麻痺

(――なんだ、これ)

 花を抱え、こちらを見て、ソフィーナが顔全体を綻ばせている。

 不自由の中、さらなる不自由を強いたフェルドリックに。嫌いな相手に。

 どれだけ高価な品を贈っても、どれほどの賛辞を口にしても、白けた顔しかしないくせに。


 7年前、潮騒の音を聞きながら、自分の手の下で真っ赤になった幼い顔が、目の前の顔に重なっていく。


(な、んだこれ、かわいす……)

「っ」

 思考を全力で止めた。刹那、目に入った、ソフィーナが元々持っていた花へとなぜか手を伸ばしてしまう。

(……な、に、やってる、んだ?)

 奪い取らなくてはいけない気がしたのだが、自分でもまったく理由がわからない。

「……」

 ソフィーナが目を丸くしているのがわかって、冷や汗が出てくる。

「この、花じゃ、お似合い過ぎて笑えない」

 人生で一番と言っていいほどの動揺の中、なんとか自分の行動のつじつまを合わせると、フェルドリックは音を立てて踵を返した。


「…………狂ってる」

 フェルドリックは小さい頃から避難場所にしていた王宮の裏庭、庭師の老人の物置小屋の影まで来て、壁に背を預けると両手で顔を覆う。

(なんでだよ、嫌がれよ、いつもみたいに冷めた目でありがとうとでも言っておけばいいだろうが)

 元々敬遠していた上に、あれだけのことをしでかし、望んでいない結婚を押し付けた相手に笑う? 花ごときで?

 ――本気で頭がおかしいとしか思えない。


「……」

 自分の状態はわかっている。表情はもちろん顔色も声色も発汗さえも、すべて思いのままに動かせるよう訓練されて、その通りに生きてきた。

「なんておかしなのを選んだんだ……」

 なのに、顔に上った血が下りていかない。


「……というか、またやった」

 フェルドリックは、踵を返す直前のソフィーナの顔を思い出して、うめき声をあげる。

 多分また傷つけた。今思えば、あんな言葉、誤解されて当たり前なのに、言葉なんか計算しつくして出せるはずなのに、なぜ彼女にだけうまくできない――



 恐ろしいことに、変調はそれだけで済まなかった。彼女の頭のおかしさは、伝染するらしい。


 その夜、今度こそ拒絶されてもおかしくないと覚悟してソフィーナを訪ねたのに、普段と変わりなく迎えられた。寛容なのか、元々期待されていないか――多分どちらも正解だ。


(今度こそ謝る……けどなんと言う? あの花とソフィーナがそっくりなのは確かだ。控えめで柔らかくて、他を支えて調和させる。否定したらそれこそ嘘だろう。ただ、もっとかわ…………別、の花のほうがずっと、)

 微妙に緊張していたフェルドリックは、そこまで考えて息を止めた。

 ――キライナニンゲンニソンナコトヲイワレテモ、キショクワルイダケ。

「……」

 頭が急激に冷えた。息を吐き出せば、自嘲が口の端に浮かんでくる。

 フェルドリックは視線を床に落とすと、メスケルでもして適当に過ごそうと決めて、寝室へと向かった。


(かざって、ある……)

 だが、そうして通された先に昼間渡した花が活けてあることに気づいた瞬間、フェルドリックはソフィーナの奇怪さを痛感した。

(なんなんだ、これ……)

 目の前でメスケルの準備をし、駒を動かす生き物の得体が知れなくて、知らず凝視してしまう。

 体の奥底から湧き上がってくる得体のしれない感情に、表情のコントロールが利かなくなった――そこからだ、自分まで狂い出した、とはっきり自覚したのは。


 見ないでおこうと思うのに、気づいたら視界に入れている。

 いつも通りふるまおうと、皮肉を口にしているのに、彼女を見ているうちに勝手に表情が緩む。

 自分と目が合って赤くなったのを、なぜか嬉しいと感じてしまい、挙句、怒った顔も、などと思い浮かんできて、慌てて思考を止める羽目になる。

 彼女がフィルたちの力量を聞いてきた時には、全身が冷えた。

 暗殺の危険は自分たちのような人間には当たり前のことだ。フェルドリック自身何度も殺されかけたし、ソフィーナも今シャダに狙われていて、そうさせないために考えつくした上で万全を期してある。

 なのに、彼女の身に何か起きたのかという一抹の想像だけで、音を立てて血の気が引いていった。自分が殺されかかった時は「頭が悪いのに野心だけはある、みじめなことだ」などと嘲笑っていられるのに。

 フアンガラナイデホシイ――

「安心していい」

 出さないはずの思いが勝手に口を突いて出て焦り、

「まあ、君みたいなのに興味を持つ人間なんてそういないだろうから、元々安全だろうけど。さて、そろそろ寝るか」

 動揺を誤魔化そうとまた稚拙な皮肉をこぼして、毛布をかぶって背を向けた。


「……」

 寝たふりをしているのに、どうかしていると思うのに、背後の気配に意識が吸い寄せられる。

 明かりを落とした彼女のほうも寝ていないことに気づいて、声をかけたほうがいい気がするのに、今度は言葉が出てこなかった。



* * *



 何かがおかしい。そうわかる。自分が自分でいられなくなっている。

 これまですべて思い通りにしてきたのに、彼女に関してだけ、何かも思い通りにならない。


 フカイリスルナ

 頭が痛くなるほどの警告が鳴り響いているのに、

 カノジョハオマエヲキラッテイル、コレイジョウフタンヲカケルキカ

 やめてやれ、そう思っているのも確かなのに、


「ソフィーナ、おいで」

 気づけば姿を探し、名を呼んでいる。


 これ以上近寄ってはいけない、そう切実に感じているのに―― 


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