第51話 叱責と記憶
「――それ、本気で仰ってます?」
いつも優しく、穏やかなアンナの声が低くなった。
カザック王国の都カザレナに
部屋に据えられたソファに座るソフィーナを前に、アンナがボロボロの手を手入れしてくれている。
「ごめんなさい、アンナ。色んな負担をかけた挙句、こんな手間まで……」
「謝る必要などまったく。すべてソフィーナさまが私の故郷を救ってくださった証ですもの」
日に晒され、馬の手綱を握り、野営の焚火から出た火の粉に火傷し、山を登るために岩をつかみ……そんなハイドランドへの旅ですっかり荒れてしまった手と爪をオイルでマッサージしながら、アンナはやわらかく微笑んでくれた。
窓からはささやかな秋風が迷い込んできて、繰り返し白いレースのカーテンを揺らす。
そこには金木犀の香りと、秋の実りを喜ぶ小鳥たちの声が混ざっていて、平和そのもの――だったのだ、ついさっきまで。
「だって、フェルドリック殿下は、明らかにソフィーナさまのこと、お好きだったでしょう? ……ひょっとして、まさかとは思いますけれど、まったくお気づきになっていらっしゃらなかった……?」
信じられない、という顔で、アンナは首を横に振った。その間もジト目がソフィーナから離れず、余計居たたまれなくなる。
「そりゃあ、最初の印象と違って、少し難しいところがおあり……どころかひねくれまくって、どうしようもない方ではあらせられますけど、それにしたって……」
(なんか、今、すごい言い様じゃなかった……?)
と思ったが、疲れたようにため息をつかれて、ソフィーナは口を噤む。
「お部屋にいらした時だって、ソフィーナさまをずっとご覧になっていたではないですか。私、いつも顔が赤くなるのを止めるのに、必死だったんですよ? あんな目線で見られてて気づかないとか、あり得ない」
「あ、あり得ないとまで言う?」
「チューリップは? ソフィーナさまが寝室に活けていらっしゃるのを見て、扉を開けるなり、ご機嫌になっていらしたじゃないですか」
「?」
「温室でお会いして、最初にいただいた日です!」
「……あ」
フェルドリックの機嫌に振り回されて、嘆いたあの晩を思い出して、ソフィーナは思わず手を口にやる。
アンナは眉をぐっと寄せて、額に手をやると、
「フィルさまがわざわざ取り寄せた品種だと仰っていたでしょう? コッドさんが毎日届けてくださっていたのも、一体なんだと思ってらしたんですか……」
と呻くように呟いた。
「だ、だって、あんな憎まれ口と一緒に渡されたら、気づけないわよ」
「あの口が余計というのは、恐れながら、全面的にまるっと全力で同意いたしますが、ソフィーナさまだって憎まれ口なら、負けていなかったでしょう? 胡散臭いだの、顔だけだの、そのうち刺されるだの」
「そ、そんなこと言って……」
「らしたでしょう」
「…………はい」
整った顔に怖い目で睨まれて、ソフィーナは身を縮めた。
「あーと、アンナさん、それぐらいにして差し上げたらどうかな」
「だって、エドワードさん、私、ずっと申し上げてきたんです、お勉強や国政以外のことも気になさったほうがいいって! 無視なさった挙句、案の定!!」
今日フィルとヘンリックは休みで、代わりに、ソフィーナの不在中、シャダに狙われていたアンナを護ってくれた騎士が、護衛についていてくれる。
その彼がせっかく出してくれた助け船も、怒れる彼女にあっさり沈められた。
「まあまあ。殿下のほうこそ大概だったから、妃殿下ばかり責めるのは、お気の毒だよ」
「?」
首を傾げたソフィーナに、エドワードは苦笑をこぼした。
「妃殿下の護衛がなかなか決まらなかったのは、殿下が素直に言い出せなかったのを、ポトマック副団長が面白がったせいです。フィルとヘンリック以外は、全部却下、アレックスとティムに至っては論外って言うくせに、いつまでも2人を指名しなかったらしくて」
フィルたちは王都一女性に人気がある安全な騎士で、アレックスたちは王都一女性に人気がある危険な騎士だと、エドワードは補足した。
「確かに、アレクサンダーさまは身の危険を感じるような色気がおありになりますものね。相方のティム・エルゼンさまもすさまじい人気ですし」
「!? アンナさんは、絶対に近寄らないでよ!?」
焦ったエドワードにアンナは目を丸くすると、「ええ、私の好きな方は、ここにいらっしゃいますから」とほほ笑んだ。
エドワードも相好を崩して微笑み返すのを見、ソフィーナはそっとテーブルの上の茶に手を伸ばす。
(居たたまれないってこういうことかしら……?)
「……」
カップに口をつけながら、お互い照れたように見つめ合っている2人を見て、ソフィーナはため息をついた。
“北方美人”とカザック王宮で評判になっている彼女は、護衛してくれたエドワードと恋仲になったそうだ。
騎士らしく体格が良く、見栄えのいい彼は、優しく、朗らかな性格らしく、「不安で押しつぶされそうになるたびに、いっぱい笑わせてくださったんです。ちょっと抜けているところも母性をくすぐられちゃってかわいくて」とアンナがのろけていた。
フィルやヘンリックと同期で、すごく仲がいいというのも、ポイントらしい。
(騎士の人気ってすごいらしいのに、アンナってば、あっさり……。で、私はその彼女にダメ出しをされた、と……甘んじて受け入れるしかないということかしら。けど、いつまでも見つめ合ってないで、いい加減、私がいることを思い出してちょうだい……)
ソフィーナは情けなく眉尻を下げ、「エドワード、アンナ……」と声をかけた。
はっとして、顔をソフィーナに向け直したエドワードが咳払いした。
「それで、ポトマック副団長は、フィルに髪まで切らせて準備していたくせに、と思ったら、どこまで我慢なさるのか、試したくなったんだそうです。結局、シャダの間者が出るようになった時分に、殿下が白旗をあげたみたいですが」
呆けるソフィーナを前に、エドワードはくすっと笑った。
「妃殿下がお城を出た後、代役をやるやらないで、アンナさんに食って掛かられた殿下も面白かったです」
「食って掛かった……そういえば、タンタールで出会った第1小隊員たちもそんなことを言っていたけれど」
「妃殿下の乳妹を傷つけるわけにはいかないって、アンナさんを止めた殿下に、「私が一番うまくやれる、私が一番ソフィーナさまを想っている、愛されてないって誤解させたままにしておく殿下の言うことなんか、絶対に聞きません!」って、泣きながら」
「あれは、その、私も必死だったので……」
頬を染めるアンナに、エドワードは優しい目を向ける。
「で、殿下は「申し訳ないが、一番想っているのはもう君じゃない」って――じゃあ、もっとうまくやれって、陛下やフォルデリーク公爵、ザルアナック伯爵に突っ込まれていらしたけど」
「その時は私も反発しましたけど、その後殿下はハイドランドへ軍を動かすために、不眠不休で……痩せていらしたでしょう」
「……ええ」
どんな顔をしていいかわからなくなって、ソフィーナは「アンナもありがとう」ともごもごと言いながら、顔を伏せる。
「そうだ、近々ナシュアナさまにお会いになっては? 異母妹でありながらフェルドリック殿下ととても親しいそうで、ソフィーナさまにお会いしたがっておいでです」
「そうなの? ああ、そうか、アンナは私の代わりに、ザルアナック家に行ったりしていたのだったわね」
「元々とても不遇でいらしたようで、そのせいか本当にお優しいのです。城の片隅でずっと隠れて暮らしていたのに、剣技大会で優勝したフィルさまに、表彰式で忠誠の儀を捧げられて、フェルドリックさまと話すようになって、そこからすべてが変わっていったのですって」
「へえ、あんなに仲良いのに、それまでは違ったんだ。そういや、ナシュアナさまの名を聞くこと、あの大会までほとんどなかったな」
「みたいです。「お兄さまは照れ屋なの。フィルたちや私のために何かしてくださる時も全部なぜかこっそりで……でもお妃さまに対してもそうだなんて」と心配なさっていました。ソフィーナさまがカザックに嫁がれる前後のフェルドリックさまのご様子とか、色々聞かせてくださいますよ」
アンナが「面白いと思いますよ」と意味深に笑いながら、手の手入れに使っていたオイルや爪磨きを片付け始めたのを機に、エドワードは部屋の外へと出ていく。
そろそろ今晩の夜会の準備に取り掛からなくてはならない頃合いだった。
* * *
(何しに来たのかしら、忙しいくせに……)
「フォースンが困っているのでは?」
「それが彼の仕事だ」
「……違うと思います」
エドワードと入れ替わるように訪ねてきて、勝手にソファでくつろぐフェルドリックに、アンナと今日のドレスを選んでいるソフィーナは白い眼を向けた。
(まあ、ここにいるんだもの、一応聞いてみるべきかも)
「今日の夜会、どちらのドレスがいいと思われます?」
「どっちでもいい。どうせ誰も君に目なんて止めない」
(人が今夜の準備を考えている時に、予告もなく来ておいて……)
「……」
睨んだソフィーナにフェルドリックは肩を竦めると、悪びれた様子もなく、アンナが淹れたお茶に手を付けた。
「面倒くさいな、いちいちそんな顔しないでくれ。じゃあ、左。右だと明らかにドレス負けする」
そして、言葉通り面倒そうに言って、彼はソフィーナが読みかけでおいていた本を勝手に開いた。
(この人が私を一番想ってる? ……同じ人の話とはとても思えないのだけど)
ついさっきアンナやエドワードから聞かされた話と、目の前のこの人がどうしても重ならない。
「……ソフィーナさま」
アンナが肩を落とし、ため息をつきながら、フェルドリックが選ばなかったドレスを指さし、『セルシウスさま』と口パクする。
(あ……)
フェルドリックが選んだのは、彼が贈ってくれたもの。もう一方は兄が贈ってくれたものだった。
「……」
気付いてしまうと怒る気にもなれなくて、ソフィーナは口をへし曲げた。
(ほんと、この口、どうにかならないのかしら……?)
自分の贈ったドレスを選ばなかったから、拗ねているのはわかったが、彼の言葉で傷つくのも確かだ。
(だからって、泣いて引っ込んで、ただ気付いてくれるのを待っていても、仕方がないし……)
「その言い方、傷つきます」
「へえ。でも事実だし」
ちゃんと思っていること、感じたことを伝えよう、とムカつきを口にしたというのに、そこはフェルドリックだ、反省する様子は一切ない。
やっぱり傷つくけれど、ここで泣いて引っ込み、謝ってくれるのを期待しても、無駄なだけということももうわかった。
(じゃあ、次――謝らせてみる……)
「となると、私のことを好きというのは、やっぱり事実ではない?」
「……」
「何も仰らないんですね……」
静かに息を止めたフェルドリックに、悲しそうに、でも泣く訳ではなく諦めたかのように、ソフィーナは計算して顔を作る。
「……僕に君の兄さんやアレックスみたいなの、期待したって無理だからね」
「わかっています。そもそもの想いに差があるのでしょう。愛されていますから、彼女は……」
フェルドリックは眉根を寄せた。
「…………わる、かった」
ため息を吐き出した後、しぶしぶとはいえ、彼が謝ってきたことで、ソフィーナは演技の続行に失敗する。思わず肩を震わせれば、フェルドリックは片頬をひきつらせた。
「性格が悪くなってきたようだな」
「朱に交わってしまった結果かしら」
声に笑いが混ざってしまう。
「君から性格の良さを取ったら、何が残るというのかな」
「……お顔の造作だけが強みの殿下に、ご心配いただく必要はございません」
が、それもすぐに消えてしまった。
「――それぐらいになさってください」
睨み合っていたソフィーナとフェルドリックは、涼やかな声に同時に固まる。
「そうやってやり合った後、お2人ともいつもうじうじ悩まれるでしょう。アレクサンダーさまやフィルさま、ヘンリックさまから色々お話、伺っております。いい加減学習なさってください」
声の主であるアンナはドレスを手に、脅しているように見えなくもない微笑みを残して退出していった。
「……君の侍女、強くなったね」
「それぐらいでないと、この国ではやっていけないと彼女も気づいたのかと」
閉まるドアを見守った後、情けない声でフェルドリックがぼやく。応じたソフィーナの声も大概だ。
「馴染んできたってことでいいのか……」
「そうですね。アンナも、それから私も」
「……なるほど」
金と緑の目を見張った後、フェルドリックは七年前そっくりの顔で笑う。そして、長い指の目立つ手をソフィーナの頭に載せると、ぐしゃぐしゃっとそこを撫でた。
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