第4話


 この頃から森人たちは、森の中である物を目撃し始めていた。

 それは、体毛に一筋たりとも色の混じらない真っ白な狼だった。

 青い瞳と赤い口中。ピンク色の足裏をのぞいては、本当に白ばかりの狼なのだ。

 目撃して生き残った者は多くないが、その言によると、この白狼はどうやら群れのボスらしい。

 常に群れの先頭を切って走り、獲物に飛びかかるのも矢のように素早いとのこと。

 温暖なこの地方では冬も雪がなく、多少はあこがれが混じっているのだろう。

 あだ名好きな森人たちは、この狼を『雪華』と名づけ、恐れたのだ。

 雪華は月のない暗い夜を狙い、待っていたに違いない。ある夜の一角の砦でのこと。

 いつものようにきちんと世話をしてからアオを馬屋へ戻し、妙娘は兵舎のベッドに入った。

 しかしトロトロとまどろみかけた頃、突然の騒音に起こされたのだ。

 妙娘だけではない。

 すぐに兵舎の全員が毛布を押しのけ、起き上がった。

 狼の咆哮なのだ。

 それも1匹や2匹ではない。おそらく何百という狼たちが砦を取り囲んでいる。

 砦のまわりに人家はないが、離れた村でも咆哮は充分に聞こえたであろう。

 尋常な事態でない。一角たちは兵舎を飛び出し、馬屋へとむかった。

 その中にはもちろん妙娘も含まれていたが、馬屋でも全員が起き出し、馬たちにヨロイを着ける作業が始まっていた。

 みな無言で、手だけを動かしている。

 ちょうどアオの身支度も済んだところだ。数人の同僚と馬を並べ、妙娘は外へ出て行ったのだ。

 月のない暗い夜だったが、狼の目は光をとてもよく反射する。

 砦を囲む森を見回し、妙娘は息をのんだ。

 本当なら塗りつぶすように黒いはずの茂みが、まるで数百匹のホタルのように点々と光っている。

 それがすべて、狼たちの目なのだ。

 妙娘の隣にいた誰かがつぶやいた。

「何匹いるんだ? まるで勝ち目がないじゃないか」

「一角は何人いる?」

 と妙娘は声をかけた。

「22、いや21かな? 狼は200はいるぜ…」

「なら1人10匹ずつ倒すさ」

 それだけ言い残し、妙娘はアオに合図を送った。同時に剣を引き抜き、体勢を整えた。

 だが多勢に無勢という言葉が、これほど似合う場面も珍しい。

 普段であれば10匹狼がいても、一角を見れば、まず5、6匹は逃げる。

 だから一角は、残る4、5匹を相手にすればいい。

 しかしこの夜は違った。

 数に頼み、狼たちはほとんど逃げなかったのだ。

 砦にいた一角の全員が出撃し、その中には例の隊長の姿まで見える。

 隊長も自分の馬に乗り、剣を振り回しているのだ。

 あの体格だから、太い腕から繰り出される一撃は力があり、時々は打たれた狼の悲鳴が聞こえるほどだ。

 だがこれほどの数が相手では、どうしようもない。

 ついに、

「砦に火をかけろ。炎で狼どもを追い散らせ…」

 と隊長も命じるほかなかった。

 命令はすぐに実行されたが、皮肉にもオレンジ色の炎は、黒々とした狼たちの姿を、ただ浮かび上がらせるだけに終わった。

 メラメラと燃える炎を恐れて逃げ出す狼など、ほとんどいなかったのだ。

 もちろん、すでに多くの狼が倒され、地面に横たわっている。

 しかしまだ、数え切れないほどの数が砦を取り囲んでいる。

 砦はグルリを塀で囲まれておらず、北側はそのまま森の丘陵へとつながっている。

 斜面を駆け上がれば、簡単に行き着くことができるのだ。

 アオに合図を送り、妙娘は駆けることにした。目指すのは丘陵の頂上。

 その瞬間にもアオは敵の一匹と組み合っていたが、妙娘の合図に勝負を早め、さっさと相手の首を切り落としてしまった。

 そして足元に群がる連中を蹴散らし、何匹かはひづめの下に巻き込みながら、猛然と駆けはじめたのだ。

 妙娘の意外な行動に驚き、目を見張ったのは、一角たちばかりではなかった。

 狼たちも同じで、一瞬は妙娘の包囲を解き、道をあけたほどだ。

 まるで波をかき分ける船のようにして、アオは歩みを進めることができた。

 やがて登り切り、妙娘は丘の頂上で振り返ったのだ。いったん剣を置き、叫んだ。

「さあて雪華とやら。隠れてないで出ておいで。お前はアオが目当てなんだろう?」

 妙娘は続けた。

「ほうら、これをごらんよ」

 カブトの後ろに手を回し、妙娘は毛皮の房飾りをちぎり取っていた。それを高くかざして見せたのだ。

 黒い毛でできた房飾り。

 黒華のものだ。

 馬上生活で鍛えられた妙娘の声はよく通り、仲間の耳に入った。

 それは狼たちにとっても同じで、いつの間にか戦場は静かになっていたのだ。

 人間と馬と、狼たちの息づかい。そこへ木の燃える音が混じるだけだ。

 妙娘の声が響く。

「おいで雪華。お前の亭主を殺したのはこのアオだよ。くやしけりゃ、かたき討ちに来な」

 妙娘はさらに叫んだ。

「早く出てこないと、形見を火中に放り込んでしまうぞ」

 本当に妙娘はそうしたのだ。

 手袋をした手を離れ、黒い房飾りは宙を舞った。投げられると、思いがけない勢いで房飾りは飛んだ。

 しかしもちろん、黒華の形見が炎に焼かれることはなかった。

 驚くほど大きく、しなやかな物体が群れの中から突然現れ、房飾りを追ったのだ。

 口を開き、牙を巧みに用いて、歯の間にとらえた。

 雪華なのだ。

 雪華の体長は他の狼よりも一回り大きく、尾は魔女の髪のように長い。

 毛は透き通るように白く、その姿には妙娘もため息をついたほどだ。

 しかし、やはり雌であるということか、黒華ほどの巨大さはない。

 それでも、他の狼たちを従える威厳を充分に備えているのだ。

「おやおや、お前があいつの女房かい?」

 兵たちの間で暮らし、妙娘の言葉づかいも多少、以前と異なっているのは当然だろう。

「ザコたちを下がらせな。二人だけでやろう」

 首をかしげ、妙娘はアオの鼻息に耳を澄ませた。

「アオもそう言っているぞ。お前も女王なら数に頼まず、勇気を見せたらどうだ? 一対一の勝負といこうや」

 例の隊長。

 一角の隊長にまで上り詰めたからには、やはりただ者ではない。

 機を見て逃す、ということはなかった。

 妙娘の声を聞き、すぐに部下たちに命じたのだ。

「森に火をかけろ。ザコどもには目をくれるな。丘を取り囲む形で、雪華が逃げ場を失うように燃やせ。やつの退路を断つんだ」

「そんなことをしたら、妙娘も逃げ出せなくなります」

 しかしなんと、真っ当な疑問を述べる部下を、この隊長はブン殴ったのだ。

「俺の知ったことじゃねえ。狼の牙から森人を守るのが一角の使命だ。雪華は狼どもの女王だ。雪華を倒すしか方法はねえ」

「でも妙娘は?」

「雪華は、アオが黒華を殺したと、なぜか知ってやがった。人語も分からないはずの獣だが、見ろ」

 隊長は指さした。

 今しも丘の上では、雪華と妙娘がにらみ合っている。

「雪華の目を見ろ。青黒い炎が燃えてやがる。あれはただの狼じゃねえ。魔性のものだ」

 やがて5回、6回と、アオと雪華は体をぶつけあった。

 だが両者ともあまりに素早く、その足の動きさえ、はっきりとは見えないほどだ。

 雪華の牙が挑み、アオのヨロイをかする。

 すかさずアオが剣を振り回し、なぎはらう。

 もちろん雪華も、それにしてやられることはない。

 1度か2度は、雪華がアオの背に乗りはした。だが妙娘が剣でなぎはらう。

 魔性の物を目の前にして、あの娘になぜそれほどの勇気が出せるのかと同僚たちがいぶかしむほどだ。

 鬼神がかった戦いぶりに魅入られ、一角たちは体を動かすことさえできなかったのだ。

 ついに雪華が、妙娘を森のさらに奥へといざなった。

 雪華が前を行き、妙娘とアオは後を追ったのだ。オレンジ色の炎に包まれた茂みの向こうへと、彼らの姿は見えなくなった。

 ここで一角たちは突然、気がついたのだ。自分たちも炎に囲まれかけている、ということに。

 一角たちは馬にムチをくれ、あちこちに火傷をしながら逃げ出すのが精一杯だった。

 森と砦は、そのまま完全に焼け落ちてしまった。

 黒々とした一面の燃え残りと灰、焦げた大地以外は何もない。

 翌日、部下たちに命じ、隊長は焼け跡を捜索させた。

 雪華の死体が見つからないことはなかば期待されており、誰も驚きはしなかった。

 しかし部下たちは、もう一つの不思議を報告したのだ。

「妙娘もアオも骨はおろか、ヨロイのカケラさえ発見できませんでした…」

 その後、妙娘とアオの姿を見た者はいない、と古文書は結んでいる。


(終)

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一角のアオ 雨宮雨彦 @rain

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