第50話 上書き

 踊り終わった兄が引きつった顔のフィルの手を引いて、ソフィーナたちの元へとやって来る。

 待ち構えていたのだろう。整いすぎて怖い笑みを浮かべて、アレクサンダーもこちらへとつかつかと近寄ってきた。

(やめて、来ないで――)

 ソフィーナは切実にそう思っているのに隣のフェルドリックは楽しそうで、色々な意味で泣きたくなる。


「……じゃ、よろしく」

(裏切るの……!?)

 やはりヘンリックは要領がいい。ささっと逃げた。

 代わりの助けを求めて周囲を見れば、事情を察しているのだろうカザックの騎士達も、潮が引くかのようにざさっと距離をとった。何も知らないハイドランドの人間だけが興味津々だ。

(王族は孤独なものと仰っていたお母さまはさすがだわ……)

などとソフィーナの頭に浮かんできたのもまた間違いなく現実逃避だろう。


「殿下、彼女のおかげで私は命を繋ぐことが出来ました。お礼申し上げます」

「大切な義理の兄上のためですから、礼など」

 今楽しんでいるしね――フェルドリックは間違いなく腹の中でそんな台詞を付け足した。


「ハイドランド国王陛下、ご挨拶が遅れ、申し訳ございません」

「やあ、フォルデリーク殿」

 一足遅れてやってきたアレクサンダーの美しくも輝かしいその笑みが、ソフィーナにはひどく恐ろしい。

(空気が重い、寒い……)

 いくら北国とは言え、今はまだ秋のはずよ、アレクサンダー、とはとても口に出せない雰囲気だ。

 目だけ動かして間に立ったフィルを窺えば、真っ青な顔で床を見つめつつ、空いたほうの手で腰を探っている。

 今、彼女が帯剣していないことをソフィーナは母に本気で感謝した。


 だが、アレクサンダーは大人だった。

 追い詰められた猫の子のような様相のフィルをチラッと見下ろした後、苦笑と共に息を吐き出すと、腕を彼女へと差し出した。

「陛下、我が妻に様々ご配慮いただきましたこと、夫として心よりお礼申し上げます」

「……」

 硬直を解いたフィルが上目遣いにアレクサンダーを見た。探るように彼をじぃっと見つめた後、おずおずとその腕をとると、花が開くように微笑む。

 その瞬間アレクサンダーは優しく笑み崩れ、2人を取り巻く空気は一変した。


(すさまじいギャップ……。わかる、わかるわ、そんな顔を見せられたら、怒りも嫉妬も絶対どうでも良くなる……)

 アレクサンダーの気持ちがわかってしまって、ソフィーナは思わずうなずく。それから横目でフェルドリックを窺った。

「……」

(なんて人の悪い顔……)

 予想通り彼の注目はフィルたちにはなく、呆然としている兄を見て、それはそれは嬉しそうにしている。

(この3人が三角関係というのは、本当にただの噂なのね)

などと考えているのは、彼らの関係を疑っているからではない。

(お兄さま、兄不孝な私を許して……)

 兄にどんな顔を向けたらいいかわからないから。つまりは逃避だ。


「……確かカザックでは、高位貴族の縁者は許可なく国外に出れば処罰されるとか?」

「え? ……あ」

 だが、ソフィーナが敬慕する兄は瞬時に持ち直した。対照的にうろたえたフィルに、彼はにこりと畳みかける。

「どうでしょう、フィル。妹のためにそんなことになったわけですし、こちらにこのままおられては?」

「ご心配なく。それは血縁者のみに対する規定ですので。“婚姻”によって“私の妻”になった“私のフィリシア”にはあてはまりません」

 こっちもやはりすごかった。一瞬顔を引き攣らせたアレクサンダーだったが、瞬時にそう返すと、「大丈夫だから心配しなくていい、フィル」とフィルを抱き寄せて頬にキスを落とす。


「……」

 母の教えの賜物か、微笑んだ兄の表情に変化は見られないけれど、今回は兄の形勢が圧倒的に悪くて0対10。なにせほっとしながら、アレクサンダーに向かって微笑んでいるフィル本人が、明らかに兄の気持ちに気付いていないのだから。

(フィル、仲直りできて嬉しいのね、そう顔に書いてあるわ……)

 それを受けているアレクサンダーも、フィルを見る時は「誰この人?」というくらい柔らかい表情だ。さっきまで喧嘩していたはずなのに、と羨ましくなる。


 ずっと喧嘩しているようなもので、ついさっきようやく仲直りできたところなのに、と横のフェルドリックを見るが、彼の興味は明らかに今ソフィーナにない。兄だ。兄しか見えていない。

(やっぱり早まった……というより、私は自分の趣味を疑うべきかもしれない)

 疑念は深まる。


「フィル、そう言えば、約束のお茶の店、明日にでもご一緒しませんか?」

「――約束」

「ええ、戦況が芳しくなくなった時に、フィルが私を勇気付けるためにそんな申し出を」

 アレクサンダーの空気がまた凍った。9対1くらいに巻き返した、とソフィーナは唇の片側をひくつかせる。

「お、お誘い、ああありがとうございます」

と上擦った声で答えたフィルに、兄は柔らかく笑いかけた。それでアレクサンダーがいっそう冷える。

 8対2ぐらいになった気がするものの、兄をすごいと思うより何より胃が痛くなってきた。


「で、ですが、それなら既に妃殿下に教えていただきました。お、お土産を2人で選びましたから、後で妃殿下がお持ちしてくださると思います」

「美しい“兄弟愛の賜物以外の何物でもありません”ね、陛下。店には明日“私たち夫婦”で、“デート”がてら訪れることにします」

「そんな手間を掛けなくても、私の“私室”にいらしてくだされば、歓迎しますよ、フィル。頂いたお土産で“一緒に”お茶をすることにしましょう。美味しいケーキもお付けします。ああ、フォルデリーク殿もおいでになりますか? “あれほどの献身”を見せてくれたのです。彼女がいかに私を助けてくれたか、つぶさにお話しいたしましょう」

 顔色をまた蒼褪めさせているフィルにも止めを刺しにかかってきたアレクサンダーにも、兄はめげない。


(……私はもう一生兄を尊敬するわ。けど、いい加減にして……)

 きっと涙目になっているフィルもそう思っている。


「これ、止められませんか?」

「なぜこんな面白いことを止める必要が? 見なよ、いつも取り澄ましてるあの2人の顔が引きつっている。あとフィル、やっぱりあいつはああいう情けない顔が最高に似合う」

(……お母さま、認めます。私の趣味、やっぱり最悪みたいです)

 フェルドリックの袖を引き、こっそりお願いすれば、美しい笑顔と共にそんな答えが返ってきて、ソフィーナは堪えきれず呻き声を漏らした。


「お兄さま、アレクサンダーの恨みをかわないといいけれど……」

「人の心配をしている場合かい、ソフィーナ。アレックスの恨み、君もかってるかもしれないよ」

「え゛」

「君がしたことを考えてみよう――アレックスからフィルを何か月も取り上げて、挙句やっと再会したと思ったら、その場からまた連れ出した」

「あ」

「彼、あの後、荒れて大変だったんだ」

 荒れるフェルドリックとアレクサンダーがお互い八つ当たって大喧嘩になり、ポトマック副騎士団長に2人そろって怒られたことはもちろん口にせず、フェルドリックは楽しそうに微笑んでみせる。

「今日もフィルとべったりだったんだって? 喧嘩の最中に割り込まれて、その後も君にフィルを取られたって。まあ、がんばりなよ」

「た、助けてくださったりは……」

「なぜそんなことを? 知恵の回る者同士でどうやり合うのか、君のお手並みを拝見するよ。実に興味深い」

「きょうみ……」

 にっこり笑うフェルドリックに、ソフィーナは唇を引き結ぶ。

(分かった、さっきの、夢でも見たんだわ、絶対そう。だって圧倒的に私だけが弱いもの、0対10。この人が私のことを想ってくれているなんて、気のせいに決まっている。大体そんなこと、一言だって言ってもらってないし)


「……? ソフィーナ? どうした?」

 押し黙ったソフィーナにフェルドリックは思いの他早く気付いた。兄たちから目を離し、怪訝そうにソフィーナの顔を覗き込んできた。

「……帰ります」

「は? いや、ちょっと」

 さっきまでの顔が嘘のように慌て出したのを見ないふりして、ソフィーナは踵を返し、歩き出した。

(これで……2対8くらい?)


「やはり勘違いですね……。そもそもがおかしかったんです。私とフェルドリック殿下なんて、やっぱりありえない」

「何、今更」

 悲しそうにつぶやいてから、後ろから付いてくるフェルドリックの顔をちらりと確認すれば、彼はその秀麗な顔を引きつらせている。

(4対6? もう一押し)


「やはり相応の幸せを探すのに、この国に帰ったほうがよさそ」

「ソフィっ」

(6対4――)


「殿下にはきっともっとふさわしい方がいらっしゃいま」

「っ、ソフィがいいと言っているんだ……っ」

(8対2――この辺?)


「けれど、策士同士、気が合う気もいたします」

 ソフィーナがくるりと振り向くと、一瞬唖然としたフェルドリックは真っ赤になりながら睨んできた。

「……騙したな」

「まさかあんなのを真に受けるとは思いませんでした。“慈悲と恵みの神の愛し子”ともあろう方ですから」


『なんにせよ、僕が君を評価していることには、代わりがない訳だし、光栄に思って欲しいな。けど……まさかあんな口上を真に受けるとは思わなかった、“エーデルの祝福を受けし賢后”の娘ともあろう人が』


「……むかつく」

 半年前ここで彼に言われた台詞を返して、ソフィーナは小さく舌を出す。

(これで10対0――)


(それでもやっぱり好きだわ……)

 頬を染めたまま睨んでくる顔を見つめていると、そう実感してしまい、ソフィーナは顔全体を綻ばせて微笑んだ。

「……」

 フェルドリックがその稀有な目を見張る。


 じっとソフィーナを見ていたフェルドリックは不意に眉根を寄せ、そっぽを向いた。

「なんにせよ、僕が君を……好き、なことには、代わりがない訳だし、光栄に思って欲しいね」

「っ」

 そして、やはり半年前、彼自身が言った台詞をそっくりそのまま、ただし、核心の言葉一つを変えて、投げ返してきた。

「……」

 拗ねたような、怒ったような横顔は、でも真っ赤で、ソフィーナも顔を赤らめる。


 緑と金の瞳が横目にそのソフィーナをとらえた。

「っ」

「――言っただろう、逃がさないって」

 直後に抱き寄せられ、硬直する間もなく、耳にささやき声が降る。


「やるなあ、殿下」

「ね、相思相愛でいらっしゃると申し上げたでしょう?」

 会場から向けられる言葉と視線に耳まで染まっていく。


(自分だって赤くなっているくせに、こういうことが出来るの、絶対反則……)

「……」

 5対5に戻された、本当に手強い――そう思いながら、ソフィーナは周囲の視線から隠れるようにフェルドリックの胸に顔を押し付けた。


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