彷徨
シャダからソフィーナに直接刃が向けられる――当然事前に察していた。
事後を有利に運ぶため、特にシャダがハイドランドに侵攻した場合の北方情勢を睨んで、安全を確保した上でソフィーナを囮にすることが、関係者を集めた合議で決定された。
ハイドランドへ軍を動かしたいならなおのこと必要だと、フェルドリックも納得していた――頭では。非道と言われようと、国のために必要な手を打たなくてはならない、そうやってずっと生きてきた。ハイドランド王女として生きてきたソフィーナも話せば、危険を顧みず協力してくれる人だと知っている。
だが、個人としての感情が邪魔をした。万が一を考えると、胃の腑がせりあがってくるような気がした。
だがら、フィルたちにはもちろん、騎士団などに周到に準備させながらも、ソフィーナ本人には告げなかった。シャダからの茶会の招待を彼女が断ってくれたらいい、そう思っていた。カザック太子としてはあるまじき行為だと、その妃に「囮になれ」と命令すべきだと嫌というほど知っているのに。
だが、彼女はあっさり招待に応じ、案の定の事が起きる。
彼女を守ることはもちろん、暗殺者の拘束、シャダの姫及び従者たちの“身の安全の確保”という名目での幽閉、集まっていたカザック貴族たちへの尋問という牽制と圧迫、全て予定通りに終わったが、フェルドリックの気は沈むばかりだった。
大事な人を危険にさらさなくてはいけない自分の立場を改めて唾棄した。
何より、彼女がシャダの招待に応じた理由――彼女のことだ、シャダの意図にも、彼女を囮にしようというカザックの思惑にも気づいていないはずがない。その上でそれに乗ったのだ。
その行動の意味するところが、フェルドリックにははっきりわかっていた。彼女が真っ青になりながらも、フェルドリックに縋るどころか、見ようとすらしないことは、その証拠だった。
自分に嫌気がさした時、フェルドリックはいつも王宮の裏庭、庭師のコッドの物置小屋を訪れる。
夏の昼時の庭は、草いきれのせいで余計息苦しく、鼓膜を直接揺するかのような虫の声も手伝って、ひどく暑苦しい。
「――ソフィーナさまはハイドランドに帰るつもりだ」
音も気配もなく、木の陰からフィルが唐突に現れ、前置きなく話し始めた。実に彼女らしくて、驚く気にも非難する気にもなれない。
(こいつが僕を殺す気になったら、簡単だろうな……)
――イッソヤッテミテクレナイダロウカ
「……」
我ながらいかれた思考だ、と笑いを漏らしたフェルドリックを、フィルは静かに、だが鋭く見つめてくる。
いつも人に怯えるくせに、こういう時は全く怯まないのも彼女だ。
フェルドリックはその視線から逃げるように瞼を閉じると、「知っている」と言いながら、息を吐き出した。
蝉の声がひと際大きくなった気がした。
「守ってやってくれ。絶対に傷つけないでくれ」
フェルドリックは静かに目を開くと、幼馴染の顔を見据えた。
「僕が今更言っていいことじゃないけど」
願いの後に自嘲を零せば、彼女は眉を跳ね上げ、すぐに下げた。
「その後は」
「絶対に迎えに行くから、それまで頼む」
「……連れて帰る?」
「いや、その後彼女は自由だ」
「なのに迎えに行くのか」
連れ帰る――頷きたくなる衝動を抑えて、首を横に振れば、幼馴染の眉が情けないまでに下がった。さっきまでのきつい顔と対照的な、間抜けなその顔に、フェルドリックは少しだけ笑うことができた。
「あー、そうだな、正確には迎えに、じゃないな。最後に一度だけ話したい」
木々を揺らした夏風がフェルドリックとフィルの間を通り過ぎていく。幼馴染の額にある傷が露になった。幼い彼女がアレックスを魔物からかばって付いたものだ。
フィルはこの傷を「誇らしい」と胸を張る。昔、その罪悪感で動けなくなっていたアレックスは、今は「愛しい」と言う。その関係がひどくうらやましい。
「話していないことがたくさんある。けど、こんな状態になった今、話したところで、彼女は自由に望みを口にできない。ハイドランドがなくなったら、帰ろうにも帰れないだろう。そのためにこっちはこっちで、やるべきことを全部片付ける」
「そのためだけにシャダと事を構える気か……? もう少し時間がいると言っていたじゃないか」
「ああ、つまりは遅いか早いかだけの差だ。布石はすでに打ってある。どうにかする」
相変わらず馬鹿みたいだとは思っているが、やはり国を蔑ろにすることはフェルドリックにはできない。だが、それが彼女の幸せに繋がるのであれば?
――なんだってやってみせる。たとえその先一緒にいることができなくなるとしても。
「……わかった」
じっとこちら見つめた後、フィルは「必ず守る」と静かな顔で頷いた。
彼女はどうしようもなく非常識ではあるが、だからこそどんな手段を使っても口にしたことを必ずやってくれる。フェルドリックは安堵の息を吐き出した。
「なあ、私を散々馬鹿だと言うけど、フェルドリックこそ大概だ」
「うるさい」
ため息交じりにそう言った後、フィルは深い森の緑の目を向けてきた。いつも思うのだ、彼女の祖父にそっくりなその目には、彼同様人外の気配が宿っている、と。
「大事な相手なんだろう。次に泣かせたら、相応の報いをくれてやる」
その言葉に「頼む」と笑えば、フィルはまたため息を零し、現れた時と同様、静かに消えていった。
* * *
「余計なこと“だけ”は口になさるのに、肝心なことは何も仰らない」
「……」
「本当は帰したくないって思っていらっしゃるくせに、格好つけて」
「……」
「そういう変な意地や見栄を張るのが元凶なんです。価値観が人と大きくずれていらっしゃるのにその自覚もおありじゃないから誤解を生んで、しかもそれにお気づきにならない。口もお悪いですし、自分の気持ちは徹底してお隠しになるし、そのくせ妙に諦めがよくていらっしゃるのもマイナスです。慈悲と恵の神の愛し子って、完璧って、みんな騙されすぎです」
「……君だって一緒に騙されていただろう」
「騙されていたのは、フェルドリックさまにじゃありません! ソフィーナさまに!です……ずっと、ずっと一緒にいたのに、大好きなのに、なんだってして差し上げるつもりなのに……苦しんでいたのに、全く理解して差し上げられなかった…………でも元々はぜんっぶフェルドリックさまのせいですっ!」
そう言って涙目で睨んでくるのは、ソフィーナの乳妹だ。
軍を動かす目途が立って、その出発の挨拶のために“ソフィーナ”を訪ねたフェルドリックに対し、代役を務めている彼女は今日も容赦のかけらもない。ソフィーナが国境を越え、無事でいると知らせた後は多少ましになったものの、基本は怒りつつもずっと半泣きという状態だから、余計居たたまれず、フェルドリックはため息を吐く。
「色々やらかした自覚はあるが、何もしていなかったわけでは……ソフィーナは今も無事だ」
「知っています。守ってくださっていたのも、今もそうなのも。でも、まったく伝わってないじゃないですか。ドレスやアクセサリーや花を贈ってくださったのもわかってます。でももっと大事なものがあるでしょう? 私たちの前で口になさるように、ソフィーナさまにもちゃんとお伝えになっているのだとばかり」
「……」
アンナの気を宥めようと、口にしてみたが、余計怒らせるだけに終わった挙句、的確に痛いところばかり突かれて、フェルドリックは額に右手を押し当てた。
「そりゃあ、ソフィーナさまは鈍いです。向こうにいた時だって、好意に全然気づいていらっしゃらなかったし。って、これはオーレリアさまのせいですけどね! 事あるごとに、善意を装ってソフィーナさまの見た目や性格じゃ、恋愛は無理みたいなことをさりげなく吹き込んで、ご縁談も邪魔して……ああもういいです、私は今カザレナにいるんだもの――あの性悪、大っ嫌い……!」
「あー……」
「それでも! ソフィーナさまは、本来は素直なご気性なんです! 差し出されたご好意にはちゃんと向き合ってくださる、優しい方なんです。だから、拗れたのはぜんっぶひねくれたフェルドリックさまのせいに決まっています!」
背後で、音を立てて噴き出したのは確認するまでもない――フォースンだ。
フェルドリックはまたもため息を吐きながら、先ほどアンナが淹れてくれた茶へと手を伸ばした。
「……」
(ハイドランドのセティギだ……)
ソフィーナの祖国の花をブレンドした茶から漂う香りに、彼女がこれを好んでいたことを思い出す。
『素敵な香りでしょう? シャルギと一緒に召しあがってください。もっと美味しく感じられますから』
「……」
脳内にその時の彼女の姿と声が鮮やかに蘇る。今、アンナが座っている場所の横に座っていた。
それだけじゃない。あの机に座って、眉間に皺を寄せながら、書類を読んでいた。このテーブルでオテレットの駒をしげしげと眺めていた。あの花瓶に花を活けて、コッドから水切りの仕方を教わったと話していた。あの窓辺で横に並び、朝焼けに染まる街を見ていた。具合が悪そうだった時にあのドアの向こうに無理やり押し込んだら、困ったような顔で見上げてきた――この部屋のあちこちに彼女の影が見える。
そう、影だけ、気配だけ――
「っ」
彼女はいない、そう実感した瞬間、気管が大きく震えた。
全部自分が招いたことなのに、帰してやろうと決めているのに、耐えられない、そう思ってしまった。もうそんな資格はないのに。
「……またなにか余計なことを一人でお考えなのでは?」
幻影のソフィーナの横に座るアンナに睨まれて、フェルドリックは意識を目の前に戻すと、顔を引きつらせる。
「なあ、少し大人しくする気はないか……」
「い・や・で・す。フェルドリックさまがソフィーナさまとちゃんとお話しになるまで、私は態度を改める気はありません! ついでに言えば、ソフィーナさまを一番想っているのは、フェルドリックさまが何をどう仰っても私です。――不敬罪? 死罪なら死罪で結構です」
「そんな罪状はカザックにはない。建国と同時に廃止された……」
思わず天を仰ぐ。血が繋がっていなくても、さすがは姉妹というべきか、大人しく見えて、気の強いところも強情なところも行動的なところも、アンナはソフィーナにそっくりだった。
周囲で護衛の騎士たちが、ハラハラとニヤニヤを混ぜたような顔をしているのも、倦怠に拍車をかける。
「間違えました。無事にカザックに連れ帰ってくださるまで、でした」
「……帰って、くる?」
ソフィーナがいなくなってからというもの、恨みつらみを吐き出し続けているアンナの口から意外な言葉が出、フェルドリックは目を瞬かせた。
「っ、あーもー、どこまでなの……知りません、あとはお話しになって、ご自分でお聞きになってください」
口の両端と眉を下げたソフィーナの乳妹は、「……でも」と言いながら、真剣な目をまっすぐにフェルドリックに向けてきた。
すっと立ち上がると礼を正す。
「私はちゃんとそうなると信じております。フェルドリックさまもですが、ソフィーナさまのことも――どうか私の祖国とソフィーナさまを、どうか、どうかよろしくお願いいたします」
そして、震え声でそう言い終えると、深く長く頭を下げた。
「……ありがとう」
一瞬言葉が出てこなかった。フェルドリックは形容しがたい、その衝動を抑えつけ、なんとか謝意を口にする
(ああ、アンナは優しいところもソフィーナにそっくりだ)
何もかもに彼女の影を見る。部屋や城のそこかしこに、茶や菓子に、アンナや庭師、洗濯係に、空に、風に、雲に……。
――会いたい。
次に会う時は別れの時だ。それでもとにかく彼女の存在を感じたかった。
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