第10話 幻影
◆
その日はついに雲も耐えきれなくなったように、シトシトと雨が降っていた。
雨が降っても、ケイロウは予定を変えなかった。
ハバタ城の、白洲。
俺とカイリの二人がそこで雨に降られている。当然、傘など用意されなかった。
着物が濡れ、体が冷えていく。そこから生まれる不規則も、ケイロウには楽しみの一つなのだろう。
ケイロウがゆったりと広間にやってきて、家臣が並ぶ。
「では、始めよ」
そっけない一言。それが逆に彼の冷酷さを強調しているように聞こえた。
むしろから立ち上がり、俺はカイリから距離をとった。
カイリは立ち上がる前に、白洲の砂利の下の土に片手を当て、もう一方の手と擦り合わせた。なるほど、滑り止めか。
二人の間でむしろが片付けられ、ついに二人だけになる。
ゆっくりとお互いが刀を抜いた。
間合いを読み取る両者の視線の交錯。
顔を雨が打っている。雫が額から目元へ流れてくる。しかし瞼を閉じることなどできない。
両者の構えが変化。
カイリの構えはゼンキとも、もちろんアマギとも違う。
しかし形だけの構え、無思慮な構えではない。絶妙な均衡があるのが見て取れた。
よく修練された、一つの技が見えてくる。
見知らぬ技だ。
俺は足の位置を微調整した。
手足が冷えている。特に手が冷えると、握力が弱くなり、危険だった。それに水で手が滑る場面もある。
何度か手を握り直す。それさえも隙と言えば隙だが、カイリは打ち込んではこない。
間合いが広いからか。俺の技でもこの間合いは難しい。
両者がそれぞれに踏み込んで、それでやっと切っ先が届くだろう。
風が吹くと、雨の勢いに変化が生まれる。
いつの間にか雨が激しくなり、耳には雨音しか届かない。
カイリの背景が俺の視界から消えていく。
集中が高まり、カイリの姿だけが浮かび上がる。
刀が動き出す。
時間の流れが遅くなる。
カイリにゼンキが重なる。
その技は知っている。
足を踏み出す。
砂利が跳ねる。
カイリの輪郭が歪む。
違う。
知らない技だ。
体の芯が冷たくなる。
雨の冷たさなどとは比べ物にならない、まるで凍りついたような寒さ。
動きは止められない。
体を逃す。
俺の頭上に刀が落ちかかってくる。
簡単な詐術。
ゼンキの技を真似て、技の最初を見せるだけの、単純な誘導。
自分を罵っても遅い。
死ぬ瞬間にこんなことを考えるものか。
悪あがきだった。
俺はカイリを狙うのをやめた。カイリの剣を狙った。
ほんの一瞬、刹那の間で決断した。
あとは運。
どちらに転ぶか。
光は差すのか。
カイリの剣が俺の左肩に浅く食い込む。
しかし俺の刀の手元が、カイリの刀に当たった。
衝撃で足が滑る。白洲の砂利と、それを濡らす雨。
左肩に激痛。跳ね返されたカイリの刀が抜けたとわかる。
俺は倒れこみ、右手だけで刀を構えた。
カイリは既に剣を振りかぶり、打ちおろすところ。
止める手はない。
万事休す。
俺の額に触れる。
その寸前でカイリの刀が停止した。
時間さえもが停止した。
負けた。
カイリには最後に刀を止める余裕さえあった。
「これで」
カイリが声を発する。高揚は少しもなく、無感情が声だ。声の向けられた相手は、俺ではない。ケイロウだ。
「これで私の力は証明されたでしょうか」
家臣たちが唸るのが聞こえた。ケイロウの声は聞こえない。
俺は目の前にいるカイリ、そしてその刀を見ていた。今も額のすぐ前に切っ先がある。カイリは俺を見ていない。しかし彼ほどの使い手なら、ほんの手首をひねるだけで、俺を切っ先で貫き通せるのは間違いない。
誰もが黙った。
「よかろう」
ケイロウの声にあるのは、賛嘆というよりは、侮蔑だった。
カイリに向けられた言葉ではない。
俺に向けられた言葉だ。
俺の弱さを咎める声だ。
「強きものを私は求めているのだ、カイリ殿。オリバを殺さずに済ませたのは立派。その力量、認めよう。さて、オリバよ」
俺はジリッとカイリの刀から間合いを取り、そうしてからケイロウの方に向き直って頭を下げた。
「弱きものに用はない。今日までの勤めに相当する銭を与えよう。どこへ行こうと構わぬ、好きにすれば良い」
返事をして頭を垂れる。ケイロウが立ち上がる音が聞こえ、カイリについてくるように命じる声がかかった。カイリが涼しげな音を立てて鞘に刀を戻し、俺の横を抜けていった。もう興味はないと言わんばかりだった。
俺は土砂降りの中で、しばらく動かずにいた。
誰の気配もなくなり、そこへ城のものが小さな袋を持ってやってきた。それが俺の前に置かれ、それでもう俺に用のあるものも本当にいなくなった。
雨の中で、ゆっくりと立ち上がり、刀を掲げた。
打ち合ったのは一度だけ。刃こぼれはない。
しかし俺という刃は間違いなく折れた。
負けたことがないわけではない。しかしこの負けは、忘れられそうにない。
生き延びたのは、幸運だった。
雨、砂利、それが俺の命を救った。
技でも執念でもない。
こういう運もあるのだ。
刀を鞘に戻し、砂利の上に置かれたままの袋を拾い上げた。思ったよりも重い。懐へ入れて、俺は庭を後にした。
建物を回っていき、門から街へ出る。
雨のせいだろう、通りを行く人の数は少ない。
俺はゆっくりと宿への道を、傘もささずに歩いた。
肩の痛みがじわじわと意識に上がり、肩が発熱している感じがある。流れる血は雨と一緒に指先へ伝い、落ちている。
そう、傘を城へ置いてきてしまったな。しかし安物だ、いくらでも替えは手に入る。
いや、傘はどうでもいい。
刀のことだ。
頭の中にあるのは、ゼンキの幻だった。あのゼンキの技の幻影を見た瞬間、俺はカイリの技を推測するのをやめてしまった。慢心、過信以外の何物でもない。
ゼンキに勝ち、アマギに勝った。だからカイリに敗れた。
なぜ、俺は生きているのだろう。
何人も切ってきた俺が、こうして生きているのは、なぜか。
不意に雨が止んだので顔を上げた。雨音はしている。
傘が頭上にある。
誰が、と思い、そちらを見る前に声がかかった。
「風邪を引きますよ、オリバ殿」
澄んだ声。
そこにいるのは、ホタルだった。
俺は足を止めて、彼女を見た。
なるほど、確かに体が冷え切っている。風邪を引くかもしれない。
「今日のこと、伝え聞いています」
ホタルの口調には哀れむような響きはなかった。淡々と、事実を事実として口にしているだけだ。
救いにもならないが、惨めな思いは最小限で済みそうだった。
優しくされれば、俺の心の傷はより深く抉られただろうから。
「屋敷へお越しになりませんか。怪我も気になりますから」
どうとも答えられずにいると、「無理にとは申しませんが」とホタルがいっそそっけない声で付け加えた。
結局、俺は彼女の優しさを受け入れた。もう誇りなどというものはないに等しい。完全に打ち砕かれたのだ。
剣術指南役の屋敷に入ると、幼いと言ってもいい下女が出てきて、ホタルは風呂の用意を伝えた。下女が去っていき、俺はホタルの案内で一室に通され、とりあえずはと着替えを出された。
新しい服ではない、使い込まれた着物だった。
これはアマギの着物ではないか、と思ったが、それは訊ねなかった。
言いたくないこと、聞かれたくないこと、誰にもそれがあることを俺は実感したばかりだった。
着替えの前に一度、席を外したホタルが戻ってきて、俺の左肩の傷を検めた。
痛みからしてほんの小さな傷だと想像していた。切り結んだ時は深く刃が食い込んだ気がしたが、痛みの程度からすると錯覚だったのだろう。
実際、ホタルは傷口を三針ほど抜い、ぐっと圧迫した。それで治療らしい治療は終わった。
「湯に入るときには気をつけて」
彼女はあまり感情を見せない顔でそう言って立ちあがった。
すぐに風呂が湧き、風呂場は小さいがしっかりとしたものだった。風呂桶に肩に気をつけて浸かると、全身がほぐれていくのがわかった。ここに至るまで、俺は緊張し続けていたのだと、やっと気づけた。
外では雨が降っているのが音でわかる。
湯に浸かったまま、頭の中にあるのは、まだカイリの剣だった。
あの背筋が冷える、凍りつくといってもいい感覚が蘇ってきた。
死んでもおかしくなかった。
熱い湯でも容易には、俺の体の芯、心を温めることはできなかった。
(続く)
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