大変不敬ながら……2


 王宮の通用門から外に出たアンナは、夏の強い日差しに目を細めた。視線を上げれば、真っ青に澄んだ空には、白く輝く入道雲が浮かんでいる。

 緩く下っていく坂の下手に目を向ければ、日差しに照らされた石畳が空気を熱し、カザレナの街が揺らいで見えた。祖国では夏季に一回か二回という猛暑が、ここでは連日だ。

 汗が滲んでくるのを感じながら、アンナは足を踏み出す。向かうのは噂に聞く、カザレナで最も大きい市場だ。


「……ソフィーナさまこそ市場に行きたがっていらしたのに」

 ソフィーナをベタベタに甘やかそうとしていた、護衛のバードナーとジーラットが彼女の希望を却下したのは、その時既にシャダに狙われていたからなのだろう。今更気づいて、思わずぼやく。

「市場ほどの人込みとなると、さすがにちょっと危ないですからね。でも大丈夫。妃殿下がカザレナにお戻りになる頃には、いくらでも行けるようになっているはずです」

「……そうですね」

(戻っておいでになるのかしら――)

 疑問をのみ込んで、アンナはエドワードにあいまいに頷いてみせた。


 アンナは、ソフィーナがフェルドリックにまったく愛されていないと思っていることを知っている。それゆえに、フェルドリックへの思いを諦め、ハイドランドに帰る気で城を出たことも。

『本当に私だったわ、私から直接返事を聞きたいから、ハイドランドに来たと、そう仰ったの……』

 でも、ハイドの城でフェルドリックからプロポーズを受けたソフィーナは、これまで見たこともないほど幸せそうにしていた。

 小さい頃からソフィーナは、異母姉のオーレリアに見た目のことを「かわいそう」と言われ続けていた。「でもその分とても賢いから」などと善意を装っていたけれど、それも含めて『そんな見た目のソフィーナを女性扱いする人はいない』という悪意いっぱいの刷り込みだ。

 ハイドランドの陛下や取り巻きの貴族たちがそれに同調したせいもあって、ソフィーナはそれが本当だと信じてしまっている。アンナや母がいくらそうではないと言っても、慰めとしか受け取ってもらえなかった。メリーベルさまやセルシウスさまが人の外見に良くも悪くもまったく言及しない方だったのも、悪い方に働いてしまっていた。

『夢みたい……。十二の頃からずっと憧れてきたのよ。まさか初恋が実るなんて……』

 そんな育ちゆえ、結婚に憧れていながら恋に臆病だった彼女が、あれほど素直に喜んでいたのだ。

 どういう経緯であそこまでの誤解にいたったのか、情けないことにアンナにはいまだわからない。

 でもこっちに来てからも、ソフィーナは密やかにフェルドリックを目で追っていた。手を取られるたび、彼が近づくたびに緊張もしていた。何より、愛されていないと言った時、あんなに悲しそうな顔をしていた。

 ソフィーナはまだフェルドリックが好きなのではないか、アンナにはそう思えてならない。

(それなのに、本当に諦められるのかしら……)


 フェルドリックのほうも、ソフィーナを手放そうとしている。

 彼はソフィーナに嫌われていると思い込み、ハイドランドに帰してやるべきだと考えている。

 ハイド城を訪れた際に、彼が皆の前でソフィーナにわざわざプロポーズしてみせたのは、ハイドランド王やオーレリアの面目をつぶすためだったはずだ。

 背後に控え、その時の様子を見ていたジェミデ侍女長が、

『ソフィーナさまの立ち位置にお気付きになった時も、陛下とオーレリアさまのお話の時も、ほんの一瞬だけれどすごく怖い目をなさったの。だから間違いなく意趣返しよ。内緒の話だけれど……本当に爽快だった』

と、長年の友人であるアンナの母相手にこっそり笑っていたという。

 それだけじゃない。本来国王の護衛にしかつかないはずの騎士団第三小隊長を、輿入れの警護に派遣してきたのも、人懐っこいバードナーやジーラットを護衛に選んだのも、全部ソフィーナを守るためのはずだ。

 ソフィーナが遠慮して贈り物を受け取りたがらない時には、「質素も行き過ぎれば貧相に見える」「誰より責任を果たしているのだから、もっと我がままにやればいい」「なんであんなめんどうな性格なんだ」とかぶつぶつ言いながら、どうしたら受け取ってくれるのか、アンナから聞き出そうとしてきた。

 春の間中、ソフィーナの部屋にあの花が飾ってあるのを見ては、ほっとしたような顔をしていたことも知っている。


 彼がソフィーナに対し、上手くやれなかったのは、間違いのない事実だ。でも、ソフィーナを大事に思っているのも確かだと思う。

(なのにというか、だからこそというか、手放そうとしているのよね)

「……ほんっとうにどうしようもない人」

 もちろん知っている。彼以上にどうしようもないのは、二人の思いに気付いていながら、誤解には気づけず、まったく役に立てなかった自分だって――。

 炎天下の街路を歩きながら呟けば、その声音の暗さにだろう、エドワードが「え、え、えっ、お、俺……?」と思いっきり顔を引きつらせた。



 エドワードの案内でやってきた市場は、王都カザレナで最大というだけあって、呆気にとられるくらい賑やかだった。

 晴れた空の下、広場かと見まごうほどの幅広の通りには何列にも店が連なり、奥が見えない。店頭には瑞々しい生鮮食品、干した肉や魚などが所狭しと並べられている。アンナが見たこともない色鮮やかな果物や野菜は、きっと南の物なのだろう。

 調理済みの食品を扱うお店も多く、あちこちから空腹を誘う匂いが漂ってくる。

 他に、お茶や焼き菓子、アイスクリームなどの嗜好品を扱うお店や、調理器具や食器、小洒落た雑貨などを扱うお店もあって、目移りしてしまいそうになる。

 これほどの暑さだというのに、様々な身なりの人々が活発に行き来していて、商品を運ぶ荷車の間を忙しなくすり抜けていく。

 値段の交渉をしているのだろう、あちこちの店から軽妙なやり取りが耳に飛び込んでくる。


「お祭り、というわけではないのですよね……」

「ええ、ここは常設の市場です。とはいえ、カザレナの人間は、お祭りみたいな気性の者が多いですから……騒々しくてびっくりするでしょ?」

 呆然とするアンナに、エドワードが人懐っこく笑う。

「とりあえず北方の食材から見てみますか? 扱う店があっちにあるはずです、行きましょう」

 そうして、「興味のあるものがあれば、いつでも仰ってください」というエドワードと共に、アンナは雑踏へとおそるおそる足を踏み入れた。


「よお、エド。って、アンナさんじゃないですか。ご無沙汰しています」

「あれ、顔見知り……って、そっか、あの時の出迎え、第三小隊だったな」

 巡回中と思しき騎士が二人、青物屋の前にいたエドワードとアンナに声をかけてきた。

(確か輿入れの際に護衛してくださった……)

 道中、不便はないかと何かと気にしてくれた人たちだ。

 見覚えのある顔に、ハイドランドからカザックへの旅を思い出してしまって、アンナは表情を消す。

 あの時も不安ではあったけれど、まさかこんなことになるなんて思ってなかった。

 物心ついた時には一緒にいて、カザックへの輿入れのあの旅の間もこっちに来てからも、ずっと一緒に過ごしてきたソフィーナは、今アンナの側にはいない。どこにいるのかも、無事でいるかもわからない。今すぐ探しに行きたいのに、それもできない。

「……」

 返事を忘れて、ただただ彼らを見つめる。

 あの旅でソフィーナに寄り添ってくれた彼らは、そのアンナに心配そうな顔を見せた。直後ににっと笑う。

「大丈夫です、“あの二人”、なんで騎士やってんだってぐらいたくましいですから、“彼女”は絶対に無事です」

「今“あの方”が必死に“手はず”を整えてくれていますから、“準備”もすぐに整います。そうなったら俺たちも行きますから」

「……っ」

 外交に関わることだからだろう、誰の名前も出さず、どこに行き、何をするとも言わず、それでも彼らは精いっぱいアンナを慰めてくれている。

 そう悟った瞬間、そんなつもりはなかったのに、ぽろっと涙が零れた。

「う、わ、うわ、うわわっ、な、泣かすなよっ」

「っ、す、すみませんっ、そんなつもりではっ」

「騎士失格……っ、ななんでもしますから、泣き止んで……っ」

 大柄でいかつい顔をした彼らが、揃っておろおろとしているのを見たら、ますます涙が止まらなくなった。



* * *



「すみませんでした、ご迷惑をおかけしてしまって」

 落ち着いたところで、さきほどの騎士たちにお礼と謝罪をして別れ、アンナは再びエドワードと共に市場を歩き始めた。

 泣いてしまったことが恥ずかしくて、アンナは身を縮める。

「迷惑なんてことはまったく。むしろ……そっか、泣けるなら泣いたほうがいいのかも。泣かないでと言ったの、やっぱ訂正します。あ、それ、一つください」

 穏やかに微笑んだエドワードは、本当に気にしていないようだ。アンナと話しながら、脇の店でクレープを買った。

「アンナさんはいつも頑張ってますから、俺もですけど、さっきの奴らも他のみんなも応援してるんです。弱音でも我がままでも何でも仰ってください。――というわけで、はい、どうぞ」

「……アイスクリーム? い、いただけません、こんな高価な物」

 それをひょいっと手渡され、アンナはその行為にもクレープの冷たさにも驚いて、目を丸くする。夏のアイスクリームは庶民には贅沢品だ。

「……そっか、ハイドは涼しいんでしたっけ。ここの夏は暑いでしょ? 王都の南西に地下深くに続く氷穴があって、そこに商人たちが冬の間に氷を蓄えているんです。で、温かくなってきたらこうしてアイスとかにして大量に売る。そのために牧場や果樹園も経営しているぐらいだから、値段もお手頃です。遠慮なんかいらないですよ」

 そう言いながら、彼は目元を緩ませた。

 その表情に促されて、アンナはアイスクリームを包んだクレープを恐る恐る口にした。

「……」

 甘みと冷たさ、桃の爽やかな香りが口いっぱいに広がる。

(そういえば、ソフィーナさまも自分で初めて買い物をした、イチゴ味のアイスを買ったと……)

 隠そうとしているようだったけれど、微妙にはしゃいでいらした。その時の様子を思い出したら、少し笑うことができた。


「おや、エド、あんたが女の子と一緒だなんて……雪でも降んのかしら」

「……人をどうしようもなくモテない人間みたいに言わないでくれる? って、まあ、事実、仕事なんだけどさ」

「やっぱり。おかしいと思ったんだ、そんな美人がエドとって」

「それ、色々ひどいからね?」

 王都の出身だという護衛の彼は、市民に親しまれている騎士たちの中でも、特に顔見知りが多いらしい。

 体格が良くて、威圧感が出そうなものなのに、歩くにつれ、市場のあちこちで声をかけられ、からかわれる。


「ねえ、お嬢さん、そいつ、すっごくいい奴なんだよ、なのにガールフレンドの一人もいなくてさあ。彼女になってやってくんない?」

「そーそー、騎士なのに、いっつも『いい人だとは思うけど』『お友達って感じかな』とか言われてんだよ」

「騎士関係ないだろっ、てか、なんで知ってんの? いや、それより、アンナさんに変なこと言わないでっ」

 あまりの賑やかさに、沈んでいることもできない。


「あー、エド兄ちゃんが美人と一緒にいる! またふられるだけなのにー」

「決めつけないの! 今回は大丈夫かもしんないじゃん。ほら、カイト兄ちゃんもフィルもヘンリックもロデルセンもいないもん」

「つまり……とられないってことか! 兄ちゃん、ようやく学習したんだなっ、えらいっ」

「女のフィルにまで負けてるもんなあ。そうだよ、一緒にいなきゃいいんだよ」

「っ、あいつに勝てる男なんかこの世にいねえよっ! そういう生意気なこというやつはこうだっ」

 エドワードをわざわざからかいに来たと思しき子供たちは、彼に順番に抱えられて、高い高いをされ、キャアキャア笑い始めた。そして、その子供たちに、エドワードは幸せそうに顔全体を綻ばせる。


「姉ちゃん、兄ちゃんのことよろしくなーっ」

「マジでいい人なんだ」

「だからそれは言わないの! エド兄ちゃん、いつもいい人だけどって言われてふられてるんだから」

「…………もうやだ」

 情けない顔で肩を落としたエドワードに、知らず頬が緩んだ。


「お、笑ったら、もっと美人」

「うん、エド兄ちゃんにはもったいない」

「うっさい、さっさと父ちゃんたちの手伝いしてこいっ」

 ゲラゲラと笑いながら散っていく子供たちと、それに顔をしかめるエドワードを見ていたら、いつの間にか声を漏らして笑ってしまっていた。

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