知らず火に入る……

 賢いと思っていたが、それも行き過ぎると、少しおかしくなるのかもしれない――最近フェルドリックは自分の妻に対して、本気でそう疑っている。


 そもそもあんな目に遭っていながら、なぜ彼女はカザックに来たのか。すぐにでもハイドランドから何らかのリアクションがあると見ていたのに、音沙汰がなかった。

 確かにカザックの国力は、ハイドランドを圧倒する。だが、ハイドランドには硬鉱石や砂糖、羊毛など、武器になるものも多い。他国ならいざ知らず、あのセルシウスがいて、応戦方法を考えつかないなどということがあるだろうか?

 駐ハイドランド大使に「様子を確認の上、ためらいがあるようであれば、断ったところでそれを理由に不利益を与えることはないと伝えよ」と言い含める書状を送ったが、「第1王女殿下でないことでうるさく言われているが、その他は特に。ソフィーナ殿下からも、輿入れにあたっての事務的な質問以外伺っていない」と返答があった。


 そうして、彼女は本当にカザックにやってきた。替え玉でも用意したのか、と疑っていたが、馬車から降りてきたのは間違いなく本人――貼り付けた笑顔の仮面の下、彼女を部屋へとエスコートしながら、フェルドリックは彼女の正気を本気で疑っていた。

 あんなことをされてなおフェルドリックに好意を持っているなどという、被虐趣味でないのも確かだった。丁寧に紳士的にふるまえば、同じように完璧な淑女のふるまいを返してくる。そのくせ目線は冷めきっている。2人きりになれば特に顕著で、「断れなかったから来ただけ」「不満なら姉はどうかと勧めただろう」と涼やかに言い放った。


(恨みつらみを押し隠し、国のために我慢しているのだとすれば、見上げた根性だ。そして、僕同様、くだらない人生の主だ)

 尊敬と軽蔑、同情、反発、共感、憐憫、複雑な感情を抱えて、フェルドリックはソフィーナをカザック王国に迎え入れたわけだが、それは今なお続いている。


 大体、なぜ普通に受け答えしようと思えるのか?

 いや、拒絶は堂々と口にする。仲睦まじく見せかけるためだけの白々しい演技をやめろだの、夫婦の関係になるつもりはないだの、ドレスも宝飾品も足りているから、奨学金に当てろだの。手を取ろうとこちらの手を差し出せば、その手をじっと見つめたり、膝に自らの手を置いたまま動かさなかったりで、毎回毎回暗に拒否を示す。

 「いらない、あなた個人を含めて」で一貫しているその姿勢は、王女どころか、女王の風格があった。さすがメリーベルの娘というべきか。


 皮肉には皮肉を、毒には毒を、即応で機知を利かして、いっそ清々しいほど美しく返してもくる。

「……なんだ、妙に大人しくないか」

「私は基本大人しいです。殿下のように裏表もありません」

「普段通りだったな。本当に大人しい人間はそうは言わない」

 人気のない庭で一人、微妙に寂しげにしているように見えたから、探していた本を口実につい声をかけてしまった。ら、抜かりなく人を刺してくる。

「せめて言動ぐらい可愛らしくすればいいものを……」

「ご賛同いただけると信じておりますが、相手を選んでの言動は、私たちのような立場の者の基本です」

 フェルドリック相手に見せる可愛げはない――せっかく気を使ったのに、そこまで言うか、実に徹底している、と怒るより何より感心した。

 他にフェルドリックが何を言われたか? 婉曲だったりぼそりとした呟きだったりするが、その意図を要約すれば、顔だけ、性悪、猫かぶり、腹黒い、胡散臭い――大抵の人間は自分の上っ面や地位に騙されるというのに、素晴らしい観察力と冷静さとしか言いようがない。彼女とフォースンの息がぴったりになるわけだ。


 ソフィーナがフェルドリック個人を厭うているのは、はっきり伝わってきたし、仕方のないことだとも思っている。だが、本当にそれだけだった。

 彼女はフェルドリック憎しで、悪意を行動に移すことも、自らの責務を放棄することなかったし、それどころか、そんなフェルドリック相手にすら、素で善良さを見せることがあった。実に奇妙な人だった。


 他者のいる場でフェルドリックが、丁寧に紳士的に“太子がその妃に対してとるべき振る舞い”をすれば、彼女は丁寧に淑女然として、“太子妃がその夫である太子に対してとるべき振る舞い”を完璧に返してくる。2人きりの時、あれほど毒の吐き合いをやっているとは、誰も思うまい。それほど腹を立てている相手を前に、よくあれだけ猫が被れる、と彼女の胆力を尊敬する。

「お疲れですか?」

「……」

「……なんですか?」

「いや、変わっているな、と」

「……心配に侮辱を返してくる方にそう言われるなら本望です」

 しかも何がおかしいかと言って、彼女は時にフェルドリックの体調を気遣ってきたりもする。馬鹿なのか、優しいのか……両方な気がする。


 多くの者、特に甘やかされた年頃の女性がそうであるように、ソフィーナはフェルドリックを含めた他人の気を惹こうと、これ見よがしに泣いてみたり、不機嫌にふるまったり、無視したり、怒ったりということを一切しない。

 そうされても仕方がないと思っているのに、フェルドリックに対し、恨みを吐くこともない。せいぜい睨むくらいだが、それすらも幼い顔でやられると、怖くもなんともない。むしろいつも笑ってしまう。嫌悪する人間にその程度で済ませていいのか、と。

 

 フェルドリックへと事あるごとに白い目を向けるくせに、政情や国政に関する話題を振ろうものなら、熱心に話し込んでくるし、こちらの話も目をキラキラさせて聞く。ハイドランドの内情に関する部分についてははぐらかすが、それ以外については率直そのもので、いつも呆気にとられる。


 だからだろう、これだけフェルドリックを嫌っているのに、意趣返しすることもなく、彼女は仕事も見事にこなしてくれた。

「図書館の蔵書の拡充ですか。素敵ですね。興味が偏らないように、多方面にわたって、色々な方に話を聞きましょう」

 仕事をもらって嬉しそうな顔をするのは、本気で理解できない。しかもフェルドリックが彼女に渡しているのは、基本的に後回しにしてもかまわない、なんならやらなくてもかまわないようなものばかりだ。ハイドランドではもっと利権に絡む仕事をしていたはずだから、退屈がっても不思議ではないのに。

「なにか?」

「つくづく変わっているなと」

「……そうでしょうね。表面だけ取り繕って常識人のふりをなさっている殿下から見れば、私など」

「可愛くはないが、皮肉が利いていて小気味がいい」

 当たっている、と自嘲を込めて笑えば、彼女の茶の眉が片方だけ器用に下がった。

(実は表情豊かなのか……完璧に表情をコントロールできるくせに、微妙に抜けているというか)

 その顔を見ながら、ぼんやりそんなことを思った。


「仕事中毒という病気があるんです。寝ても覚めても仕事が頭から離れず、他を顧みられなくなっていく病――今まさにそんな感じなので、そろそろお側を辞去させていただきた」

「大丈夫だ、フォースン、君は違うと僕が保証する」

「……笑顔で脅されているようにしか思えません。しかし、君“は”? どなたと比較なさってるんでしょうねえ」

「……」

「お気持ち、察しておりますとも! 楽しそうなお顔が見られるのは、仕事のお話の時だけ。さぞお寂しいことでしょう」

 にやにやと含みのある笑いを見せる自らの執務補佐官に、フェルドリックも微笑む。

「いっそ潔く中毒になったらどうだ、フォースン。きっと毎日が楽しくなる。金融組合の独占規制案のたたき台作成という仕事をくれてやろう」

「……その顔、夢に見そうなので、勘弁してください」

 涙声で「引き受けます、引き受けますから」と呟いた後、フォースンは首を傾げた。

「ところで、この件、そのソフィーナさまとご相談しても? ハイドランドでは、確か賢后陛下が金利の抑制をかけたはずです」

「かまわない。断られたら引け」

 フォースンが死んだような顔をしたこんな案件の相談にも、ソフィーナは楽しそうに応じたらしい。そして、その提案はやはりというべきか、ひどく有用だった。

 彼女こそ仕事中毒ではないのかと思う。そうでなければ、憎む相手であっても助けてしまう、救いがたいほどのお人よし――多分どちらも正解だ。

 しかし、メリーベルもセルシウスも罪作りなことをしたものだと思う。この年の王女の趣味が仕事ってどうなんだ、と。もっともそれを言うなら、自分のほうがよほどひどいのだが。


 最初こそ慌てるそぶりがあって面白かったものの、彼女の寝室を訪れても、すぐに欠片も動揺しなくなった。その間一月あっただろうか。

「今日はどちらになさいますか?」

 素でオテレットやメスケルを用意し、それ以外の用はないと言わんばかりだ。

 なんとなくムカついて、ベッドの上で寝転がってやろうと提案したら、顔を曇らせたので、溜飲がようやく下がった。と思ったら、「お行儀が悪くありませんか」ときた。欠片も意識されていない。

 好意の反対は無関心だというが、まさに彼女のことだった。なるほど、嫌いすら通り越したか、と笑ってしまった。


(まあ、確かに逃げられない状態で、相手を嫌い続けるより、関心を持たないようにして、表面上友好的に過ごすほうがいいが……)

 それはフェルドリック自身考えていたことでもあった。フェルドリックは結婚相手にそう望んで、それができる相手として彼女を選んだ。

 見込み通り聡明で理知的、事前の見込みと違ってちょっと変わっているところがあったが、それも退屈しのぎにはちょうどいい。

 

 距離を取り、節度と敬意を持って、義務を履行するために最適なパートナーとして過ごす――そのために負担にならない範囲でできることはするつもりだったし、フェルドリックは実際そうした。


 本当にそれだけのことだと、その時は信じていた。

 気づきもしなかったのだ、その時既に彼女を目で追うようになっていたというのに。

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