エピローグ
子供の頃、母の言いつけで親書を携え、とある寺院を訪ねたソフィーナはその道中で結婚式を見た。
田舎育ちらしい、純朴な印象の新婦と新郎の顔立ちは、強く記憶に残るものではなかったように思う。
高く澄んだ青空の下、丁寧に準備されたとわかる衣装を身に付け、色とりどりの花でできた花冠を頭に載せて着飾った2人は、家族と友人、村人、はては行きがかりの旅人たちの祝福を受けながら、古めかしいけれどよく手入れされた村の教会の前に、寄り添って立っていた。
幼いソフィーナの脳裏に焼き付いたのは、祝福の花びらが舞う中、新婦と新郎がお互いの顔を見合わせて微笑み合った瞬間。
元の美醜も、衣装や花の美しさも、まるで問題ではなかった。
2人の優しいその顔は、ひたすら幸せそうで、美しく見えて、彼らを全く知らないソフィーナでさえ、なぜか嬉しく、温かい気持ちになった。
彼らの微笑を目にする人々皆が喜んでいる――
そして、ソフィーナはあんな風になりたいと心の底から憧れた。あんな風に信頼し合って一緒に、穏やかに生きていける相手を見つけたい。
* * *
「これ以上、仕事を押し付けないでください」
「なんで? 初夜と引き換えにするくらい、仕事好きだろ?」
カザック王国太子の執務室の重い扉の奥。
窓辺で冬の庭園を眺めていたフェルドリックは、優雅に首を傾げながら、突如現れたソフィーナへと向き直った。
「あ、あの時は、それぐらいあなたが嫌だったというだけです」
「その頃から好きだったと言ったくせに」
「っ、そういうところが嫌なんです! とにかく! この仕事はお返しします!」
微妙に恥ずかしい記憶を持ち出されたソフィーナは、赤くなるのを防ぐべく、フェルドリックに書類を突きつける。
「信頼しているソフィーナにだからこそ、任せられるんだ」
唇を引き結び、眉をひそめて睨むソフィーナに、完璧な美貌の彼は、優しく甘く微笑みかけてきた。
「……」
思わず見とれてしまえば、次いで顔に血がのぼってきた。
「……くくっ」
「っ」
(うぅ、またやられたわ、あの笑顔が黒さそのものだって知っているのに、また……ああ、もう、これで何度目!)
結局真っ赤になってしまったソフィーナは、そう歯噛みする。
仕方がないとは思っているのだ。先に惚れたほうが弱いというのは、多分本当で、アレクサンダーもヘンリックも皆そうだ。
そう思うことで、ソフィーナは日々自分を慰めているのだが、性格的にも母の教え的にも、やられてばかりではいられない――
「……では、昨晩仰っていた湖西地方の査察、お1人でお願いいたします」
「はあ? ちょっと待て、ソフィーナ。あれは祖父への顔見せを兼ねて、しばらく一緒に離宮に滞在しようという話だっただろう?」
「またの機会ということで。貴方の信頼に応えたいのです。建国王さまにお会いできないのは残念ですが……」
弱弱しく微笑んで見せるソフィーナの顔も、含みでいっぱいだ。
敵のフェルドリックも、それに気付いて一瞬で動揺を消した。
「負けないようになってきたね」
「おかげさまで」
そうして、お互い微笑み合う――これはソフィーナが憧れた夫婦の微笑み合いでは、間違ってもない。
「失礼しま……いえ、本当に失礼しますっ」
(フォースンの顔、本気で引きつっていたわ……)
入って来たフォースンが、直後にすごい音を立てて戸を閉め、脱兎のごとく逃げて行ったのは、その証拠と言っていいだろう。
(理想とは大分違うけれど、まあ、いいか……)
ソフィーナはため息を吐くと、苦笑へと笑いの種類を変える。
「?」
フェルドリックが訝しげな顔を見せたのは、多分それに気づいたからだ。
性格も口もどうしようもなく捻くれているこの人は、それぐらいソフィーナのことを注意深く見てくれている。
(憧れと違っていたって、私、すごく幸せだし)
フェルドリックの瞳を見つめる。
冬の雲間から一瞬差し込んだ陽光を受け、彼の目は木漏れ日のように見えた。
「じゃあ、仕事も査察もこなします。けど、代わりに1つ、質問に答えてくださいますか?」
「? どうぞ」
「私と国、どちらか選べと言われたら、どちらを選びますか?」
ハイドランドの更待月の下、お互いの想いを確認した晩からずっと抱いていた疑問を口にすれば、フェルドリックの顔から表情が抜けた。
「……国」
「私もです」
「知っている。そういう君だから選んだ」
「知っています」
自分たちは王族だ。肩にたくさんの人の命と人生がかかってる。
想いが通じた今も、自分の幸せのために、彼らを捨てられる気は、やはりソフィーナにはしない。そして、それはフェルドリックも同じなのだろう。
「……」
自分たちがそんな立場であることが少し寂しくて、でも彼がそんな人であることが嬉しくて、ソフィーナは複雑な笑みをこぼす。
「だが、そもそも前提がおかしい」
「?」
フェルドリックは、まっすぐソフィーナを見つめた。
「君か国か、どちらか選べなどと迫る人間の存在を、僕が許すわけがない」
「……」
「同様に、僕か国かと君に選択を迫らせるような状況も作らせない――絶対に」
真顔で言い切られて胸が震えた。言葉が出てこない。
冬の入り口だというのに、冷え込みは厳しい。
窓の外では、空を覆う雲から、地表の冷気を確かめるかのように降りてきた微量の雪花が、風と弱弱しい陽光と戯れ始めた。
(この人は多分本当にそうしてくれるだろう、この夏、そうしてくれたように――)
ソフィーナは泣き笑いをこぼす。
「愛しています」
「………………引っかからない」
ソフィーナがようやく探し当てた言葉に、フェルドリックは目を丸くした後、不機嫌そうに顔を背けた。
それに小さく笑いをこぼす。ソフィーナから見える、彼の耳朶が赤いことに気づけるようになったから。
「では、失礼いたし、っ」
「茶ぐらい付き合え」
踵を返したソフィーナの手を、フェルドリックが後ろから捉えて引く。
「い、そがしいので。その、査察に間に合わせないと」
「僕が選んだ妻は、その程度の時間が取れないほど無能じゃない」
(それをなんであなたが決めるのよ。本当にどこまでも傲慢)
後ろから抱きしめられる形になったソフィーナは、身をよじると、背後のフェルドリックを睨み上げる。だが、真っ赤な顔では、怖くもなんともなかったのだろう。
フェルドリックが小さく吐息を漏らして笑った。
「……」
耳朶を打つ、無防備なその音に胸が詰まる。限られた視界に入る、緑と金の瞳はどこまでも優しい。
「お茶にするなら、誰か呼びましょうか」
「もう少し後でいい」
(本当にわがまま)
後ろから自分を包み込む腕に自らの手を添えて、ソフィーナも笑い声をこぼす。
「笑うな」
「殿下だって笑っていらっしゃるでしょうに」
「……それ、いい加減、やめろ」
「殿下がソフィと呼んでくださるなら考えます」
「…………ソフィ」
「なんですか、フェルドリック」
フェルドリックと触れ合う背中から、温かい熱と共に、小さな振動が伝わってきた。
「また笑った……嬉しい?」
「それは君だけだ」
何とか顔を見ようともがけば、阻むためにか、腕の拘束が強まり、右の
ソフィーナが憧れたのは、名も知れない、小さな教会の前で微笑み合っていたあの夫婦。
残念なことに、自分たちは、彼らのように正面から笑い合う関係には、やはりなれないようだ。
でも――
「やっぱり笑っているじゃないですか」
「気のせいだと言っている」
ソフィーナの視界の端に映る彼の唇は、それでもちゃんと弧を描いている。
(了)
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