第3話 春風の名前


「どうして? 誰が言ったの? そんな酷いことを」

 彼は申し訳なさそうに土壇場で叱責された学童のように言った。

「専門書にそう、書いてあったから」

「その本がおかしいんだよ。私が保証する。そんな尺度なんて勝手に決められるものではないって」

 私が急かされるように言い切る。彼は無表情にも小さく笑みを浮かべながら本を閉じた。

「僕らはこの世にある全ての言葉の筵を把握できない。黒い感情も清らかな目覚めも一滴まで呑み込めない。こんなに世界には多くの言葉の葉陰がたくさんあるから」

 それこそ君が言ったような桜時、私たちはベンチの上で透き通るような弥生尽の青空、うたた寝するように二人で掛け合った。

 彼の会話は主に最近、知った古語についてだった。

「風だけでもこんなに異名がある。春の風は特に、花信風、花風、協風、黒北風、軽風、光風、穀風、東風、清風、吹花擘柳、涅槃西風、梅風、花の下風、花の風巻、花嵐、風炎、雪解風、陽風……。みんな覚えきらないね。この言葉を操るだけでも数年はかかりそうだ。まだまだ知らない言葉がこの世にはたくさんある」

 見せてもらった本もほとんど辞書といっても、不適切ではない立派な装丁の本だった。

「ほとんどの人は知らないよ。真君だから敏感なんだよ、きっと」

 君の長い揚羽蝶の触覚のような滑らかで、センシティブな睫毛が桜色を成した木漏れ日に乱反射し、私は思わず、春爛漫な木陰で見惚れる程だった。

 病気がちの君には憂いのシルバーグレイの傘が似合う。灰色とサーモンピンクって何か、しっくりきて対比するような反原色な筈なのに妙に似合うんだ。

 いや、桜鼠色っていうんだ。痛む悶える心臓を撫でるような桜の白い花びらが花吹雪となって落ちていく。

 地面は薄桃色の絨毯のように疎らな焦げ茶色を表示している。

「感性が本当に豊かな人は自信がないものだよ」

 隔絶されたような病棟で、悲哀のドレスを纏った桜の木は悠久の歴史を忘れ、その刹那を刻んでいた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る