ヘンリック視点

素顔

(ああ、うん、そうだね、かわいいよね、気持ちはものすっごくわかるからさあ)

 ヘンリックは心の底から尊敬する(敬“愛”ではない……)自国の王太子、フェルドリックの横顔を見、苦笑を零した。

 彼の護衛の近衛騎士と目が合って、生真面目な彼に『不敬な』とでも言いたげな顔をされて、肩をすくめる。腕はいいが常識に凝り固まった彼と、ヘンリックは微妙に合わない。

 もっとも「常識――昔はなかったけど、今は大丈夫。そう、私は成長した!」と言い切る、常識だけじゃなくて自覚も足りないフィルと彼の間柄よりは、はるかにましだけれど。


 何の変哲もない丸椅子に腰かけたフェルドリックの目線の先、彼の妻であるソフィーナは、今お忍びで王立孤児院を訪ね、古い木造の談話室で子供たちに囲まれている。

 今日も大人気で、本やぬいぐるみ、オテレットを手にした子供たちに「ご本読んで」だの「おままごとしよう」だの「オテレット教えて」だの、口々に話しかけられ、優しく微笑んでいる。

 その顔もだけど、一番はくるくる変わる表情だ。

 室内は古いながらもよく手入れされていて日当たりが良く、陽だまりの中にいる彼女の表情の変化を具に見せてくれる。子供たちの行動に目を丸くし、不思議そうに首を傾げ、いたずらに誘われてくすくす笑い、ダメなことをした時はちょっと怖い顔をして見せ……公務を離れた彼女が見せるああいう顔は、本気でかわいい以外の言葉がない。

(そう口にすればいいのに)

 ヘンリックよりよっぽどそう思っていると顔に書いてあるくせに口に出せない主君に、ヘンリックは呆れのため息を吐き出した。


 先ほど城を出る寸前の会話が、またひどかったのだ。

 服をシンプルなワンピースに変えただけのソフィーナをしげしげと見つめた挙句、

『見事な変装だ』

などと、しみじみと感心し、

『どこにでもいそうな地味な街娘にしか見えない? ――お褒めいただきまして』

と目が全く笑っていない笑顔を返されていた。

(まあ、ソフィーナさまもソフィーナさまだけどさ)

 彼女はその顔のまま、彼の外套のフードに手をかけると頭にかぶせ、さらには目深に引き下ろした。そして、

『人目を惹くお顔立ちのフェルドリック殿下におかれましては、こちらをおかぶりになっていた方がよろしいかと――ずぅっと』

と止めを食らわせた。

 今更の殿下呼びに加え、婉曲に『私に顔を見せるな』――普段優しい分、怒らせると彼女は怖い。


(可愛いと言えないなら言えないで、せめて余計なことを言わなきゃいいのに、この人、ソフィーナさまの前でだけどこまでもおかしくなるんだよな。って、おかしいのが素なんだったっけ)

 それこそが彼にとって彼女が特別である証拠と言えなくもないのだろうが、ソフィーナからすれば、心外極まりないはずだ。ついでに、巻き込まれる自分たちも大概迷惑だ。


 ちなみに、余計なことを言いまくるもう一人、ヘンリックの相方のフィルは、少し年上の、真剣に騎士団入団を考えている子たちにねだられて、剣術を教えに庭に出ていった。

『直感でしか動けないお前が人に教える……? 無理だろう』

『フェルドリックがそれを心配する? 剣で自分の足を切りそうになっ』

『っ、いつの話だっ』

『ええと、私が五つだからフェルドリックは八つ、いや七? ……じゃ、じゃじゃじゃなかった、行ってきますっ、子供たち、待ってるんで!!』

という殿下との不毛なやりとりの末に。


「……剣術、苦手でいらっしゃるのですか?」

 脱兎のごとく逃げていったフィルを見送ったソフィーナに意外そうに訊かれて、「……やらないだけだ。必要ないからな」と返していた彼の顔も見物だったけど、子供たちに紙芝居を読んでいる彼女を見つめる今の顔も大概だ。

 微笑ましそうでいて、面白くなさそうにも見える。幸せそうでもあり、寂しそうでもある。ただ、彼女に向ける目はどこまでも柔らかくて、どうしようもなく愛しく思っているということだけは伝わってくる。

 目深にかぶったフードのせいで、離れている彼女のほうからはきっと見えていないだろうけれど。



「――おい、お前」

 年の頃7、8の少年が音を立てて駆け寄ってきて、フェルドリックの前に立ちふさがった。

「何不思議そうな顔してんだ、お前だよっ」

「貴様、殿下に」

 気色ばんだ近衛騎士の顔の前にすっと手のひらを出し、フェルドリックは彼を遮る。

「リック」

「名前なんかどうでもいい」

「良くない。誰かと話したいなら、ちゃんと名乗れ。人としての礼儀だ」

「っ」

 真っ赤になった少年は、フェルドリックを睨みながらも、「ユート」ともごもご名乗った。その彼に小さく笑うと、フェルドリックは「これも礼儀だからな」と言いながら、被っていたフードを取り払った。茶色く染めた髪が現れる。


 少年の無礼を咎めず諭す。しかも、王太子としてではなく人として――この人はいつもこうだ。

 彼は自分に逆らう力のある者には傲慢に、最悪に我がままにふるまうけれど、明らかに立場が弱い人には絶対にそうしない。

(その結果の被害者がフィルでありアレックスでありフォースンさんであり僕……って一番はソフィーナさまか)

 フェルドリックが一番敵わないと思っているのは、間違いなく彼女だからだ。多分彼女は言葉一つで彼を殺すことすらできる。そして彼はそうと知っている。


「それで、ユート、何の用だ?」

「お前、じゃなくて、リ、リックはソフィのなんなんだ?」

「…………名前呼び」

 ハイドランドでの戦地で聞いたのと同じ言葉に、ヘンリックはぎょっとした。

 無表情なのになぜか怖気が走る、虚無としか言いようのないあの顔を、まさか年端も行かない少年に向ける気か、と冷や汗を流す。

(そ、それはさすがに……)

「リック」

 焦って彼のここでの偽名を呼べば、フェルドリックは瞬きを数度繰り返した後、ソフィーナを改めて見つめ、「何って……」と小さく、そして微妙に暗く呟いた。

「……なんだよ、それ。子供だと思って舐めてるのかっ、恋人じゃねえのかよ」

 びっくりしたように目を見張って少年に視線を戻した後、フェルドリックは小さく吹き出し、「随分とませてるな」と笑いを零した。

「っ、笑い事じゃない! ソフィは俺と結婚するんだからな!」

「……は?」

「あーっ、何勝手なこと言ってんだ、僕だっ」

「ぬ、抜け駆けはなし!」

「黙ってろ、お前よわっちぃだろ」

 唖然とするフェルドリックの周りに男の子がまた二人駆け寄ってきて、言い合いを始めた。

「俺の方が背ぇ高いし!」

「僕の方が成績いいぞ」

「ソ、ソフィは僕に優しいって言ってくれたから!」


「……」

(あんな間抜けな顔も中々見れないかも)

 口を半開きに呆気にとられるフェルドリックの前で、三人の少年たちは賑やかにヒートアップしていく。

「だから、お前らは引っ込んでろっ、頭でっかちと弱虫はお呼びじゃねえ!」

「ユートは乱暴なだけだろ!」

「いつもいつもそうやって人を馬鹿にして……そんな奴の方がソフィにふさわしくない」

「はあ?」

(あー、そろそろまずいかも)

 つかみ合いになりそうな気配にヘンリックがさすがに介入しようと立ち上がれば、同時にフェルドリックも動いた。

「意味のない喧嘩だな――ソフィは私の『妻』だ」

(あ、ここは大人げないんだ)

 信じられないものを見る顔で振り仰いだ子供たちに、「残念だったな」とかにっこり笑っちゃうあたり、性格の悪さもお墨付きだ。

「っ、ダメだろ、こんな腹黒そうなやつ!」

「顔だけじゃん! 絶対性格悪い!」

「知ってます、猫かぶりって言うんです、こういう人」

 ――そして、純粋さゆえだろう、子供たちにもそれがわかったらしい。


 思わずぶはっとふき出して笑い出したヘンリックに、フェルドリックが顔をしかめた。

「ソフィ、考え直せっ」

「別れろっ、絶対苦労する!」

「あれです、りこんというやつですっ」

「はあ? ちょ、ちょっと待てっ」

 その隙に、ソフィーナへと駆け寄る子供たちにフェルドリックが焦りを見せる。

 真剣に悩まれたらまずい、とでも思っているのだろう。つまり、彼は未だにソフィーナにいつ離婚を切り出されてもおかしくないと思っているわけだ。


「え? え? か、考え、直す? り、りこんって、別れろって……離婚? わ、私?」

「――何でもない、気にするな」

 フェルドリックは、紙芝居を抱えたまま目を白黒させるソフィーナに言い募る子供たちの首根っこを大人げなくつかむ。

「は、はなせ!」

「黙ってろ」

 そして、抵抗する彼らを三人まとめて抱きかかえると、ソフィーナと一緒に唖然とする周囲の子に「邪魔して悪かったな」と謝罪して部屋から出ていった。子供には謝るのも実に彼らしい。


「……なんなんだ、あれ」

「面白そうだから見てくる。ソフィーナさまをよろしく」

 フィルがタイミングよく戻ってきて、じたばたする子供たちを抱えたフェルドリックとすれ違った。その彼女に護衛を託して、ヘンリックは彼らの後を追う。

 天井の低い廊下には、子供たちの大騒ぎとそれに応じるフェルドリックの声が反響している。「放せってば!」「腹黒魔人だ!」などという不平のわりに、子供たちの声は微妙に楽しそうだ。

「殿下を面白がるとは、貴殿、先ほどから不敬にもほどがあろう。あの子供らもだ。フィル殿もフィル殿だ、殿下をあれなどと……」

「本気で尊敬してるよ。そんなところも許容してくださる度量の方はそうそういらっしゃらないからね――知ってるだろ」

「……」

 一緒についてきた近衛騎士は顔をしかめながらも、それで口を噤んだ。四角四面だけど、物事の本質を理解しようとしてくれる人ではあるらしい。



 小さな中庭の木陰で子供たちを下ろしたフェルドリックは、再び彼らに取り囲まれた。

「だから、なんでソフィなんだ……」

「めちゃくちゃかわいいから!」

「優しい!」

「色々知ってる、じゃなくて、ご存じです!」

 フェルドリックの疲れたような呟きに、元気すぎる声が返ってきた。

「……同じ年頃の子を探せばいいだろう」

「あれほどかわいい子、他にいるわけないだろ!」

「こ、声、大きい! 確かにそうだけど、ミリーたちに聞かれたら殺されるぞ」

「だ、大丈夫、じゃない? ミリーたちだってソフィ大好きだし……」

 察するにミリーとは孤児院仲間の女子だろう。あの年頃の男子が勝てるとは思えない、と思いつつ、ヘンリックはさっきからずっと複雑な顔をしているフェルドリックを窺う。

「……地味だろ。可愛い、のは、まあ、その、そうと言えなくもないかもしれないが」

「わかってないなあ、リック」

「うん、わかってない。そりゃ、ソフィはアビィ姉みたいに派手じゃないよ? でも綺麗じゃん」

「知ってますか、ソフィみたいな人を優雅とか上品とか言うって。先生が教えてくれたんです」

「……」

 フェルドリックの眉が情けないほど下がったのを見て、ヘンリックは忍び笑う。


「よし、それがわからないお前とソフィはやっぱ離婚すべきだ」

「――待て」

 断言して踵を返したユークの肩をがしっとつかむと、フェルドリックは口を数度開け閉めした後、観念したかのように「……全部知ってる」と呟いた。

 顔を伏せてしまったせいで、ヘンリックからは表情が見えなくなったが、髪の間から見える耳朶が赤い気がする。


 木漏れ日の下で、目をまん丸くした子供たちが顔を見合わせた。

「……なあ、お前、じゃない、リックもソフィのこと好きなのか?」

「そんな派手な顔してるのに?」

「……派手か地味かは関係ないだろ」

「ぜんぜん釣り合ってないじゃん」

「うん、なんか違う」

「っ、見た目が何だって言うんだ。たとえ釣り合っていなくても、私にはソフィーナ、が……」

 むっとして勢いよく顔をあげたフェルドリックが、唐突に言葉を止めた。

「……」

 つられて振り返れば、フィルに付き添われたソフィーナが目を丸くして、フェルドリックたちを見ている。

「…………あ、ええと、その、さきほど、何かご様子、がおかしかったので」

「いや、別、に……」

 しばらく見つめ合った後、どちらからともなく顔を伏せ、もごもごと言いながら、そろって頬を染めていく。


「……さて、ユークにゼン、シオルだっけ? 私と剣術の稽古、しないか?」

「っ、いいのか?」

「兄ちゃんたち、終わったのっ?」

「そ。今度は君らの番」

「……僕、いいや。剣術、苦手だし……」

「じゃ、シオルは体術にするかい? 自分の身を守れるぐらいにはなっておくといいよ」

「自分の、身……。ねえ、フィル、僕でもさ、好きな子を守れるぐらいにはなれるかな」

 さっき弱いと言われた子だ。自信なさそうにフィルを見上げた彼の横顔を、言った方の子が気まずそうに見る。

「そのつもりで努力すれば」

 言い切って、フィルは少年たちに笑いかけた。

「もう一つ、覚えておくといいよ。守るにも色んなやり方がある。相手の体もだけど心を守るのも大事なことだ」

 フェルドリックを見て意味深に笑った後、フィルは子供たちを引き連れて踵を返した。


「……」

 苦笑しながら、ヘンリックも近衛騎士を促し、主夫妻から距離をとる。

 途中、ソフィーナに縋るように見られたので、にっこり笑ってみせれば、彼女は顔を引きつらせた。

(あの顔、「見捨てられた! 絶対わざと!」とか思ってるんだろうなあ……当たってるけど)

 フェルドリックがソフィーナに対してだけどうしようもないやらかしをするのは確かだけど、彼女は彼女で彼に対してだけ無駄に捻くれている。

(そうして拗れるのはお分かりのようですから、両殿下におかれてはいい加減何とかしていただきたく……ってことで)

 人悪く笑いながら、ヘンリックは煉瓦造りの塀にもたれて、二人を眺める。


 何を話しているかは聞こえない。だが、しばらく無言でいたフェルドリックが諦めたかのように天を仰ぎ、赤い顔のまま何かを呟いた。

 ソフィーナの全身が深紅に染め上がる。そして、彼女のほうも顔を伏せつつ、何事かを口にし……直後、ソフィーナ以外の誰にも見せない顔でフェルドリックが笑った。

 そんな二人の上に、春の木漏れ日がキラキラと踊っている。


「初々しいよなあ」

 もう結婚して一年以上経ってるはずなんだけど、とヘンリックは彼らの上空に顔を向ける。

 王都カザレナ、下町の孤児院。彼らに影を提供する樹冠の向こうに広がる空は、周囲に立ち並ぶ背の高い建物に遮られて、ひどくせせこましい。そこかしこでは洗濯物が春風にはためき、うっすらと夫婦げんかの声も響いてくる。

 思いっきり庶民の世界だ。歴史的な建築も豪華な装飾品も華やかな衣装も煌びやかなガラス灯も贅沢な料理も何もない。

 その片隅、本来の彼らの場所からかけ離れたこの場所で、お互いだけを確かめて幸せそうにしている王太子夫妻――。

「……やっぱ好きだなあ」

 向こう庭から聞こえてくる幼い気合の声に紛れてぼそっと呟き、ヘンリックは口の両端をあげる。

 そんな二人がいるのだ。この先、この国はきっともっと良くなるだろう。


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