第11話 奈落の淵
◆
風呂を出た俺を、ホタルが待っていた。
俺は借りた着物を着こんでいることもあり、どうもバツが悪い。
「簡単なものですが、膳を用意しました。召し上がってください」
今更、断る気にはなれなかった。すでに風呂を借りてしまい、着物も借りてしまった。傷の手当てもしてもらったのだ。こういうのを骨抜きというのだろうか。
はっきりと礼を言って受けた。
通された部屋にはすでに膳がある。
腰を下ろした俺の横に、ホタルも膝を折った。
左肩の違和感を感じながら食器に手を伸ばす。
食事をして少しすると、ホタルが低い声で言った。
「カイリという方があなたを破ったと聞いています」
その口調に責める色がないのは、不思議だった。彼女は俺に、ケイロウを切って欲しいと言ったのだ。その俺が不甲斐ないことをして、なぜ、責めないのだろう。
あれは戯言、冗談だったのか。
それとも俺には期待をかけていなかった?
俺は自分に問いかけながら、しかしそれとはまるで別のところで、言葉を考え、口にしていた。
「ゼンキ殿の弟子だった、と聞いています」
「そうでしょう」
ホタルの言葉に、思わず顔を上げていた。
彼女の視線とぶつかった。
深い色合いの瞳。
「ホタル殿はご存知でしたか?」
「カイリ殿は父とも交流がありました。確かに、ゼンキ殿の弟子という方です。しかしだいぶ前にゼンキ殿の元を離れ、独自の技を目指しているとうかがっています」
「アマギ殿と交流があった?」
「文のやり取りをしていたようです。一度、何年か前にここをお訪ねになりました」
そうか。
なら俺にゼンキの技の幻を見せたのは、意図的に見せたのだ。ゼンキの技とカイリの技が重なっているわけではない。俺を圧倒したカイリの技は独自の、全く新しい技だったのだ。
ホタルにそのことを確認しようと思ったが、冷静に考えれば文で剣術を理解できる道理がない。いつの間にか俺の思考は目まぐるしく回っていて、必死にカイリの技を理解しようとしている。
生きているからそれができる。
死んでいれば、この思考はそもそもあり得ない。
「負けて生き残るのは、どのような心境なのですか」
無意識に顔を俯けていた俺は、その問いかけをすぐには理解できなかった。
心境。
顔をゆっくり上げると、ホタルがこちらに身を乗り出していた。思ったよりも間合いは狭く、息が触れそうだった。
「心境……」
俺の囁きに近い言葉に、ホタルの鋭い眼差しがより冴え冴えとしてくる。
「次がある、というだけのことです」
答える俺に、ホタルは声を返さない。
俺も口を閉じた。
沈黙。
ほっとホタルが息を吐き、姿勢を元に戻した。
「次を奪ってきたものが、次があることを喜ぶのですね」
「喜んではいません」
言葉で答えるのは難しい。抽象的で、観念的なものが俺の心を占めているのだ。
「次があっても、もしかしたら次こそ倒れるかもしれないのですから、喜んではいられません」
「でも嬉しそうには見える。嬉しいでしょう?」
皮肉でも嫌味でもないように聞こえるのは、何故だろう。
この娘、ただの娘がぴったりと張り付くように俺のそばにいる気がする。体同士には間合いがあるにもかかわらず。
じっと俺はホタルを見た。
彼女の瞳の奥は見通せない。
深い、闇だ。
「また人と刀を向け合える。嬉しくありませんか?」
問いかけもまた、底知れない闇を連想させた。
「そうかもしれません」
俺は集中して、やっとそう答えてから、彼女の瞳から必死に視線を剥がした。
飲み込まれそうだった。
奈落に。
「あなたは何も失っていないのですね」
ホタルの声だけが聞こえる。
俺は手元を見ていた。
何も失っていない?
まさか。
俺は敗れることで、何かを失った。
自信や自負ではない。
こうしている今の俺は、そのまま俺の技を信じている。頼んでもいる。
本当に失ったものは、何だろう。
正確な表現からは判然としないが、それは矜持、誇りだろうか。
ひとつだけはっきりしていることは、カイリとの勝負は、絶対的な敗北だった。
俺の刃はわずかも届かず、カイリには十分な余裕があった。
負けることを受け入れられる剣士はいない。
死ぬことよりも、あるいは負けることの方が受け入れがたいかもしれなかった。
「刀を捨てますか」
近いのか遠いのかもわからないホタルからの問いかけは、誘惑のようでもあった。
刀を捨てる?
俺は刀で人を切ってきた。
なら刀で斬られるまで、刀を捨てるべきではない。
そう、それが責任。
決して放り出してはいけないものだ。
誇りを失おうと、自信を失おうと、刀を捨ててはいけない。
逃げることは許されない。
死者が許さない。
俺自身も、許しはしない。
「長居してしまった」
俺はゆっくりと立ちあがった。料理は半分ほど残っていたが、ここに残る理由はない。
ホタルもなんでもないようにゆっくりと立ちあがった。
違和感があった。思わず彼女の動作に視線を向けるが、もう彼女はまっすぐに立っている。
「どうかなさいましたか」
問いを向けられ、俺は懐から城で受け取った袋を取り出す。その中の銭を数枚、彼女に渡した。
「風呂と食事、怪我の面倒のお礼です」
「ありがとうございます。しかしこれでは額が大きすぎますから、その着物を差し上げましょう」
「よろしいのですか?」
「もう着る人もいないのですから」
礼を言って、着物は貰い受けることにした。
表へ出ようとすると、雨は小降りになっていたがまだ降り続いている。
「傘も差し上げます」
さすがにそれは断り、近いうちに返却することをホタルに告げた。
そのホタルは悠然と微笑みながら、当然のように応じた。
「カイリ殿が剣術指南役となれば、この屋敷にお住まいになるかもしれません」
どう答えるべきか考える前に、言葉が口をついていた。
「夫婦になるということですか?」
意外でもない一言だったはずだが、ホタルの表情がほんの短い間、笑みとは違う何かになったような気がした。
「そうしたいと思えば」
「ホタル殿が?」
「いいえ、カイリ殿が」
そうですか、と答えた俺の頭の中にあったことは、なんだっただろう。
夫婦になるならないは、勝手だ。
そう、俺が気にしているのはホタルのあの、夜に聞いた言葉だ。
ケイロウを切る。
カイリにもそれを口にするだろうか。それともしないのか。
俺は自分がホタルにとっての特別でありたいと、そう思っているのだろうか。
そんな理由はない。あるわけがない。
ホタルもまたどこにでもいる、一人の女に過ぎない。
旅の間に様々な女を見てきた。それぞれの生き方があり、それぞれの感覚で生きている女たち。それは男たちもそうだ。剣に生きるものも、銭に生きるものもいる。世間から離れて生きるものさえいるのだ。
だから、ホタルのことに深く関わろうとする理由が、自分でもわからなかった。
もう彼女と俺の縁は無いに等しい。傘など、縁になどなりはしない。
俺はハバタ家の剣術指南役ではなく、仮に受けたその役目もすでに放免された。やはり繋がりは切れたのだ。
ハバタの街に留まる理由はなく、明日にでも再び旅を始めてもいい。
あるとすれば、これから借りることになる、傘くらいなもの。円とも言えない、細い糸のような接点。
いつの間にか玄関先で二人共が黙っていた。雨が地面を打つ音、屋根を打つ音が折り重なって響く中で、二人は動かなかった。
「傘を」
彼女が傘を差し出してくる。そう、彼女が使っているのは都で流行っている傘だった。
「ありがとうございます」
彼女の手元から、俺は傘を受け取ってそれを開いた。
お気をつけて、という彼女の声に背中を押されるように、俺は屋敷の前を離れた。
雨の中を進む。
屋敷へ入る前と後で、変わったこともあれば、変わらないこともある。
俺は敗者のままだった。
生き延びてしまった、恥ずべき生者だった。
視界を刃の残像が走る。
カイリの剣か。それとも、これはアマギの剣、ゼンキの剣、でなけば全く別の誰かの剣か。
敗北の予感。
死の気配。
しかし俺は立っている。
死んでもいない。
惨めという言葉の意味が、思い出された。
今までに何度となく感じたもののはずなのに、こうして新鮮に感じられるのは不思議というより神秘的だ。
ぶるりと右手が震える。
それは剣を求めているのかも知れないし、そうでなければ、剣を恐れているのかもしれない。
雨は降り続けた。
止むことも、弱まることもなく、降り続けた。
曖昧な靄が全てを押し包んでいる。
(続く)
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