第12話 生き方
◆
ハバタの城下には小さな道場が一軒だけあった。
聞いたこともない流派の剣術を教えているようだが、門下生は剣士ではなく、町民のようだ。
俺は城での役目を失った翌日には、その道場の見物に行っていた。
実に牧歌的で、素朴な稽古だった。
皆が一様に真剣だが、切羽詰まったものはない。体を動かすこと、汗をかくこと、その場の勝敗、そういうことが純粋に楽しいのだと見て取れた。
俺が初めて竹刀を握った道場も、似たような雰囲気だった。そう、ずっと忘れていたが、あそこは誰もが充実し、のびのびと技の修練に励んでいた。
故郷の道場にいたのは短い時間で、俺は本格的な剣術、あけすけに言えば殺人術を学ぶ場所へ移されてしまったが。
真剣を握ることとは無縁なのに、剣の道を知っていることで胸を張れる気がするのは、不思議な心理だ。でも今、目の前の道場で必死に竹刀を振っている男たちは、そんな疑問は抱いていない。きっと本来の役目、本来の仕事があり、俺のような立場とは違うのだろう。
俺には剣しかなかった。
剣のみを持ち、剣にのみ生きるように、そう育てられたのだ。
師のことは実は頻繁に思い出すが、それは憧憬の念を伴う時と、嫌悪の念を伴う時、その極端な二つの要素のどちらかになる。
今、俺の中には嫌悪があった。
この世界には、剣士以外の生き方など無数にある。文字を学び、算術を学び、役人や商人になることもできるだろうし、田畑の中で土や天気と格闘し百姓をやることもできる。身分というものがあるから、そう簡単には入り込めない場所は確かにあるが、剣士として生死を賭すよりはよほど穏便な生き方だ。
師は俺にそういう選択肢を与えないどころか、考えさせさえしなかった。
お前には剣の素質がある。
故にお前は剣を学ばなければならない。
剣以外のものを頼ってはならない。
今の俺なら、師に問いを返すことができる。
俺には剣以外に何があるのですか?
この問いに返ってくる言葉は予想できる。ありありと、師の表情さえ脳裏に浮かんだ。
お前には剣以外には何もないと知れ。
勝手に決めるな、と言い返すことができるが、決めたのは自分ではない、と師はいいそうだ。
お前に剣術の素質を与えた、人ではないものを恨め。
素質、才能というものは、生まれた時から身についていると説くものは多い。それは百姓にまで共通する発想で、こんな家に生まれなければ大成したのに、という嘆きはそこここである。
俺もまた、師によって素質を見出されたのだが、師は俺の何を見て、どこに素質を発見したのだろう。それはずっと謎だった。多くの剣士たちを見てきたが、これは、という使い手はいても、天才と感じる使い手は少ない。
いるとしても、完成されている剣士にそれを感じるだけで、年少のもの、未熟なものの中に才気を感じた例は全くないと言える。
こうして街の道場を見ていると、才能というものも意識しないわけにはいかない。
この世には、才能の持ち主は少ない。何らかの技能を発揮するものは、おそらく才能そのものではなく、努力や経験の積み重ねで技量を身につけ、練り上げ、高めるのだ。時間も必要だろう。あるいは長い時間を要するかもしれない。
どちらが立派かといえば、天才の技より凡人の技の方が立派である。
天才のその才気というものと、凡人の恵まれたものの才気を超越する努力が組み合わさった時、本当の天才が生まれるのか、と俺はぼんやり考えていた。
ゼンキはそんな一人だったかもしれない。
彼は何故、野に下ったのか。
彼は小さな領地を持つ有力者の元で、剣術指南役をしていたはずだ。俺が彼と会った時、その役目を放り出し、世間から離れて日々を過ごしていた。
彼に限って、努力を惜しむとは思えない。
剣を捨てることもしなかった。
実戦の場、修練の場、人と人の間にあるものではない、全く別種の経験があの人里離れた小屋での生活にはあったのだろうか。
どのような経験にせよ、事実としては、ゼンキは俺に負けた。
相討ちに近いとはいえ、負けは負けだ。
では、ゼンキが積んだ経験、選択した時間の使い方は無駄だったのか。
無駄ではないだろうと俺は感じていた。
経験は、それが生きる時と、生きない時がある。
ゼンキの経験は、俺と刃を交えた瞬間には生きなかった。
ただ、あの山の中での生活をする前のゼンキとはまるで違う剣だったのではないか。
そうだ、アマギとゼンキの剣には相違点がある。それは同じ光陰流であっても、独自に技を発展させたからだ。てっきりアマギがゼンキと違う技を使ったと解釈していたが、ゼンキはゼンキで、自分の技を探したのだ。
自分にできること、その限界を探すのが、剣術の一つの目標である。
今、俺の眼の前で竹刀で打ち合っている男たちは、きっと限界など気にはしないはずだ。
その一点でも、やはり俺とは生きる世界が違う。
道場の見物している数人の町人に混ざっていたのを離れようとすると、「オリバ先生?」と声が聞こえた。
振り返ると顔を知っている相手が立っていた。
名前は忘れてしまったが、城の道場で見た顔だ。家臣の縁者ではなく、百姓の青年だった。実際、今も服装は粗末で、ところどころが擦り切れていた。先日の雨の後、いよいよ寒さが深くなったので、彼の服装は見ているこちらが寒さを感じそうなほど簡単なものである。
「稽古の帰りか」
そう言葉を返すと「はい」と彼はちょっと目尻を下げた。それはから少し申し訳なさそうな顔になった。
「オリバ先生は、その、役目を降りたとか」
「降りたというか」
思わず俺は相好を崩していた。この青年の真っ直ぐさが、どこか可笑しい。実に素直だ。
「敗れて、役目を奪われたのさ」
「昨日から、カイリ殿という方が稽古をつけてくださいます」
そいつだよ、と俺が笑うと、ますます青年は恐縮したようだった。
「お怪我はないのですか?」
どこまでも優しい青年だった。ここまで心根が優しいと、剣士には向かないだろう。非情に徹すること、残酷さを発揮することが、剣士には求められる。
「少し傷を負ったが、この通り、無事だ」
「それはよかった。オリバ先生まで死んでしまうのでは、その……、悲しいですから」
俺は表情を改めた。
アマギが死んだことにも、この青年は胸を痛めていたのだろう。
やはり、この青年は優しすぎる。
「剣士とはそういうものだ」
俺ができる限り冷たくそう指摘してやると、そうですね、と青年が表情を引き締め、頷く。
「僕にはきっと、向きません。そもそもが百姓なんですから」
「立場を卑下するな。剣を取れば、立場や身分に相手は遠慮などしないものだ。お前もしないだろう?」
ええ、と彼はちょっと困ったような顔になり、失礼します、と頭を下げた。
彼を見送ってから、俺も道場の前を離れた。
旅籠への道を進みながら、俺はまた剣術のことを考えていた。
弱いものが強いものに勝つために技がある、と師が何度か俺に指摘した。
力が弱いもの、背が低いもの、経験がないもの、そういう立場のものが勝つための技が剣術なのだと。
あの青年の気の弱さを克服するのも、剣術の役目だろうか。
しかしそれでは、剣術とは普通のものを殺人者に仕立てる技術となる。
それではあまりにも救いがない。
ゆっくりと息を吐いた。一瞬、白く染まった気もしたが、次の一瞬には見えなかった。
(続く)
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