未達
「ご無沙汰しております。フェルドリック殿下」
「ステファン。……何しに来た」
人気のないところで呼び止められて振り返れば、そこに馴染みの伯爵を見つけた。
「忠臣たるわたくしが、敬愛する太子殿下のご機嫌伺いに参ることに、何の不思議がございましょう」
「わざとらしい」
思わずため息をつけば、案の定伯爵はくくっと笑いを漏らした。
「様子がおかしいとギルたちから聞いたからな。捻くれ者同士、俺になら話すんじゃないかだと」
カザック国王の愛称を呼び捨て、フェルドリックの後ろ襟を猫にするように鷲掴みにすると、ステファン・ド・ザルアナックは、フェルドリックを引っ張って歩き出す。
「……お前らザルアナック家は、全員そろって見事に無礼だ」
「ほお。親父とフィリシアは仕方がないとして、ラーナックもか」
「しれっと自分を除外するな。ある意味、ラーナックこそが一番だぞ。あいつ、人の頭を勝手に撫でて、「あまり捻くれたことを言っちゃだめだよ、こんなにいい子なのに誤解されてしまうよ」だと。それを見てたアホフィルは、涙まで流して笑いやがるし」
異母妹のナシュアナに散々ねだられているのに、フェルドリックがソフィーナを絶対にザルアナック家に行かせない理由だ。幼馴染の中でも一番年長で、ナシュアナの夫でもある彼が、フェルドリックは最も苦手だ。
その時のことを思い出して、苦々しく顔を歪めたフェルドリックに、ステファンも大笑いした。いつかこの一家を滅ぼしてやろうと半ば本気で思う。
「なんでこんな道知ってるんだ」
「昔一緒に遊んでいる時に、ギルに吐かせた。主にエイリールが」
「……一番隠さなきゃいけないはずの人間が何やってんだ」
フェルドリックすら知らない隠し通路を辿って、城郭の投石塔へと出たステファンに呆れを漏らす。
同時に、全く知らない両親の姿を聞かされ、自分は彼らのことをほとんど知らないとまた思い知らされた。あの人たちは一体どんな夫婦なのだろう? ……想像もできない。
吹き付けてくる初夏の風に、微かにクチナシが香る。
周囲をぐるりと囲む塔壁の一部、凹部からカザレナの街が見える。昼下がりの街は、微妙に黄色味を帯びた日の光の下で、どこか気だるげに見えた。
「ほら」
「……ほんと、そっくりだな」
ステファンがひょいっと投げてきた飴を受け取ったフェルドリックは、手のひらの上で黄色いそれを転がして、思わず笑いを漏らす。ラーナックもフィルも、落ち込んでいる相手を前に同じことをする。
(最近は菓子を口にすることもなかったな……)
包み紙を開き、口に放り込めば、どこか懐かしい、甘酸っぱい味と香りが広がった。
そのまましばらく壁に背を預けて並んで座り込み、ただ空を眺めていた。薄く雲のかかったその日の空は、奇しくもソフィーナの目の色だった。
「……帰してやろうと思う」
(もう自由にさせてやりたい。馬鹿みたいに優しい人だ。嫌いな人間に縛り付けられて、そのせいで命を狙われ、人もどき共に馬鹿にされるような、理不尽な扱いを受けていい人じゃない――幸せになってほしい、誰よりも)
外務の副大臣でもあるステファン・ド・ザルアナック伯爵に、フェルドリックは何をと告げないまま、ぼそりと呟いた。ハイドランドからソフィーナを迎えるのに、何かと尽力してくれた人でもあったから、謝罪の意もあった。
「お前が海洋諸国連合との話を蹴って、ハイドランドの彼女との婚姻を望んだ時、ギルがお前に訊ねたことを覚えているか?」
『ソフィーナ・フォイル・セ・ハイドランドの王位継承順位を、知っている“から”望むのか、知っていて“なお”望むのか――どちらだ』
伯爵の静かな問いに、その時の自分の答えを思い出して、フェルドリックは顔を硬くする。
「前者なら有益この上ない相手、後者なら面倒でしかない相手――」
「……」
淡々と話し続けるステファンの顔を見ることも空を見続けることもできず、フェルドリックは視線を落とし、石造りの床を見つめた。
「厄介だと知っていて望んだんだろう。今更逃げるな」
「逃げているわけじゃない。本人がここを、いや、僕の横を嫌がっていると確認した。幸せじゃないと」
王女でなければ、相手がフェルドリックでなければ、ソフィーナは幸せになれた――。
フェルドリック自身がそうであるように他の人間なら、「王族の婚姻なんてそんなもの」と鼻で笑うだろう。
だが、ザルアナック家の人間は違う。先代の時からずっとそうだ。彼らはフェルドリックを王子、太子として見ず、1人の人間として見てくれる。ムカつくことも多いが、時に救われるのも確かで、つい甘えた言葉が口をついて出た。
「確認、ねえ。お前のことだ、どうせ自分の本音を隠したまま、あの手この手で相手の本音を探ったつもりになって、わかった気になってるだけだろう」
「……っ」
痛い指摘に息をのめば、ステファンに呆れた顔を向けられた。
「本音を、むき出しの自分をさらすのは、誰だって怖いもんだ。それが大事な相手であれば、なおさら。拒絶された時のダメージが半端ないからな」
「……怖いわけじゃない」
「そうか? まあいいさ。ただ覚えとけ、人は自分に吐いた嘘からは逃げられない――頭だけ無駄にまわるお前のことだ、言い訳なんかいくらでも思いつくだろう? だが、そうして自分と相手に向き合うことから逃げれば、お前の心はいずれ、だが確実に死ぬ。さらに恐ろしいのは、相手の心も巻き添えで殺す可能性があるってことだ」
「……17年間向き合わなかったせいで、フィルとこじれまくったお前に言われたくない」
「散々失敗した馬鹿に言われると、説得力があるだろうが」
フェルドリックの稚拙な意趣返しを、ステファンは自嘲と共に皮肉に笑い捨てた。
「自分の気持ちに向き合え、というので思い出した――おまえ、太子というか王族か、やめたいんだろ。別にいいと思うぞ」
「っ」
あり得ない言葉をあっさり口にしたステファンに、フェルドリックは戦慄する。
「…………その後どうするんだよ」
「国? 民衆? 知ったことじゃない」
引きつった顔で絞り出すように訊ねたフェルドリックに、ステファンは笑ってみせる。
「俺は親父じゃない。ルークやヒルディスとも違う。ギルもエイリールもお前も妃殿下も、逃げたいなら逃げればいいと思っている。その後? 自分たちで何とかしろって話だ」
「フィルやラーナックも巻き添えになるのにか」
「国ごときが滅んだからって、あのフィリシアがどうこうなるわけがない。ラーナックぐらいは何とかする。あとは実のところどうでもいい」
ステファンは暗く笑いながら、「シンディが、妻が死んでから、そうとしか思えなくなった」と呟いた。
「だから、お前がそうしたいというなら、協力してやる」
「……ザルアナックの中でも一番狂ってるのはお前だ」
「今更気づいたのか。親父やフィリシアは、やることはおかしいが、頭の中身はなんだかんだで健全だ。ラーナックもシンディも。善良でまっすぐで明るくて優しくて、俺たちのような人間の汚さを浮き彫りにする」
ステファンはくつくつと笑いながら、得体のしれない光の浮かぶ茶の瞳を、まっすぐフェルドリックに向けてきた。
「なのにというか、だからこそ惹かれる――ソフィーナ妃殿下も似ているんだろう」
「……逃げない」
立場を捨てるという、ずっと望んできた選択肢を前にした動揺は、ソフィーナの名を聞いた瞬間、すっと鎮まった。
彼女に見下げられたくないというのもある。だが……自分が今逃げれば、彼女は幸せでいられなくなる、それだけは嫌だ。
「なら、お前はまだ健全――正確には、健全にしてくれる人が存在しているってことだ」
ステファンは目元を緩ませ、フェルドリックの頭をぐしゃぐしゃっと撫でると、立ち上がった。
「ああ、もう一つ。失敗した馬鹿が言えることがあった」
一人塔の階段へと向かっていたステファンは、いまだ座り込んでいるフェルドリックを振り返る。
「二度と会えなくなる時は来るぞ。離れてなおその人の幸せを願うなんて、美しい戯言が許されない、暴力的な別れだ」
――その時に後悔しても遅いんだ。
伯爵の最後の言葉は、塔の階段に反響する足音に紛れて、ひどく聞き取りにくかった。
* * *
「――ご報告は以上となります」
可能性を考えてはいた。だが、予想外に早くその時は来た。
ハイドから脱出した駐ハイドランド大使と、密かにハイドの街及び城内に潜り込ませている間者からの密書をまとめた国王補佐官が、ハイドランド王の暗殺とセルシウスの暗殺未遂及び監禁の報をカザック城にもたらした。
「ソフィーナには」
「私から」
父王と目を合わせないようにして、フェルドリックは御前を辞す。足早に自室に戻りながら、フェルドリックはステファンの会えなくなる時は来るという言葉を思い出す。
(その前に――)
呼び出しに応じて、フェルドリックを訪ねてきた彼女には、既に覚悟が見て取れた。
父と兄の身に起きたことを伝えても、彼女は自分を保ち続け、次の手を考え始める。顔色は蒼褪め、手指が微妙に震えているというのに、それ以上取り乱さない。
その姿に改めて尊敬を覚えると同時に、悲しくなった。彼女の立場もだが、自分と彼女の間に、荷を分け合うだけの信頼がないことを実感してしまったから。
自分はどこまでも臆病で卑怯だったと、今更自覚する。ちゃんと本音で向き合えばよかった。そうすれば、いま彼女はここで倒れそうな顔をしながら、1人ですべて抱え込む必要はなかったかもしれないのに。
「君が僕にいつも手を読まれて負ける理由を知っている?」
「私があなたに惚れているから、とでも仰るのでしょう」
「……へえ、ようやく分かったわけ」
「でも外れです。本当に何も考えておりませんので」
そう言い張っていないと格好がつかなかっただけで、本当は知っている。惚れられるどころか、真逆――嫌われていると。だが、そうはっきり言わない彼女はやはり人がいいのだろう。
自分の馬鹿さ加減に息を吐き出しながら、フェルドリックはソフィーナとの距離を詰める。これで最後にするつもりだった。
「もう1つ、可能性があると思わない?」
青灰の瞳を前にすると、息がしにくくなる。心臓が痛い。
その瞳を露骨に逸らされて、余計苦しくなった。自業自得だという自覚も嫌というほどあったから。
(だけど、最後に1回だけ――)
「ソフィーナ、こっちを見るんだ……目を開けろ」
懇願も、顔を伏せられたまま必死に首を横に振られて、拒絶されてしまう。
クチニシタトコロデ、ドウセキョゼツサレルダケ、ソレデモ――
彼女を離しそうになる手を押しとどめ、強引に抱き寄せると、フェルドリックは舌で乾いた唇を潤し、そのまま口を開いた。無様なほどに全身が震えている。
「ソフィーナ、僕は」
――君を愛している。
けれど、結局それが言葉になることはなかった。
「お客さまです、殿下」
傷つけて本当にごめんと伝えることさえ、許されなかった。
「……」
胸を軽く押される。先ほどまであった熱が消え、愛しくて仕方のない呼吸が遠ざかる。距離が生まれる。離れていく。
彼女にだけ、どこまで無様で、どこまでも思い通りにできない。
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