ソフィーナ視点

春を恋う1

「ソフィーナ妃殿下、お目にかかれて本当に嬉しく思います。それから、ご結婚おめでとうございます」


 ソフィーナは今、ザルアナック伯爵の嫡子夫妻と初めて対面している。

 夫妻を招き入れているのは、ソフィーナの居住棟にある来客をもてなすための部屋だ。

 中央に居心地のいいソファが置かれ、その前のテーブルを始め、そこかしこに庭師のコッドが届けてくれた感じのいい花が飾られている。じきにアンナがお茶と料理長のサジェス特製のお菓子を持ってやってくるだろう。


「……」

(私が挨拶に反応できないことがあるとか、想像したことなかった……)

 そう思えるあたり、目も耳も頭も一応働いている。なのに、ソフィーナには目の前の光景がどうしても現実に思えない。

 母のしかめ面が脳裏に浮かんだけれど、幻想の彼女もソフィーナの視線を辿った後、納得したような顔で消えてしまった。

「お祝いが遅れて申し訳ありません」

 自分を凝視したまま固まるソフィーナに対し、そう微笑むその人の髪は、腰に届く長さでまっすぐさらさら。窓から差し込む太陽の光が、糸として顕現したかのように見える。

 長くしなやかな四肢に、たおやかな細身の体。細い首の上の小さな顔は神殿に祀られている女神像そのもので、それに似つかわしい、優しくも上品な笑みを目元と口元に浮かべている。

 最も印象深いのは、朝焼けのような紫の瞳だ。総じて人外の存在にしか思えないのに、そこに宿る光がどこまでも温かくて、その事実だけがその彼が人間であることをソフィーナに教えてくれた。


『いいですか、彼との面会には、心を確かにお持ちになってお臨みください。大丈夫、系統としてはフィルと同じですから、妃殿下は耐性があるはず』

 母に続いてヘンリックの真顔が浮かんできて、相変わらず見惚れつつも、

(なるほどこういうことだったのね)

と納得する。

『とはいえ、似てるの、基本の顔形だけですよ。私と性別を間違えて生まれてきたとしかいまだに思えない』

 しみじみと言っていたフィルの台詞に、

(ってことは、男の人ってことだわ、信じられない……)

とぼんやりと思った。

 たおやかで、瞬きした次の瞬間には消えてもおかしくない感じのこの人が、生命力の塊みたいな彼女の兄だというのもにわかに信じ難い。


「あのう、私、ナシュアナ・カザック・ザルアナックです、ソフィーナ妃殿下」

「っ」

(そ、そうだわ、夫“妻”をお招きしたんだわ、カザックの王女殿下!)

 彼の横から響いた声に、ソフィーナは彼の妻の存在を思い出す。

「……おいでくださってありがとう。お祝いとあわせてとても嬉しく思います」

 母に叩き込まれた笑顔の仮面を急いで貼りつけ、ソフィーナはラーナック・ド・ザルアナックに挨拶を返す。

「ナシュアナ殿下におかれましても、お目見えできましたこと、この上なく光栄に存じます」

 それから、その横、彼の妻であり、王女でもある女性へと、恐る恐る礼をとった。


(ああ、もうなんて失礼をしてしまったの)

 ソフィーナは胃の痛みに耐えながら、視線を改めてナシュアナに合わせた。

 身分的には他国の王女で、カザックの王太子妃でもあるソフィーナが上ではある。

 が、ナシュアナ・カザック・ザルアナックは降嫁した今も王女の称号を持ち、異母兄であるフェルドリックとカザック王室の人気を二分する人だ。

 彼女がフェルドリックとソフィーナの結婚の儀や披露会の場にいなかったのも、その人気ゆえ。占領地ドムスクス東部の統治にあたって、カザック王国が彼の地を尊重する姿勢を示す象徴として、国王陛下が彼女とその夫を慰問に派遣したからだと聞いている。

 そんな人の機嫌をみすみす損ねるようなことをしてしまったこともだが、それ以上に問題なのは……。

(ひ、人として失礼すぎる……。隣にいる美人のせいで、人に存在ごと無視される気持ち、私が誰より知っているはずじゃない、私の馬鹿……!)

 穏やかに見えるはずの微笑みを顔に浮かべながら内心で滝のような汗を流すソフィーナを前に、ナシュアナはにこりと笑った。

「フェルドリック殿下からお話をお聞きしてより一年越しで、ようやくお目にかかれました。私こそ本当に嬉しいです。あ、ごめんなさい、その前にご結婚のお祝いが遅れてしまったことをお詫びするべきでした」

「あ、いえ、お詫びすべきは私の方です、その、ご挨拶が遅れ、まして……」

(……って、失礼なことしたって認めちゃった! フィル兄に見惚れて、あなたを忘れてましたって告白したようなものじゃない! ああ、もう、私、何やってるの……)

「……ごめんなさい」

 情けなさと申し訳なさで、つい眉尻を下げてしまったソフィーナにナシュアナが返してきたのは、柔らかい笑い声だった。

「ふふ、ラーナックのせいでしょう? 私、いつも空気」

「え、い、いえ、そんな、」

「一応元王女なのに肩書負けしまくりで」

(ど、どこかで聞いたような……)

「夫が自分より美人って色々厳しいです」

(それも……)

 しみじみと、さりとて欠片の卑屈さもなく呟いたナシュアナに、呆気にとられて二の句が継げない。


(……え、えと、何かしら、この感覚)

 ソフィーナはナシュアナを見つめたまま、瞬きを繰り返す。

 目の前の彼女は、フェルドリックにはまったくと言っていいほど似ていない。ソフィーナが言うのもなんだが、かなり幼い印象だ。

 それだけじゃない、奇麗に整えられてはいるものの、特に印象に残らない茶の髪に薄い緑の瞳、丸顔、ソフィーナより少し低い身長を含め、取り立てて特徴のない体つき……なぜか既視感を覚える。


「ドムスクスの慰問でも、会う人見る人みんなラーナックが王女だと思い込んでしまうのです。そして、私が王女だとわかると、ものすごくびっくりして……毎回ですよ? 途中からはなんだかおもしろくなってしまって」

 そう言いながら、ナシュアナはくすくすと声を立てて笑った。陰りも自虐も一切ないその様子に、ふよりと口元が緩む。

「ナシュアナさまのお気持ち、本当によくわかります」

 初見の相手に本音を吐露するなんて、本当ならやってはいけないことだ。

 だが、フェルドリックやアンナ、フィルから聞いたナシュアナ・カザック・ザルアナックの話に加え、今目の前にしている彼女を見れば、そうしても大丈夫な気がしてしまった。

 そして、ソフィーナのそんな見立て通り、ナシュアナは目を丸くした後、「やっぱり。お兄さまもラーナックに負けないぐらい人目をお引きになるもの」と涼やかな笑い声と共に笑み崩れた。

 下手な慰めをしてこないところも好ましくて、ソフィーナもつられて笑い声を零す。


「こんなことを申し上げては失礼にあたるかもしれませんが、なぜかしら、初めてお目にかかる気がいたしません」

「私もです。どうかソフィーナとお呼びになって」

「では私の方もナシュアナと」

 そうして、ソフィーナはナシュアナとその夫であるラーナックと共に、アンナが淹れてくれたお茶を囲んだ。


 ソフィーナがハイドランドに行っていた間、カザレナで代役を演じていたアンナは、ナシュアナたちザルアナック伯爵家の人々や、アレクサンダーたちフォルデリーク公爵家の人々に本当に親切にしてもらったそうだ。

「では、私は下がります。ナシュアナさま、ラーナックさま、ソフィーナさまをよろしくお願いいたします」

「ようやくお会いできたのだし、僕たちの方こそよろしくお願いしなくては」

「本当に。ところで、アンナ――ここだけの話なのだけれど、私たち、お近づきのしるしにお兄さまの弱みをソフィーナさまにお教えしようと思っているの。アンナは賛成してくれる?」

「もちろんです」

 リラックスした様子で二人と会話を交わしたアンナは、ソフィーナに目くばせを送ってくすくすと笑いながら退出していった。


 それからソフィーナは、夫妻としばらく茶を楽しんだ。そして、ラーナックがフェルドリックを呼びに行ったのを機に、ナシュアナと共に場所をテラスに場所を移す。

 脇の庭園の木々の葉はもうすっかり散っていた。色とりどりの落ち葉が地を染め、小春日和の日差しの中、カケスがかさかさと音を立てながら、下に落ちたどんぐりを探して歩いている。


「お兄さま、ラーナックに捕まるかしら?」

「全力で逃げていると思います」

 仕事を口実に今日のお茶会を断ってきたフェルドリックだったが、「お逃げになったのね」とナシュアナにあっさり看破されてしまい、それを聞いたラーナックが、「女の子同士のおしゃべりも特別だろうし、じゃあ、僕はフェルドリックを探そうかな。小さい頃はよくねだられて、一緒にかくれんぼをしていたんです」と笑って出ていったのだ。

「そうやってお兄さまを子ども扱いするからではないかしら。なりふり構わずに婚約を取りつけたソフィーナさまの前よ? 格好よくふるまいたいでしょうし」

「それで泥沼に陥っていくといい加減気付けばいいのに、困った子だよねえ。そういうところもかわいいのだけれど」

(あ、あのフェルドリックを「かわいい子」呼ばわり……?)

 すごいを通り越して、微妙に怖くなったのは内緒にしておこうと思う。

 もう一つ、「さすがフィルの兄と言うべきね、やっぱり変わっている……」と思ったことも。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る