贖罪の山羊は運命と踊る

加峰椿

Ch. 1 WHEEL OF FORTUNE/運命の輪

Ep. 1

Up To You/君次第 ①

 理想郷は実在したのだ、と誰かが言っていた。

 どんなに救いようがない人間でも、変えてくれる国があるんだって。

 だから、次の行き先はここにしたんだ。

 変えたくて。変わりたくて。


 少女は運命に手を伸ばした。



 その駅はひどい人混みだった。

 少女はスーツケースを片手に、離反を許さない奔流ほんりゅうに身を任せる。過ごしやすい気温だと聞いていたのに、ひしめく波に揉まれて、もうしっとりとした感触が肌を撫でてきていた。火照った息が苦しい。肺が警笛を鳴らし出し、静かに彼女は咳き込んだ。段々と目を開けるのも辛くなってきて、瞼を閉じた。今は音だけでいい。要らない感覚は切り離して、ただひたすらに足を動かす。


 やがて、自動扉が開く音がした。

 ここに喧騒の境界がある。騒がしさに背中を押されて、もう少しだけ前に進んだ。汗ばんだ肌に陽が落ちる。新鮮な酸素が身体を包む。

 足を止めて、見開いた。


 紺碧を切り裂く、白。


 塔が、空を穿ってた。


 世界一の高さを誇るそれは、技術力の結晶のはずなのに。遺産としてありそうな古めかしいデザインのせいで、少女は一瞬だけ、御伽噺おとぎばなしに迷い込んだ気持ちになる。


「ここが、『運命国家』アプトフォルス」


 息を張り詰めながら、塔から街へと視線を移す。

 大路に生えるビルは高さを競うように乱立していて、宙を切り裂くぐちゃぐちゃに絡まったレールはどこの常識と比べたって非常識で、何一つ警戒せず真横を通る生き物はまるで異星人のように思える。


 辺りは明るく、当然のように人は多く、少女の耳元にまでくだらない会話がよく届く。三時間後に会議があるサラリーマン、遊園地にこれから遊びに行く家族、カップルが優しく愛を伝え合って、誰かが昼食にハンバーグを所望した。そこでようやく、彼女は自覚する。


 さっきまで乗っていた列車は、まったく違う世界に繋がっていたのだ。それも、平和という果実に、愛と希望を混ぜ合わせてコトコト煮詰めたような、甘ったるいジャムのような世界に。


 あまりに強大で魅力的な未知を前にして、少女の足はすくみあがった。釘付けにされていた目を何とか膝に落とし、崩れ落ちそうなそれを両手で押さえる。


「駄目だよ、ソフィア」


 本当に、いいのだろうか。

 いつまで経っても煮え切らない意志が、そんな弱音を吐いている。


「駄目だよ」


 叱責する。聞くな。耳を塞げ。ここでしゃがみ込んでしまったら、きっと、もう一生立てなくなるから。


 変わるために、来たんだ。


 空に居座る運命の女神の塔フォルトゥナ・タワーを睨みつけ、ソフィア・クレールは一歩目を踏み出した。


 ◇


 運命。それは意志をこえて、人間の未来さえも決定してしまう超越的な力。いくら人が悩もうが、選ぼうが、すべて運命の掌で踊らされているんだ、と運命論者は語った。自由意志を信じる多くの者たちが支持するわけもなく、存在すら疑われていたロマンのひとつ、だった・・・


 アプトフォルス。通称「運命国家」と呼ばれるこの国は、人々の運命に干渉する《フォルトゥナ・システム》の構築に成功したのだ。人間は運命を可視化し、そしてそれを変える手段を得た。

 アプトフォルスでは、人々の運命が日常的に監視され、不慮の事故や犯罪は起きる前に対処される。

 ここでなら、病で死ぬ人も、怪我で死ぬ人もいない。

 当然、犯罪者だって。



 そんな理想郷の首都パルツェ。

 塔を中心に、放射線状に広がっているこの街並みの中に、ないものなんてきっとない。見上げるだけで首が疲れる高層ビル、桁を見間違えたかと二度見したほど高級なジュエリーに、情報に疎いソフィアでさえ知っている名門大学、など。「など」なんて言葉で片付けていいのかって思うほど、他にもハイレベルな施設やものが溢れていた。


 それらすべてが複雑怪奇に入り交じり、形成されているここはもはやダンジョン。攻略するのに、右手の地図は必須アイテムである。


 現在地を追従し続けるこの人差し指は、何より大事な命綱だ。これが切れたら最後、ソフィアは一生路頭に迷う気がする。

 慎重に歩いた。右に曲がるなら、地図は一緒に左に回した。だから、曲がる場所さえ間違えなければ良かったはずなんだ。


「待って、ここどうなってんの? このお店が、あれで。ならここにはレストランが……ってあれ?」


 そこにあるのは真っ白な────

 「歯」のイラスト。


 ソフィアは宙を見上げた。眩しくはない。あまりに窮屈に建てられた難攻不落のダンジョンには、陽の光さえ届かない。


「ここ、どこ?」


 命綱はとうに切れていた。


「お困りかい?」

「ひっ!」


 掠れた悲鳴が漏れ出る。右肩に人の気配がした。ゆっくりと首を下ろし、ほんの少しだけ横に向ける。


 赤い目。


 シガレット一本分より近くに、女の子の顔がある。鼻息がかかってしまいそうで、ソフィアは呼吸を止めた。

 女の子は動かない。

 面白いものを見つけた子供じみた表情で、ソフィアをまっすぐ見つめている。


 ──誰だ?


「そっ、その、あなたは?」


 女の子と距離を取りながら、何とか取り繕った口調で疑問を絞り出す。不信感を隠したソフィアの声音に、女の子はにっこりと微笑んで、


「僕かい? 僕はカメリア。地図を片手に、冷や汗をかいて突っ立ってる君が気になって話しかけた、ただの通りすがりの女子高生さ」


 飄々ひょうひょうといった調子でカメリアは自己紹介する。

 彼女の言うことは、疑う余地もなくまさに図星だった。だらんと垂れ下がった右手には地図が握られていて、虚空を眺めながら突っ立っていて、額に冷や汗を浮かばせている人間がいたら、自分だって「間抜けな迷子」としか思わないだろう。

 そんな間抜けさんを思い出してか、カメリアはさっきよりも意地悪な笑みを浮かべて、


「それでもう一度尋ねるが……何かお困りかい?」


 ただの道案内の提案。迷ってるソフィアにはありがたい申し出だ。なのに、その言葉の裏にナイフが仕込まれてないか疑ってしまうのは、きっとここでは悪い癖なんだろう。

 ここは運命国家アプトフォルス。世界で一番平和な国であり、警戒すらいらない理想郷。


「ここに、行きたいんです」


 ソフィアは一瞬迷ったあと、慣れないことに緊張しつつも役所を指差し、カメリアに地図を見せた。カメリアはグイッと顔を寄せ、血のような瞳でじっとソフィアの指の先を射抜く。

 そして赤がスライドしてきた。こちらに向かってくる。正体不明の恐怖から無意識に目を瞑り、


「お安い御用だとも」


 真っ暗な世界で、そんな言葉を聞いた。恐る恐る開けた視界に映ったのは、ブロンドのロングヘア。カメリアの、背中。

 ここはどこか。どうやって行くのか。そう道を教わるつもりだったソフィアは、呆気にとられて棒立ちになる。五メートルほど進んだカメリアが、こちらを気遣うように振り向いて、


「どうしたんだい? 行くよ」

「う、うん」


 ──ああ、やっぱり。この国に来てよかった。


 カメリアの背中を追いながら、ソフィアの頭にはそんなことが過ぎった。


 ここは甘い香りで満ちている。甘くて、優しくて。でもずっと嗅いでいたら、鼻が利かなくなるような毒の香り。


「そういえば、君の名前は?」


 ここだったら、染み込んだ煙たい匂いだって消してくれる。


「ソフィア。ただのソフィアよ」


 そう、思えたんだ。

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