ロンデール視点

交ざれども混ざらず

「ご機嫌いかがですか、殿下」

「悪くない」

「と仰る時は、大抵逆ですね」

(意外というか、やはりというか……)

 ソフィーナとのダンスを終えたアンドリュー・バロック・ロンデールは、敬愛すると同時に、ひそかに弟のように思っているカザック王国の太子、フェルドリックが見せた仏頂面にくすりと音を漏らして笑った。

(早々に去ったほうが良さそうだ)

 まだぎこちない彼とその妻の様子にそう判断して、ソフィーナの手の甲に辞去の礼を落とせば、横のフェルドリックが一瞬形容しがたい顔を見せる。

 結局拗ねさせてしまった、と人知れず苦笑しながら、アンドリューは先ほどまでフェルドリックと踊っていた妻を伴って、静かにその場を後にした。


「ルティ、お疲れでなければ、私ともう一曲お付き合いいただけませんか」

「喜んで、アンドリューさま」

 近寄ってくる人々を煙に巻くべく、アンドリューは妻の手を取って口づけると、流れる音楽に合わせて足を踏み出す。


 会場の外に広がる広大な池とその周囲には、小さなガラス灯が数多く設置されていて、窓越しの会場へ幻想的な青い光を注いでいる。天空には銀の満月が輝いていた。

 淡い光に包まれたその窓辺近くで、フェルドリックとその新妻のソフィーナが本日二回目のダンスを踊っている。


 さすがと言うべきだろう、踊る二人の動きには一片の隙も瑕疵もない。ダンスや作法の講師が思い描くだろう理想そのものに見えた。ただ一点を除いて――

(……仕方のないお人だ)

 常に顔に載せている輝かしい微笑をすっかり消したフェルドリックに、アンドリューは小さくため息を吐いた。

 美しく品のある微笑を保ちつつも、ふとした瞬間に様々な表情を見せてくれる、愛らしいとしか表現しようのないソフィーナが、いつになく硬い顔をしているのも、あれが原因に違いない。


「本当、今日も素敵でいらっしゃいますわ」

「……そうですね」

「お話しぶりもふるまいも表情も何もかもエレガントで完璧以外に言葉がないのに、茶目っ気もおあり。しかも一貫してお優しいのです。威厳を保ちながら、誰にとっても居心地の良い場をお作りになれる方を、わたくし、ソフィーナさまの他に存じ上げません」

 うっとりと呟くからてっきりフェルドリックのことだと思って適当に流したアンドリューは目を瞬かせると、目の前の妻に意識を戻した。


「……ソフィーナ妃殿下のことですか?」

「はい。わたくしの理想と申しますか、ああなりたいと思う、そのままの方なのです。わたくしのお友達もですけれど、父も絶賛していて……」

「おや、ルティーナの憧れはフィル殿かと思っていました」

「フィルさまはああは絶対になれない憧れ、ソフィーナさまはああなりたいと努力したくなる憧れです。いいなあ、フィルさま、ソフィーナさまとずっとご一緒なのでしょう?」

 ごく限られた者しか知らないはずのソフィーナの護衛の正体について、さらっと口にした妻にアンドリューが目を見張れば、「この間宮殿でお見かけしましたの。御髪が短くなっていらして、さらにかっこよくなっておいででした」と彼女は頬を染めた。


 次期公爵夫人でありながら、バッサリ髪を切り、素性を隠して妃殿下の護衛などについているアンドリューの初恋の人がおかしいのは相変わらずとして、問題はそれをあっさりと受け入れている妻の感性だ。

(……なるほど、そういう人だから、姿を変えたフィル殿にも気付くのか)

 のんびりして見えるから忘れがちになるが、実はひどく鋭い人だ――アンドリューは内心舌を巻いていることを悟られまいと、笑いながら肩をすくめて見せた。


「それは内緒にしてくださいね」

「そうでした。ソフィーナさまとお話しできて嬉しくてつい……狙われておいでなのでしたね」

「ええ、“そちら”と関係が深い家とのお付き合いはほどほどに」

「承知いたしました」

 アンドリューは苦笑を零すと、申し訳なさそうに身を縮めた妻を「情勢が落ち着いたら、妃殿下を我が家にご招待しましょう」と宥めた。そして、打って変わってぱっと顔を輝かせた彼女に、今度は心の底から笑みを浮かべる。こうして内心を素直に見せてくれる彼女がかわいくて仕方がない。


「ダンスもお上手なのですね。ますます素敵だわ」

 再び妻は視線をアンドリューからソフィーナへと戻した。

「そうですね。お好きだと仰っていました」

「まあ、では実は活発な方なのかしら」

 ソフィーナを好く気持ちはアンドリュー自身よくわかるが、こうもあからさまに夫である自分を無視されると、さすがに切ない。

「……」

 自分の背後に視線を注いでいる妻と同じものを見ようと、ロンデールは楽曲に合わせて、体の向きを変えた。


 青い灯と銀盤からの明かりに照らされるフェルドリックとソフィーナは、仲良く寄り添い、息ぴったりに舞っている。動きに合わせて、ソフィーナの軽やかで艶のあるドレスの裾がひらめき、フェルドリックの髪がキラキラと光る。ひどく優雅でそこだけ別空間のようだ。


 幼少期から数年前にいたるまで、アンドリューは護衛としてずっとフェルドリックに付き従ってきた。彼がどんな教育を受けてきたか、具に知っている。あの偉大なハイドランド賢后の愛娘であるソフィーナも同じレベルの教育を受けてきたのだろう。

 そして、それゆえに二人とも特別に想う人との距離の縮め方がわからない――アンドリューにも覚えのあることだった。


 身を守るために仮面を張り付けているうちに、どう外せばいいのか、思い出せなくなる。立場を考えて心にもないことを口にするうちに、どれが本心なのかわからなくなる。相手の行動の真意を読み取ろうとするあまり、疑心暗鬼になり、身動きが取れなくなる。そうして傷つけてしまう――誰より大事にしたいと、傷つけたくないと思っている、まさにその人を。


 自分は幸い、そうでない妻を得ることができた。そうしてそんな場所から解放された。

「フェルドリック殿下は、妃殿下を本当に大事に想っておいでなのですね」

 アンドリューは優しい顔を見せる妻を見つめた後、

(だが、殿下も妃殿下も……)

 と愁いの視線を2人に向ける。


「それはアレクサンダー殿でも他の誰でもなくフィル殿をソフィーナさまの護衛にしたことですか? それとも我々に下された、ソフィーナさまのご様子を気にかけよという命のことでしょうか? なのに、結局自分で助けに入ってしまわれたこと?」

 沈んだ気持ちを優しい妻に悟られまいと、茶目っけとフェルドリックへのからかいを込めて片目をつぶって見せれば、知ってか知らずか、妻は「全部ですね」と微笑んだ。


「他にはソフィーナさまのお召し物も。上品で優しい雰囲気で調和的、それでいて可憐そのもの……あれがフェルドリックさまのソフィーナさまへのイメージということですから」

「……なるほど、女性はそういう目で男性からの贈り物を測っていらっしゃるということですか」

「ええ、アンドリューさまもお気を付けになって」

「こわいことを仰る。さて、今のところ及第点をいただけているといいのですが」

「及第点どころか満点をも上回ってばかりです。ありがとう」

 くすくすと笑って礼を口にした妻は、それからふと顔を曇らせた。


「でも、喧嘩でもなさったのかしら? フェルドリックさま、さきほどからあまりお笑いなっていらっしゃらないような……」

 同じことに気付いたのだろう、太子夫妻を見る者たちの目が憂慮と嘲り、驚きの三種類に分かれていっている。

「……ルティは殿下があのような顔を見せる方を他にご存じですか?」

「? いいえ」

「私も見たことがありません」

 フェルドリックが見せるのは美しく繕った笑顔か、慣れてきた者に対する皮肉な顔か仏頂面か、だ。表情らしい表情が一切浮かんでいない今のようなフェルドリックをアンドリューは見たことがない。長い時間を側で過ごしてきたというのに。

「まさ、か……緊張、していらっしゃる……? 殿下が?」

 しばしの沈黙の後、目を丸くし、ぱっくり口を開けた妻に耐えかねて、アンドリューはつい笑い声を立てた。


「……最初の最初から特別な方だったようです」

 それからオーセリンの白亜の宮殿での2人の出会いを思い出し、しんみりと視線を床に落とした。

 初の国際会議だったというのに欠片の気負いもなく、そのくせ難なく役割を果たしたフェルドリックは、ハイドランドの至宝である賢后へとたぶんに政治的な意図を持って近づいた。

 賢后と対等に話していた彼から美しいとしか言いようのない仮面を剥がしたのは、けれど、賢后その人ではなかった。その傍らにいた小さな少女、ソフィーナだ。

 彼女と話していたフェルドリックは、驚きに目を見張った後、くしゃりと顔を緩ませて心底楽しそうに笑った。そして、思わずと言うように彼女の頭に手を置き、わしゃわしゃっとそこを撫でた。建国王アドリオットが彼によくそうしていた、そのままの仕草で。

 対する少女はそこで初めて顔を赤くした。それまではフェルドリックに見惚れるそぶり一つなかったのに。それを見てフェルドリックがますます幸せそうに微笑んだことを、アンドリューは鮮明に覚えている。

 そして、その日からだ。日々膨らみ続ける倦怠と憎悪を持て余し、暗く澱み始めていたフェルドリックの目に、生気が戻ったのは。


(ソフィーナ・フォイル・セ・ハイドランドは、フェルドリック・シルニア・カザックの弱点になる。おそらく唯一にして最大の……)

 自覚してのことかどうかは知らないが、だからこそフェルドリックはソフィーナへの想いを隠そうとするのだ。

 ロンデール一族の悲願を達するために、そのソフィーナを利用しない手はない――。


 長い歴史を持ち、カザックの権力の中枢に居続けてきたロンデール公爵家は、60年前の王権交代をもしたたかに乗り切った。そして、現王家を旧王家のごとく傀儡にしようと画策し続けている。アンドリューが父に言われるまま、フェルドリックの近衛騎士となったのもそういった意図あってのことだ。

 だが、フェルドリックはそうと知りつつ、アンドリュー個人を何度も助けてくれた。

 アンドリューが手ひどく失恋した時は、元気づけようとあれこれしてくれた。隠しているつもりだったようだが、あまりに不自然で、しかもとってつけたようなぶっきらぼうさに、落ち込んでいたことも自己嫌悪も忘れて、思わず笑ってしまったほどだ。ロンデール家嫡子としての立場を守れるよう、ずっと配慮してくれていたこと、父を罠にかけて爵位を奪うと決めた時、陰から手を貸してくれていたことも知っている。

(あの方があの方である限り……)

 せめぎ合う、ロンデール家当主としての立場と個人の思いに、一時の蹴りをつけると、アンドリューは息を吐き出した。


「ソフィーナさまはフェルドリックさまのことをどう思っておいでなのかしら。あのフェルドリックさまの横にいらしてもいつも通りで……だからこそ余計かっこいいのですけれど」

「……」

 こういう発想が出ること自体、アンドリューからすれば、考えられないことだった。昔の自分であれば、ひょっとしたら失笑と共に笑い捨てさえしたかもしれない。


 結婚はあくまで政略。家の都合を最優先に、自らの思惑に沿って動く駒として最適な能力と人格の主を選ぶ。個人の感情は利用できるならするが、判断ミスを誘発する可能性を考えれば、お互い悪意はもちろん好意もないに越したことはない。

 思うともなしにそう思っていたアンドリューを変えたのは、フィリシア・フェーナ・ザルアナックであり、今目の前にいる妻だった。生きていると実感できるようにしてくれた彼女たちに改めて感謝を覚える。

 フェルドリックはそんなかつての自分とよく似ていたはずだ。それに、ソフィーナはどうなのだろう……?


「……どうなのでしょうね」

 おそらくソフィーナは完璧に自分を隠すことのできる人だ。分別と自制心の強さは言わずもがな、仮面の下に垣間見せる生来の表情の豊かさを、その気になれば、他者をコントロールするために逆に利用することすら可能なのではないか。

 先ほどもそうだ。彼女が見せた表情のうち、どれが本物でどれが演技か、アンドリューにも区別がつかなかった。

(私はもちろんフェルドリック殿下すら太刀打ちできないかもしれない……)

 さぞかし手ごわかろう、と相変わらず固い顔で踊り続ける太子夫妻を見遣る。


 二人の目は、お互いの顔に向けられている。だが、視線は絡んでいない。

 耐えかねたのか、ソフィーナがわずかに顔を俯けた。それに気付いたのだろう、フェルドリックは彼女を見つめて口を開いた後、ぎゅっと眉根を寄せて、唇を引き結んだ。そして、彼女から微妙に顔を背ける。その横顔には自己嫌悪が見て取れた。

 視線が外れたことを察したのか、ソフィーナがそのフェルドリックへと目を向けた。少しだけ眉を下げ、手の届かないものを見るかのように目を細めた後、再び顔を俯けた。口元にはあきらめたような微笑が浮かんでいる。


「……」

 いい加減気付けばいいのに、とアンドリューは祈るような気持ちで息を吐き出した。


 ――あなたがどうしようもなく焦がれているその人は、あなたが目を逸らした瞬間、同じ目であなたを見つめている、と。







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関連:本編第14話「壁の花とダンス」


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