春暁2
「? どうかしましたか?」
「いや」
苦い記憶を思い出して、つい腕に力を籠めてしまったフェルドリックにソフィーナはあっさり気付き、胸を押し返すと、顔を覗き込んできた。
(本当、敵わないな……)
あの後もそうだった。彼女がもう一度チャンスをくれなかったら、今こうして一緒にいることはできなかっただろう。
いや、その前からずっとかもしれない。オーセリンで出会った時、その後アルマナックで声をかけた時、ハイドでのやり取り、カザックに来てから――フェルドリックの予想も想定も策略もすべて彼女に関してだけ、うまく働かなかった。情けない話、全戦全敗と言っていい。
(先に惚れたほうが弱いというのは真実だ)
苦笑と共に、フェルドリックはまたソフィーナの眦に唇を落としたが、訝しみの視線が消えない。
「何か隠していらっしゃいません……?」
「最初に出会ってからのことを考えていた」
またばれた、と自分に呆れるのを隠し、首を傾げているソフィーナに半分だけ事実を答える。
「そういえば、オーセリンで最初に出会った時のこと、覚えていらっしゃるとアレクサンダーから聞きました」
「……そうだったか?」
(アレックスめ、余計なことを……)
「とぼけているとお顔に書いてあります」
未明の薄明りの中、胸の内にいるソフィーナが目を眇め、じっと凝視してくる。
最近彼女は鋭くなった。フィル並みに鈍いと言われたのが相当ショックだったそうだ。
それを聞いてショックを受けたフィルが「妃殿下が悪魔に汚された……」と嘆き、それを聞いたソフィーナが「え、嘘、それは嫌」とまたショックを受け、ヘンリックが大笑いしていた。――色々甚だしく気に入らないが、まあソフィーナだけは許す。
「君はその時から僕が好きだったと言っていたな」
話を逸らそうとすれば、ソフィーナは目を瞬かせる。
「厳密には違います。会議の最中のあなたを見て好きになりました。だって、どこの国の兵士のことも守ろうとしていたでしょう」
「…………さ、いきん、率直すぎないか」
あまりにあっさりと好きになった理由を告げられて、唖然とした。直後に表皮に血が上ってくる。フェルドリックは片手でソフィーナの視線を遮りながら、顔を背ける。
「捻くれた人に捻くれても、話が拗れるだけと気付きました」
くすくすと笑う彼女は知らないのだろう。フェルドリックの外面に惑わされない、その精神がどれだけ貴重で、どれだけフェルドリックを惹きつけるのか。
フェルドリックはため息を吐くと、しぶしぶ口を開く。
ソフィーナはいつも正しい。捻くれても話が拗れるだけ――少しは成長しないと置いて行かれてしまう。
「最初に見た時、凛としていてきれいで、女神みたいだと思った」
「…………それ、何の嫌味ですか? 喧嘩をお売りになってます?」
「……喧嘩を売る、ね。その発想、騎士たちに毒されたな……」
訂正する。鋭くなってない。
本当のことを言っているのに、今日も見事に通じない。が、ここで諦めていたせいでひどい目に遭い、それ以上に遭わせたことを思い出す。
フェルドリックはもう一度深々とため息を吐く。
「本当だ。子供の遊びじゃないと言ったカルポの王に、正面から食らいついただろう。あの時だ」
「食らい……なんというか、つくづく変わった趣味をなさっていますね。私ならそんな女神、嫌です」
「その可愛げのない反応、何とかならないのか……」
思わず脱力すれば、優しい青色の目がまん丸くなる。次いで、弧を描いた。
「……っ」
思わず見とれた瞬間、ソフィーナから抱き着かれて、フェルドリックも目を丸くする。
それからぎゅっと眉根を寄せた。なぜだろう、緩く締め付けられる細い腕の感触に、胸が震える。泣きたくなってくる。
衝動のまま抱きつぶしてしまわないよう全力で気を使いながら、フェルドリックは全身でその小さな体を包み込んだ。そして、湧き上がってきた言葉をそのまま呟いた。
「王族に生まれてよかった。でなければ、君に出会えなかった」
ずっとそんな場所に生まれたことを呪っていた。他人の期待通りにふるまううちに、自分が何なのかわからなくなって、生きている実感を失った。今でも厭わしいと思っている。
けれど、君さえいれば、いてくれるなら、それですべて報われる、幸せだと思える――。
「ひょっとして……私にもそう言ってほしかった……?」
「……」
呆然とした声が腕の中から響いて、フェルドリックは瞬きを繰り返すと、ソフィーナから身を離す。
『よかったじゃないか、そんなでも王女で』
『王女でよかっただろう』
まじまじとソフィーナの顔を見つめるうちに、脳内にいつか自分の発した言葉が響き、フェルドリックは左手で口元を覆った。
「……っ、信じられない、あの文脈で肯定するわけないでしょう、わかるわけないじゃないですかっ」
「…………だろうな、僕も今言われてはじめて気づいた」
ぱっくり口を開け、言葉通り信じられないものを見る目をしているソフィーナと、薄明の中見つめ合う。
「誰かしら、この人を完璧そのものって思っていた間抜けな子は」
げんなりとつぶやいた後、ソフィーナは肩を落とした。
「……って、私だわ」
また幻滅させた、と息を止めたフェルドリックの前で、ソフィーナは「認めたくないけど、私、やっぱり鈍いみたい」と軽やかな笑い声を立てた。
「本当、なんで私なのか、さっぱりわからないです。フェルドリックのこと、ちゃんと見てなかったし、全くわかっていなかった。王女どころかどこにでもいる感じで、可愛くなくて、意地っ張りで、変に行動的で。他にもっといい人がいるでしょうに」
――いない、いるわけがない。君がいい。君がいなければ、生きていると感じられない。
「……それは僕の台詞だ。君こそ本当に悪趣味だ。性悪で、猫かぶりだけうまくて、口が悪くて、腹黒くて、胡散臭くて、どうやら君に負けずに鈍感みたいだし」
「そこに不器用と要領が悪いというのも足してくださる?」
「言うようになったねえ」
「ええ、それぐらいじゃなきゃやっていけないんですもの。だって私はそんなあなたがいいのですから」
「っ」
素直に言葉が出せず、皮肉を返したフェルドリックに対し、ソフィーナはまたあっさりと好意を口にした。
「だ、から……、そんなまっすぐ言うなと」
どうしようもなく真っ赤になっただろう顔を隠したくて、天井を仰ぎ、呻くように口にした。そんな自分に斜め下から向けられる青灰の瞳は、どこまでも優しい。
「じゃあ、わかりにくいだけでちゃんと優しい人だと知っています、と言うのもなし?」
くすくす笑いながら、彼女が白い指を伸ばしてきた。優しく温かく頬を包み込まれる。
目の前に彼女がいて、自分を見て、笑っている――
(そうか、こういうこと、だったのか……)
自分にとっての幸せが何か、ようやくわかった気がする。
「……笑うな」
泣きそうになるのを隠したくて、フェルドリックは微笑み続けるソフィーナをぎゅっと胸へと抱き寄せた。
寝室の外、並んだ木々から小鳥たちの賑やかなさえずりが聞こえ出した。その音は春の予感に浮かれ、弾んでいる。
「……」
促されるように、すぐそばにある耳へと唇を落とす。そこから頬、鼻、額、瞼を啄み、最後に唇を重ねた。
「ソフィ」
角度を変え、合間に名を呼び、再度口づける。
潤んでいく青い瞳を至近で見つめ、真っ赤に染まった頬を撫でて、また。
髪を梳き流し、鼻を触れ合わせながら、何度も何度も繰り返す。
「愛している」
(ああ、やっと言えた……)
焦がれてやまない彼女が今目の前にいて、泣きそうになりながら、それでもまっすぐ自分を見つめ返してくれる幸運と幸福を噛みしめる。
日が地平線から顔を出したようだ。春の朝日がカーテンの隙間から、柔らかく室内を照らし出す。
あれからじき1年、ソフィーナにそっくりなあのチューリップも、温室で蕾を綻ばせる頃だろう。
もう一度手渡したら、彼女はまた笑ってくれるだろうか。
(了)
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