春暁1
まだ暗いうちに、ふと目が覚めた。
(今何時だろう……)
寝転がったまま、薄明りに目をならし、横に目をやれば、変わらず平和な寝息を立てているソフィーナの姿がある。
その顔をしばらく見つめた後、なんとなく茶色の頭に手を伸ばして、触れる寸前で止めた。
こうして闇の中、眠るソフィーナの横にいると、以前の苦しくて仕方のなかった頃を思い出す。ハイドランドでの記憶がすべて夢だったのでは、と思えてくる。
(……触ってもいい、んだよな)
『あなたの本性を知ってからだって、ずっと好きだったっ』
もう何度目だろう、そう叫んだ時の彼女を思い出して、フェルドリックは指を伸ばす。
触れた場所から熱が広がっていく気がする。あれほどの物が詰まっているとは信じがたいほどその頭は小さくて、髪の感触は柔らかくて心地いい。
「……ふふ」
何度か手を往復させるうちにくすぐったかったのか、手のひらの下でソフィーナが笑い声を漏らした。
「……」
つられて知らず頬を緩めた。
――相変わらず可愛い。
わかっている、彼女は普通、しかも地味だ。けれど、フェルドリックの目にはどうしようもなく可愛いし、きれいだ、誰が何と言おうが世界で一番――とはもちろん口にできないが、そう素直に思えるようになっただけ、自分的には進歩だと思うことにしている。
「……?」
ソフィーナが瞼を薄く開いた。そこから覗く春の薄曇りの空の色に、フェルドリックは目元を綻ばせる。
「おはよう、ございます……?」
「おはよう、ソフィ」
寝ぼけた、無防備なその声で余計愛おしくなる。
どうしようもなく締まりのない顔をしているのが分かるから、幻滅されないよう、フェルドリックはその目に口づけを落として、視界を遮った。
「え、あ」
慌てて身を起こしたソフィーナをそのまま抱き寄せて、ふわふわとした髪に顔を埋める。
「あの、フェルドリック」
「嫌か」
「い、え、そうではなくて、ええと、その、寝起き、ですし」
「僕もだ」
「寝起きでもあなたは整ってるじゃないですか。私は違うもの……」
(寝起きでも可愛いものは可愛い。というか寝起きも可愛い。拗ねた声もむくれ顔も)
そう口にできなくて、フェルドリックは「どうでもいい」とそっけなく言いながら、自分よりはるかに小柄な体をぎゅっと抱きしめる。
「……」
温かく、柔らかい感触と優しい香り、それから少し身を硬くしても、素直に身をゆだねてくれる事実に、フェルドリックはソフィーナにばれないよう微笑みを零した。
(こんな小さな体であんな無茶をするからな)
ハイドランドへ向かうだろうとは思っていた。だが、暗殺されかけたその日にと、誰が想像できただろう。
その後も彼女はフェルドリックの予想を裏切り続けた。国境向こうでフィルを捕まえてからは、粗方の動向をつかんでいたが、まさか身一つで王城の奪還を成し遂げてしまうとは、考えても見なかった。
『まさかソフィーナ妃殿下があんな大胆な方だとは……バードナー殿もお止めになりませんし』
とは、フィルと別れて手薄になるだろう彼女の周囲に、急遽派遣した諜報員の台詞だ。
(戦場なんかにも出ていくし……)
沸き立つ兵士たちの間にソフィーナを見つけた時のことを思い出して、フェルドリックは緩み切っていた眉を顰める。
朝日を乱反射する土埃の向こうにいたのは、確かにソフィーナだった。信じられないものを見た気分だったが、焦がれている彼女を見間違えるはずはない。
その彼女は、駆け寄ったフェルドリックの腕に前とは違って納まってくれて、あまつさえ抱きしめ返してくれた。フィルたちは邪魔ではあったし、よりによって彼女の前で彼らと馬鹿なやり取りをする羽目にもなったが、そのおかげか、彼女の空気も以前よりずっと柔らかい。
もしかしたら取り戻せるかもしれないと、それで希望を抱いたのだ。アンナが言っていたように、自分の愚かさにソフィーナの事情が重なっただけで、挽回はまだできるのではないか、と。
だが、セルシウスのいる砦でのやり取りで、それはあまりにも楽観的だったとフェルドリックは苦くも悟った。
彼女はずっとハイドランドの人間としての立場を崩さなかった。ボロボロになりながら危険な戦場に出たのもハイドランドのためなら、カザックの救援に対する礼を述べたのも、“カザック太子”の見送りに出てきたのも、すべてハイドランド王女として、だった。
既に手遅れだった。話し合いなどもう彼女は望んでいない。
今更彼女に思いを告げたところで、優しい彼女を苦しめるだけ。ならば完全に決別しよう、と決め、フェルドリックは初めて彼女に嘘をついた――君なんかどうでもいい、と。
できることなどそれぐらいだと思った。怒って嫌い抜いて、迷うことなく祖国に帰って、全部忘れて幸せになってほしい。
なのに、なぜか彼女は泣いた。ずっと泣いたりしなかったのに、美しい瞳から真珠のような涙を流し、ずっと好きだった、と叫び、呆然とするフェルドリックの手の内から、逃げて行ってしまった。
(とことんバカだった……)
もう半年近く前だというのに、その時のことを思い出した瞬間、胃がぎゅうっと縮んだ。逃避するように今腕の中にいるソフィーナの首筋に、顔を押し付ける。
あの後、フェルドリックはアレックスと怒鳴り合いになった。
「なぜ自分の気持ちを話さない、なぜ帰らないでくれと伝えないっ」
「嘘に埋め尽くされて、自由もなく義務と責任だけ膨大、常に死の危険がある。誰より幸せでいてほしいんだ、そんなところに置いておけるかっ。僕の気持ち? 伝えたところで悩ませるだけだ、彼女がどれだけ優しいか知っているだろうがっ」
「っ、どこまで傲慢なんだっ」
「……っ」
「妃殿下の目が、意識が何を追っているか、ちゃんと見たことがあったのか。何が妃殿下の幸せか、彼女自身にちゃんと聞いたことがあったのか。泣いていただろうがっ」
――一言も返せなかった。
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