。通用門を軽く叩くと、すぐに開かれた。いつか見た下女だった。冷えてきた空気の中、ずっと待っていたのだろうか。
そんなことを聞いても仕方がない。彼女は命じられれば、それに従うしかない立場なのだ。
そういう決して覆せない立場の差がこの世にはある。
剣術を身につけようと、覆せないもの。
あるいはどのような技能でも、覆せないもの。
銭でも覆せないかもしれない。
そんな身分を、誰が定めたのか。
屋敷の玄関で草履を脱いだところで、下女が桶を持ってきた。素早く足を洗う。下女の手を煩わせたくない思いもあった。手ぬぐいで足を拭ってから、屋敷に上がろうとすると、奥からホタルが静かな足取りでやってきた。
俺は真っ直ぐに立って一礼した。
「お招きいただき、ありがとうございます」
いいえ、とホタルがわずかな笑みを浮かべる。そう、かすかな笑みだ。口角が少し持ち上がるだけの笑み。形だけのようであり、作り物のようでもある。
俺は持ってきたものを彼女に渡したが、それはすぐに下女の手に渡った。
奥へ通され、一室に入るとカイリがそこにいた。
庭に面した部屋で、障子が開けられて空気は冷たいが、苦痛ではない。
カイリは何かの書籍を読んでいた。カイリの持ち物ではなく、屋敷にあったアマギの持ち物だろう。そうでなければ、剣術指南役に伝わる書物といったところか。
俺の気配を敏感に感じ取り、カイリが書籍を閉じなら顔を上げた。
その顔に笑みが浮かぶ。ホタルの笑みとは違う、人懐っこい笑い方だった。
いかにも人間らしく見えた。
「来てくれたか、オリバ殿」
「お招きいただき、恐縮です」
俺が膝を折って頭をさげると「そのように丁寧にすることはない」とカイリの声がする。
「お互い、流れ者の剣士なのだ、もっと気楽にやろう」
俺が頭を上げると、まだカイリは笑っていた。
勝者の余裕ではなく、彼の本来の気質だろう。
曇ったところのない、真っ直ぐな性格。
しかし果断で、冷酷にもなれる。
極端な二面性。
では、と俺は部屋の中へ進み出た。
(続く)
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