泥沼

「なんなんだ、あれ……」

 公爵家の世継ぎでありながら、カザレナ郊外の一般市民向けの住宅地で暮らしているアレックスを訪ね、フィルを追い出すと、ここ最近まともに寝られたためしがないフェルドリックは、ソファにぐったりと身を投げ出す。


「どうぞごゆっくり。ええ、いつだって大歓迎です――私が同席しなくていいという条件下であれば」

 心底嬉しそうなフィルが、いつものごとく余計な一言を残して、弾むような足取りで家から出ていったのも、アレックスがそれで恨めしい目でこっちを見たのも気に入らないが、とりあえず今は問題ではない。


「あれ、ねえ。優しくて、寛容で、善良で、頭が良くて、一生懸命で、めっちゃくちゃ可愛い、好きすぎる――とフィルが絶賛している方のことか? ああ、今のフィルは、宮殿ではマットだったな」

「ああ、うまくいっているみたいだ。ヘンリックもアンナも一緒に賑やかにやってる」

 フィルのソフィーナ評は概ね合っている。「フェルドリックをこの世で一番嫌っている」と付け加えれば、なお完璧だ、とフェルドリックは鼻を鳴らした。


 アレックスはそんなフェルドリックに半眼を向けると、「間違ってもあれ呼ばわりをフィルの前でするなよ?」と呟き、ポットの紅茶をカップにそそぐ。

「あー、あいつ、その辺の男よりよっぽど紳士だからな。じゃあ、“彼女”で」

「……? 名前で呼べばいいだろう」

「口にしたくないんだ」

「なぜ」

「別に。なんとなく落ち着かないだけだ。深い理由なんかない」

「……」

「なんだよ?」

「…………意味がわからないのか」

 一瞬動きを止めたアレックスは、「頭痛がしてきた」と盛大にため息を吐いた。

「うざ」

 ただでさえだるい上に嫌気がさしていて、追究する気力もない。フェルドリックはただ毒だけを零した。


「だが、それならなおのこと慎重にふるまえ。お前が髪を切らせ、正体を偽装させてまで妃殿下の護衛につかせた彼女は、お前はおろか、陛下も国すらも脅威に感じない。誰が何を仕掛けてこようと、自分を物理的に殺すことは不可能だと本能で知っているからな」

「自分の妻の説明としてどうなんだよ、それ。なんにせよ嫌というほど知ってるさ、あいつが人のことわりの外の生き物だってのは。周りの人間を盾に脅そうとすれば、逆に殺しにかかってくる性格だってのも、おそらく完遂するだろうってことも」

 普段はぼんやりのほほんとしているが、フィルの本性は魔物に近いとフェルドリックは本気で思っている。

「……」

 アレックスは肯定を返したフェルドリックをじっと見つめてきた。一から十まで言わずともお互いの考えが読めるのは、こうしたやり取りを積み重ねてきたからだ。

 これまでそういう間柄であることを不快に感じたことはなかったのに、フェルドリックは眉根を寄せ、目を逸らした。


「……逃げたいと妃殿下が願い、それが正しいと判断したら、フィルは叶えようとするし、叶えるだけの能力もある。ヘンリックはヘンリックで世間知の塊だ。俺たち貴族が知らないことを知り、思いつかないことを考えられる。その気になれば、こちらの裏をかいて、フィルの杜撰さをカバーできる」

 アレックスは静かにそう言った後、探るような目を向けてきた。

「そして、お前はそれをすべて承知の上で、彼らを妃殿下につけた――そういうことだな?」

「……君の頭の良さも察しの良さも善し悪しだ」

 フェルドリックは唇の右端を奇妙に吊り上げると、湯気の立つ茶のカップを口に運んだ。


「……まず。ずっと一緒にいるんだから、フィルから茶の淹れ方ぐらい習え。あいつの取柄なんてそれぐらいだろ」

 罵ってみたが、アレックスは欠片も動じず、逆にこちらを憂える視線を送ってくる。それで余計嫌になった。


「フィルのこと、おかしいと思ってたけど、おとなしく見えるだけで、彼女も相当おかしかった」

「身近な人間を2人以上おかしいと感じる時は、まず自分を疑え」

「いっちいち可愛くないな。君がフィルに女の子と思われていたあの頃が懐かしいよ」

「……」

 アレックスの取り澄ました顔が歪んだのを見て、フェルドリックは少しだけ溜飲を下げた。


「そういや、フィルに髪を切らせたこと、君は文句ないのか? あいつはあっさりしてたけど、周りの女性陣からは非難轟々だ。母上にナシュアナ、君の母君。彼女も知ったら怒るだろうな、あの性格だと」

「昔みたいで可愛い。というか、フィルなら何でも可愛い」

「…………あれを可愛いと言える君ほどには、彼女は狂ってないかもな」

(あっさりと口にしてしまえるのか)

 思考ですら止めようとする自分とは、従兄弟でありながら違いすぎる、とフェルドリックは諦めを含んだ笑いを零した。


 ふと視線を外へと向ける。

 小さな家の小さな窓の向こう。暖かい日差しの中で、子供たちが鬼ごっこをしている。

 茶色の髪の女の子が、追いかけてきた鬼に捕まりそうになっている。今まさに手が届くという瞬間、彼女は身をよじって辛くも逃れた。


「……」

 ソフィーナに告げたのは本心だ。フェルドリックに彼女を逃がす気はない。あれほど理想的な妃はいない。言っていないことは色々あるし、いらないことを言っている自覚もあるが、フェルドリックは彼女に何一つ嘘はついていない。

 それは多分彼女も一緒だった――ただ隠し事があるだけ。そして、フェルドリックは彼女がそれを言わない理由も理解していた。ハイドランドのため――自分が彼女の立場でも間違いなく同じようにふるまうだろう。

 まして、それが信頼できない相手ならなおさら隠すに違いない。彼女が何より愛する故郷に帰るための最大のカードになるのだから。


(律儀というか、まじめというか、優しいというか……)

 それほど厭う相手にすら、制限の中で可能な限りの誠意と思いやりをもって接してくる、そんな彼女が帰りたい、逃げたいと思っているのなら?


 自分たちの人生はくだらない。自分を押し殺し、人のためにひたすら堪えて、生きて、死ぬ――。


 フェルドリックは自分の祖父アドリオットと、今は亡きハイドランド王后メリーベルを脳裏に浮かべる。敬慕すると同時に、心の奥底で恨んでもいる2人だ。

 彼らは自らの責任を全うしきった。そんな中で祖父が自分をちゃんと愛してくれたのはわかっているし、メリーベルも同じだったとソフィーナを見ていて感じる。

 だが2人は、そうして意図しないまま、自分やソフィーナを、彼らと同じ人生を選ばなければならないと思ってしまうように育てた。


 そんな人生では幸せになれないとソフィーナが少しでも感じるなら?

 ――自分くらいはそこから逃げる自由を認めてやってもいいのではないか。


「……やっぱりあんなのと結婚するんじゃなかった」

 あんなに自分を嫌っている彼女と――

 口の中でぼそりと呟き、フェルドリックは自嘲する。賢くて善良、妃として都合がいいこと、この上ない人だ。見込み違いだったのは、彼女が嫌いな相手にすら思いやりをもって接してくるほど、優しかったということ。

「最悪だ」

 おかげでそんな人間を利用した自分の醜さが、ますます浮き彫りになった。

 フェルドリックは見るともなしに外へ目を向けたまま、暗く笑う。


 ハイドを訪れた後、こちらから破談にすべきだったのだ。例えば、あの醜悪な姉やハイドランド王を陥れてソフィーナの周囲から排除しつつ、破談の責任を彼らに押し付けるとか、彼女の立場を損なわないような破談方法だってあったのだから。


『好き、というほどでもないような気がしますけれど、賢くなれば、みなも幸せに出来て、自分も幸せになれる、と』

――そうすれば、相手が僕でなければ、“あの子”は不自由な境遇なりに、もう少し幸せそうにしていただろうに。


「やっぱり逃がしてやるかなあ」

「……」

「慰謝料代わりにハイドランド王と異母姉を排除してやれば、セルシウスも文句ないだろ。シャダに狙われることもなくなる。まあ、シャダはどの道つぶすけど」

 自由になれる機会なんて、自分たちにはそう何度もない。戻れば、ハイドランドで結婚だのなんだのに煩わされず、好きなだけ仕事ができるだろうし、しばらく経てば、離縁が逆に彼女の地位を弱めて、身分の別なく自由に相手を選ぶこともできるようになるだろう。


 なにせあの奇妙さに振り回されるのも、自分を見失うのも、もう面倒だ。

「……せめて本人に意思を確認してからにしろ」

「確認するまでもない気がするけど?」

 フェルドリックが唇だけを歪めて笑えば、アレックスは「……俺はおまえにも幸せになってほしいんだがな」と小さく呟いた。

「僕の幸せ、ねえ」

 ぱっと思いつかない。じっくり考えたところでどうせ思いつけない、とフェルドリックは乾いた笑いをこぼす。

 胡散臭い――ソフィーナは実に正しい。自分は外側だけ整えてあるだけ。その外側も人が作ったものだ。中身なんか何もない。幸せが何か、想像もできないのだから。


(そういえば……“あの子”の幸せは何だったんだろう。聞いておけばよかった)


 元気にはしゃぐ子供たちの頭上。珍しく高く澄んだ春の空は、真っ青に晴れ渡っている。

(薄く雲のかかった空の青のほうがいいのに)

 ぼんやりとそんなことを考えながら、フェルドリックは渋いだけで旨味も何もない茶をまた口にした。



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