第5話 静寂の庭
◆
翌日になっても結局、俺は逃げなかった。
城に呼ばれた帰りにそのまま鍛冶屋へ向かい、そこで刀を研がせたくらいだった。鍛冶屋は、研ぎ師に頼めというように嫌そうな顔をしたが、俺が見ている前で研いで見せた。だいぶ時間がかかったが、それはあるいは嫌がらせだったかもしれない。
だが腕は確かだ。刃を見ればそれがわかる。
服装はどうでもいいだろうと古着のままにして、それでもともう一度、銭湯へ行った。例の男と再会したら反応を見てやろうと思ったけれど、そういう事態にはならなかった。
夕方に宿の食事で腹を満たし、早く床に着いた。ここで、逃走はやめにした。逃げないと決めれば、緊張しても良さそうなものだが覚悟が決まったせいだろう、眠りはすんなりとやってきた。
決闘の当日は明朝に起き出して、粥を作ってもらい、それを食べた後に裏庭を借りて刀を抜いた。
真っ直ぐに立って、刀を構えるだけ。
このところ、稽古はこれしかしていない。体力、腕力は知りすぎるほどに知っている。
問題は剣をどう走らせるか、という一点にある。
切っ先の位置をゆっくりと変えながら、呼吸を整える。
朝の静かな空気を、鶏の鳴き声が乱す。
しかし俺の刀は乱れない。
深く息を吐いて、刀は鞘に戻した。
部屋に戻って支度を整えて、宿を出た。この二日の分の銭を番頭に払おうとしたが、お城の方からいただいていますので、と断られた。
あの領主らしい男は、ケイロウという名前だとそこで聞いた。ハバタの領主で、戦乱の時代に武功を立てて領主となった、言わば叩き上げの権力者だった。
その手の領主は、人材を温存し、大切にする傾向があると俺は見ていたが、ケイロウはその部分ではやや非情なようだ。
おそらくアマギと俺をぶつけて、アマギが勝てばそのまま剣術指南役に留め、俺が勝てば俺を剣術指南役に据えようとするのだろう。
この時に発生する、一人の剣士の死をケイロウは決して重く見ない。
これは難しいところだった。一人が死ぬことで、より優れた一人を手元に置けるなら帳尻は合うかもしれない。
結論は出ないし、どれだけ突き詰めても答えは出ないはずだ。
城へ向かって歩きながら、ケイロウの価値観、優先順位、気性さえも想像しようとした。無理だとしても、剣を取るものは必ず、相手を把握しようとするものだ。ある種の最適化であり、攻めるべきところを知り、守るべきところを知り、次の動きを知れば、勝つ確率はかなり上がる。
もっとも一流の使い手は何も知らせないし、読ませない。
アマギなども昨日のあの短い時間では、俺に何も知らせなかった。わずかな動作で、並ではないとはわかるが、その程度では勝ちを確実にはできない。
だからケイロウのことを想像するのは、次善の策である。ケイロウと剣を向け合うわけではないが、アマギを殺さずに済ませられるか、という部分にはケイロウの存在が大きな要素になる。
ケイロウの気持ち次第で、アマギは助かるかもしれない。
俺が死ぬこともあるが、俺に関して言えば、ケイロウ次第でもあるがまずはアマギ次第である。アマギにはゼンキという存在がその胸のうちにはっきりあるはずだから、俺を殺さない理由はない。
殺せるなら、殺しにくる。
結局、俺は殺意を込めて向かってくるアマギを、殺さずに無力化し、その上でケイロウの心理を誘導することが求められる。
困難、至難だった。
そうこうしているうちに城の門についていた。警備しているもののそばに、昨日、案内してくれた剣士が待っており、彼の誘導で俺は城内に入れた。
奥へ進み、しかしこの日は屋敷へ上げられることはない。建物を回り込むように進み、庭の一つに入った。木々が取り巻くように配置されているが、見て楽しむような庭ではない。白い砂が敷かれ、白洲と考えるしかない。むしろが敷かれているのも、いかにも不吉だ。
片方に座り込んでいると、砂利を踏む音がして、アマギがやってきた。
彼はこちらに一礼したので、俺は素早く立ち上がって頭を下げた。
彼に敬意を示したところで意味はないのかもしれないが、彼が先にむしろに落ち着くのを待ってから、俺も改めて腰を下ろした。
沈黙。
しかし昨日とは少し違う。アマギから感じる圧力に、暗いものがないように思えた。
「お聞きしたいことがある」
まるで俺の想像を証明するように、アマギが問いを向けてくる。最初、それは乾いた声だった。
「ゼンキは最後に何か、言い残しましたか?」
彼はこちらを見ない。しかし問いかけは、無視できない切実な響きを帯びていた。
俺はなるべく無感情な声を装った。
「ゼンキ殿は、何も言い残しませんでした」
そうですか、とアマギが呟く。
俺は言うべきか刹那だけ迷い、付け加えた。
「彼は医者を呼んでいました」
「医者?」
「そうです。その医者が、重傷の俺の治療をして、一命を取り留めることができました。誰のために医者を呼んだのかは定かではありませんが」
かすれた声がアマギの口から漏れた。どういう言葉だったかは、聞き取れなかった。そうか、と言ったようでもあり、ただ意味もない音が漏れただけのようでもあった。
再び沈黙がやってきた。
静かな時間だった。日の光が周囲に落ち、陰影が鮮やかだった。
風もない。
死ぬには、あるいはこういう日がいいのかもしれない。
遠くでかすかな音。廊下がきしむ音が重なって、近づいてくる。
アマギが自然と頭を下げたので、俺もそれに倣う。
足音は白洲に面した屋敷の広間に入っていき、きぬ擦れが続き、やがて静かになった。
「面をあげよ」
顔を上げると、広間の奥にケイロウがおり、他に四人の男たちが座についていた。服装からして、ハバタ家の家臣だろう。
「両名、言い残すことはあるか」
朗々と響くケイロウの問いかけに、アマギは静かに「ございません」と答えた。
俺に視線が集中するが、冷静さは崩れなかった。
「もし」
言葉にすると、俺を射抜く視線が鋭さを増す。
構うものか。
視線で殺されるわけでもない。
「もし、どちらも死なずに済むのなら、どうか、それでお許しを」
沈黙。
よかろう、とケイロウが答えた。その響きには不穏なものがあったが、今は認められただけでも良しとしなくては。
始めよ。
ケイロウの言葉にまずアマギが立ち上がった。
俺も立ち上がる。
やはり庭は静かだった。
(続く)
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