第2話 矛盾

      ◆


 二人で簡単な朝食を食べた。粥だったが、いつも通りの中身だ。

 食事が終わると、「先に出ていろ」とゼンキが口にしたので、俺は刀を手に表へ出た。

 ゼンキの住まいは質素だが、その正面には比較的、広い空間がある。二人が向かい合うには十分だ。もしかしたらこの小屋を以前に使っていた誰かは、ここを畑にするつもりだったかもしれない、と想像したこともある。

 俺は息を吐いて、頭上を見上げた。

 空は晴れている。雲がゆっくりと流れていた。

 静かだ。

 平穏だった。

 どれくらいを待ったか、小屋の戸が開き、ゼンキが出てきた。片手に刀を下げている。

「用意は済んだかな、小僧」

 ゼンキのからかいに、待ちくたびれました、と応じながら、彼に正対する。

 ゆっくりと進み出たゼンキは、首を回すような動作をし、次に腰に刀を差した。俺はすでに刀は腰にある。

「やるかね」

 あまりに素っ気ない確認の言葉。

「やりましょう」

 俺も似たような言葉しか言わなかった。

 しかし同意が伝わればそれでいいのだ。

 ぐっと腰を落とし、左手で鞘を掴む。親指で鍔を押し、その時には右手は柄にある。

 居合いには間合いが遠い。

 俺の前で堂々と、ゼンキが刀を抜いた。

 俺も刀を抜いて、足の間隔を加減する。

 それぞれの構えで、間合いを測る。

 もともと人気のないところだが、しんと静まりかえる。

 痛いほどの静寂。

 両者の足元で、土を擦る音がする。

 ゼンキが大きく構えを変え、剣を振り上げる。一方、俺は左肩を前に出し、右側へ切っ先を流しておく。

 鳥が鳴く。

 幾重にも反響する。

 波紋のように。

 繰り返し。

 耳を打ち。

 両者が跳ねる。

 交錯。

 振り返り、睨む。

 ゼンキの刀は俺に触れていない。俺の刀もゼンキに触れていない。

 ゼンキは再び剣を振りかぶる上段の構え。俺は仕掛けを変えるべく、八双に構える。

 彼の剣の速さは見えた。余裕を持たせれば、より早く振ってこようと、わざと遅くしてこようと、対応できる。

 ただ、そんな読まれるような間違いを、ゼンキという剣士がするわけもない。

 先ほどにはなかった技で来るのは間違いない。

 間合いをもう一度、お互いが読んでいく。

 踏み込み、剣の間合い、呼吸さえも、双方が双方のそれぞれを把握し、思考と感覚、記憶によって解体していく。

 切れる。

 不意に確信がやってくる。

 どんな技にも、負けることはない。

 切れる。

 足が動いていた。

 滑るように間合いを潰し、手元の動きで剣が翻る。

 弧を描く切っ先。

 閃光の軌跡。

 ゼンキの剣は見えない。

 交錯。

 灼熱。

 振り返り、剣を振りかぶる。

 左腕に痺れが走る。

 激しい痛みで意識が漂白されるが、その中でゼンキが見えている。

 彼は振り返らない。

 いや、振り返ろうとした。

 その体が斜めになり、肩から倒れこんだ。

 濁った音をして呼吸をするゼンキを、俺はただ見ていた。

 他には何も見えない。

 ゼンキだけが見える。

 彼はやがて呼吸を止めた。

 振りかぶったままの刀をゆっくりと下げようとして、左腕の痺れに刀を取り落とした。地面を見ると、いつの間にそれだけの出血がったのか、血だまりができている。

 右手が無意識に左肩に触れると、そこは濡れていて、粘ついた感触があった。

 血が流れている。治療しなければ、おそらくこのまま俺も死ぬだろう。それほどの出血だった。

 つまり、相討ちということか。

 俺の中にあった勝利の確信は、幻だった。

 ゼンキの技を甘く見たか。もしくは俺の技を過信しすぎたか。

 両膝をついて座り込み、俺は右手で刀を取り上げてなんとか鞘に戻した。

 このままゆっくりと死んでいくのかと思うと、それは酷い気もした。

 ゼンキの言葉が思い出された。

 剣に敗れて死にたい、と彼は言った。

 俺もどこかでそう思っていたのだろう。一瞬で命を奪われるような、疑いようのない敗北で終わりにしたかった。

 それが今の俺といったら、曖昧な、勝ちと負けの間で無様に死のうとしている。

 しばらく俺は座り込んでいた。体の半分はもう血塗れで、意識も朦朧としてくる。

 これが死か。

 遠くで足音がしたのはその時だった。

 死神の足音ではない、人の足音だ。

 霞む視界でそちらを見ていると、立派な身なりの男が現れた。ゼンキの住まいは山の中にあり、滅多に来客はない。それがこんな時にやってくるとは、俺は自分の幸運が信じられなかった。

 もっとも、その男に俺をどうこうできるわけもない。

 そのはずだった。

 男は俺に何か声をかけたが、その時にはもう、俺は答えを口にする力もなく、耳もよく聞こえなかった。

 最後に感じたのは男が俺を横にさせる場面、地面の冷たいような感覚で、それきり俺は闇の中に漂い出すことになった。

 激しい熱が俺を包む。

 かと思うとそれが唐突に反転して、凍えるような寒さの中に放り出される。

 何もかもが曖昧な中から俺がぼんやりと目を覚ますと、そこはゼンキの住まいで、まるで時間が逆に進んだようだった。

 今にもゼンキが顔を出しそうな気がする。

 しかし彼は俺が切った。

 間違いなく、切った。

 ぬっと男の顔が視界に入ってきた。焦点がすぐには合わないが、やがてその男が意識を失う前に見た、あの都合のいい客だとわかってきた。

 声も聞こえた。

「痛みはどうですか」

 痛み?

 俺はゼンキに左肩の当たりを切られたはず。そう思ったが、痛みはない。

「痛みますか?」

 俺は首を左右に振った。その時になった首筋の左側に激しい痛みが起こり、思わず息を飲んでいた。男がその様子に、真剣に頷く。

「首は動かさないように。薬は十分にありますから、とにかく、しばらくは安静です」

 男が急にそんなことを言ったので、まさかとは思ったが、どうやら男は医者らしかった。

 ゼンキの元に医者が訪ねてきたり、逆にゼンキが医者を訪ねるのを俺は見ていない。ゼンキは全くの健康だったのだ。俺だってそうだ。医者の方からこの辺鄙な場所へ訪ねて来る理由は少しもない。

 それから男は俺に粥を食わせ、左の首筋から肩に当てられていた布を交換し、強く締め付けるように縛り上げた。

 俺が真相を聞かされたのは十日ほど後で、その頃にはよく分からない粉末の薬を飲めば痛みも気にならないようになっていた。しかし傷口に布を当てるのは一人ではできず、ゼンキの住まいには、まるでゼンキと交代したように医者が詰めて介助してくれた。

「ゼンキ殿から文が来まして」

 医者が俺の肩を縛りながら言う。

「客人と切り結ぶことになるから、怪我をした時の治療のために先に来ておいてくれないか、ということでした。だから私はここへ出向いたのです」

 なるほど、と俺は納得した。

 ゼンキは自分が勝つにせよ、負けるにせよ、紙一重の勝負になると見ていたのだ。

 それにあの朝、彼は俺を先に外へ出し、何かを待っていたのだと今ならわかる。あの時間は、医者がやってくるのを待つ時間だったのだ。もちろん、医者が来てから切り結ぶわけではなく、ちょうどいいところで医者が来るように加減したわけである。

 俺は医者のことなど少しも考えなかった。切るか切られるか、それだけが頭にあったのだ。

 ゼンキは自分の怪我を治療させるために、医者を呼んだのだろうか。

 それとも、俺が生き残った時に治療させるためだったのか。

 医者が力を込めて肩口を縛り上げ、「しばらくは動かす訓練が必要ですね」と汗を拭いながら口にする。

「どれくらいかかる?」

「傷がふさがるのにあと二十日。訓練は人によりますが、一ヶ月は最低でも」

「それで元通りに戻るかな」

 医者が少し表情を強張らせた。

「元通りというと、剣を振れるか、ということですか?」

 そう、と俺が頷くと、医者は眉間にしわを寄せてから、訓練次第で出来るでしょう、と答えた。

 俺は、なら良い、と無言で頷き返した。

 剣が振れるなら、何も問題ない。

 それから二十日ほど、俺はゼンキの住まいで過ごした。ゼンキの死は俺と医者しか知らず、医者は黙っていると俺に伝えていた。ゼンキの死で起こる混乱を回避してくれるようだ。

 正直、今、ゼンキの弟子や信奉者にやってこられても、俺には対抗する方法がなかった。

 俺が死した剣豪の住まいを発つ日は、涼しい秋の気候の日になった。

 俺の旅立ちを見送ったのは医者だけである。その医者は最後まで親切で、いくつかの薬を十分に保たせてくれた。

「どうしてここまで親切にする?」

 思わずそう確認すると、医者はちょっとだけ困った顔になった。

「ゼンキ殿に切られて、死んだものを大勢、見てきました。助けられなかった。しかしあなたは生き延びた。たぶん、それだけのことでしょう。あなたを死なすわけにはいかなかった」

 俺はどう答えることもできなかった。

 医者は命を救うが、剣士は人の命を奪う。

 医者と剣士の間にある感情は、矛盾するような気がした。

 俺は一人で山を下り、街道へ出た。

 先へ進むしかない。

 ゼンキを倒したことで、何もかもが終わるわけではない。

 何かが終わっても、新しい何かが始まる。

 俺は旅の途中、何度もゼンキの技を頭の中で確認した。

 その度に、左の首筋が痛んだ。



(続く)

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