自覚
深夜、フェルドリックは目を閉じたまま、横から響く呼吸へと意識を集中させる。その音が規則的になったことを確かめて、むくりと身を起こした。
カーテンの隙間から月の光が入り込み、毛布にくるまっている傍らの塊を照らしている。唯一覗いているのは、白い頬と茶色いはずの髪で、淡い月明かりの中、そこだけが浮かび上がって見えた。
(……普通、だよな? どこまでも普通……特に整ってるわけじゃないし、その逆もない。体つきだって何の特徴もないし、髪の色も目の色も全く珍しくない。ドレスや宝飾品はいつも質素が行き過ぎて微妙に貧相だし、やっぱり非凡なのは中身だけ……)
そう確認するために塊――自分の妻であるその人を凝視すれば、口元がふよっと緩んだ。
「……」
あまりにあどけない表情につられて笑って……
(って、なにやってるんだ)
フェルドリックは頭と肩をガクリと落とした。
――どうやら今夜もまともに寝られそうにない。
「そのお顔……」
「医者を呼んでくれ」
「……ただの睡眠不足にですか?」
「このところずっと寝られていない」
「……なんで」
「それを知りたいから医者を呼ぶんだろうが」
翌朝、自らの予想を体現したフェルドリックは、執務室に現れたフォースンに八つ当たる。だが、いつもなら顔を引きつらせる彼は、「本気で仰ってます……?」とまじまじとこちらを見つめてきた。
「何か文句があるのか?」
「い、いえ! ただおもし……いいいいいいえいえいえいえ、殿下のお体がとおおおっても心配なので、ウェイン師に来ていただきましょう! ほら、この大陸はおろか、西大陸の医術にも精通している方ですから! フィル殿とラーナックさまの師!」
「っ、ちょっと待てっ」
脱兎のごとく駆けだしていった自分の執務補佐官に人選を任せたことを、フェルドリックは心の底から後悔する。
フォースンが呼ぶと言った医師、ウェインの技量を疑っているわけではない。元々は西大陸の大賢者アンソニー・クラークの弟子だ。カザレナの裏町で飲んだくれのぼったくり医者と化していた彼を、珍妙な経緯でフィルが見つけ出し、兄のラーナックがサポートするようになって数年、彼は麻酔薬の開発と外科手術の普及、抗生剤の生成と普及、いくつかの致死率の高い病の治療法の確立など目覚ましい活躍をし、市井での診察を続けながら、典医の一人にまで取り立てられた。
『フェルドリック殿下、あなたの症状についてご説明申し上げます。大変申し上げにくい内容ですが、心してお聞きください。診察の結果は、』
だから、彼の問題はいつも腕や信頼性などではなく、
『――「馬鹿か、てめえは」です』
弟子であるフィル(本人は「勝手に弟子によばわり! 疫病神に取りつかれているだけなのに!」といつも叫んでいるが)など足元にも及ばない無礼っぷりだ。
『ウェイン! 貴様、いい加減にし』
『知らない間に見ている、判断力が鈍る、目が合うと息がしにくくなる、側にいると落ち着かないが、いなかったらいなかったで落ち着かない、眠れない、触れると動悸がする――これ全部特定の相手の話なんだろ? 恋っつうんだよ、どあほっ』
「……っ」
そう叫び、『取るもの取りあえず来て損した。せいぜい楽しくやれや』と言い放って、さっさと帰っていったウェインの憎たらしい顔を思い出して、フェルドリックは一人、執務室のソファの上で頭を掻きむしる。
(そんな訳があってたまるか……)
恋? ありえない。そんな生産性のないもの、自分の立場はもちろん個人的にも絶対にあるはずがない。しかもソフィーナ? 素晴らしい頭と人格の主ではあるが、それ以外は特徴のない、しかも自分を思いっきり嫌っている人間だ。そんな相手に……?
『ふふ、かわいい』
――『知らないうちに彼女を追っている。いなくなられたら息の仕方を忘れる』
「……」
温室で見たソフィーナの顔が思い浮かんだ。
次いで、いつかアレックスがフィルについて話していた言葉が頭に響き、フェルドリックは唐突に動きを止めた。
(……ああ、こういうこと、か)
見た目でもなんでもない、中身の問題ですらない――ただ、惹きつけられる。
理屈も抵抗も価値観もすべて暴力的に無視して、目が、耳が、全身の神経が勝手に彼女を探し、欲する。どうしても抗えない。
いなくなるなんて考えられない。そのためなら自分の命すら惜しくはない。
すべての物事に彼女の影を見る。人にも、花にも、それこそただの空にすらも――
「……ほんと、救いがたい」
フェルドリックは膝の上に肘をつくと、その手で顔の上半分を覆う。そして、くつくつと笑いをこぼした。
ウェインの言葉は確かだ。自分はどうしようもなく愚かだった。
* * *
嫌う人間から寄せられる好意ほど、おぞましいものはない。
自らの経験からそう知っているフェルドリックは、以後自分の内心をソフィーナに悟られないよう徹底した。
カザックの王宮では月に1回程度、夜会が催される。これまで面倒なだけだったそれは、彼女に近寄っても不審がられない貴重な機会となった。
初夏に開かれる水月の宴では、案の定ドレスなどを作っている様子のないソフィーナのために、フェルドリックはドレスと宝飾品をオーダーした。
エスコートのために迎えに行って、それらを身に着けた彼女を見たフェルドリックは、口元を綻ばせる。似合うだろうと思って作らせたが、想像以上だった。
客観的に見れば普通以外の何物でもないのだろう。だが、フェルドリックにはこの世で一番美しい存在に思える。
我ながら重症、そしてどうしようもなく滑稽だった。
「いい意味で期待を裏切られたよ、ソフィーナ。本当に美しい。懸命に選んだというのに、ドレスもアクセサリーも君に見劣りしてしまう」
アンナがいる以上、口にしても大丈夫なはずだと判断して吐露した本音は、だが、マナーと明らかにわかる笑顔で流された。挙句嬉しくないとはっきり言われてしまう。
「今の君は僕の妻だ。結婚祝賀会のような姿でいられれば、僕が恥をかく」
「存じております。あとは、カザックの財力に圧倒されております、とでも付け加えれば、満点ですか?」
そこまで言うか、とさすがにむっとすれば、すかさずやり込められて、さらには微笑まれた。ますます気に入らなくなる。
「それ程察しがいいのに、なぜ君がオテレットで僕にいつまでも勝てないのか、考えてみたことある?」
そのせいだろう。言葉が勝手に口をついて出た。
(――しまった)
冷や汗が流れた。
もしソフィーナが正解に行きついたら? ――ずっと見ているから、などと彼女に悟られるわけには絶対にいかないのに。
もっとも、彼女が口の両端を下げてこちらを睨んできたことで、すぐに懸念は霧消した。
ばれずに済んだという安堵に一抹の寂しさを交えつつ、フェリドリックはソフィーナの幼さの垣間見える率直な表情に笑いを零す。
「ほら、ちゃんと捕まって」
自分を嫌っている彼女にはこういう時ぐらいしか、触れることはできない。
(それもいつまでかな……)
自分をまったく見ようともせず、硬い顔をしている彼女の様子に、フェルドリックは密かに苦笑を漏らした。
ソフィーナが疲れていることには気付いていた。おそらくカザレナの暑さにやられているのだろう。
だからドレスにも配慮したし、その晩は最初のダンス以外誘わなかった。そして、できるだけ近づかないようにした。自分と一緒にいるのは負担でしかないようだし、面倒な連中も寄ってきてしまう。
だが、遊び半分にナシュアナなどを殺しかけたことが何度もある、上の異母妹やその取り巻きにソフィーナが囲まれているのを見た時、フェルドリックは血の気を失った。ろくに時間を共有できなかった姉の話が蘇る。よくよく見れば、事前に頼んでいた通りロンデール公爵夫妻が側にいたというのに、フェルドリックはその場に強引に介入し、奴らをソフィーナから引き離した。
その後、これまで見たことがないほど楽しそうに、活動的にその彼と踊り始めた彼女を見、次に続いて、しみじみと思う。
先ほどの楽しげな顔も、軽やかなステップも、ダンスの技量の問題ではなく、ロンデール相手だからこそだったのだろう。フェルドリック相手には出てこなかった。
(当然か……)
強引にダンスに誘った挙句、その事実を確認するだけに終わって、フェルドリックは内心で自嘲をこぼした。
いい加減手放してやれ――そう本気で思っている。
なのに……
「ふふ、西地区の再開発の件ですが、上流地域の農民たちが水量調整に同意してくれました」
「……よくやった。君にしては上出来だ」
――したくない、できない。この顔が見られなくなるのは、耐えられない。
白けた視線だけを向けて欲しい。常に蔑むように見ていて欲しい。
気まぐれに微笑みかけないで欲しい。隣で無防備に寝ないで欲しい。
気遣いも優しさもいらない。立場を考えての取り繕いももうたくさんだ。
お前など嫌いだと、全身で示してほしいのだ。
でなければ余計――。
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