第49話 餌とせめぎ合い

 会場に戻ると、舞踏用の音楽が流れていた。軍人が多いせいか、数は多くないものの、そこかしこに踊っている人がいる。

 そちらに注目してくれればいいのに、一歩足を進めるごとに、周囲から視線が突き刺さるように感じて、ソフィーナは視線を揺らす。

 特に変わったことは何もないはずなのに、とさりげなく全身を確認して、自らの左手に目を止めた。

 ――握られている。握り返している。


(こ、これのせい? ええと、これまでは……腕! エスコートの基本! あ、あら? でも腕のほうが親密じゃない? そう、そうよ、実体がなくても夫婦なのだし、今更手ごとき……ごとき? 作法でもなんでもなく、ただ手を繋いでいたら、よ、余計変!)

「…………離したいのか」

「え? あ、さ、作法です。ので、こういう場では、腕、かなと」

「別にどうでもいいだろ」

 手指から力を抜き、さりげなく手を引き戻そうとすれば、むすっとしたフェルドリックに、改めて握り直された。

「そ、そうですか……」

 何とかそう返したものの、顔に血がのぼってきた。

(見てる、絶対に見てる……)

 フィルとヘンリック、それからアレクサンダーとシェイアスたちが、こっちを見て笑っている気配がする。

 知らん顔しているだけで、フェルドリックの耳も赤いと気付いてしまったら、指先まで赤く染めあがった。


「フェルドリック殿下、招いておきながら、遅れてしまって、申し訳ない」

「ご多忙は存じておりますので、どうかお気遣いなどなさいませんよう」

 到着を知らせる声が響き渡り、間がいいのか悪いのか、兄が会場にやってきた。専用の扉から姿を現した兄が真っ先に向かってきたのは、当然と言えば当然、ソフィーナと共にいるフェルドリックのところだ。

「ソフィも遅れてごめんね。……会は楽しめているかい?」

「え、ええ」

 目を眇めて広間の対方にいる姉を見た後、そう声をかけてきた兄への返事は、妙に上擦ってしまった。


「さっきから動揺しすぎだ」

「し、してないです」

「ふうん、そんな顔してよく言えるね」

「で、殿下だって顔が赤いじゃないですか」

「……見間違いだろ」

 想いが通じても、この性格の悪さは変わらないらしい。ひょっとして、早まったのかも、と顔をひきつらせたソフィーナに、兄は目を丸くしてから苦笑した。


「残念です。可愛い妹が苛められて戻ってくるかと期待したのに」

「随分と外聞の悪い言葉が聞こえた気がいたします」

「貴方の意図と本性ぐらい、さすがに察しておりましたので」

「何のことでしょう?」

「妹が悩んでいたことに気付かないとでも?」

 ニコニコと微笑み合う2人だったが、フェルドリックの分が悪いらしい。笑顔の大部分を作る頬が、わずかに痙攣した。

(すごいわ、立場的にはハイドランドのほうが圧倒的に弱いのに……)

 形勢は7対3で兄に分があるとみなし、ソフィーナは彼を尊敬し直す。


「ソフィーナ、ほら」

「あ、ありがとうございます」

 会場のそこかしこにいる給仕を目で呼び、フェルドリックが飲み物を受け取った。グラスを渡してくれた拍子に、少し指が触れて、また赤面する。

「……っ、普通に出来ない? こっちまで調子が狂う」

「そ、そのうちに慣れる、はず、です……多分」

「おや、結婚して半年以上経つのに、まだまだ初々しいね」

 小声での言い合いのはずだったのに、兄は抜かりなく耳にしたらしい。にやっと笑い、含みのある言葉を投げてきた。

「え、あ、そ、その」

「まだ半年と仰っていただきたい」

 焦るソフィーナと違って、フェルドリックはさらっと返したが、彼の顔も微妙に赤い気がする。それに気づいたのだろう、兄がますます笑いを深め、8対2ぐらいの力関係になった。


「なるほど、確かにまだ新婚と言って差し支えない期間ですね――聞くところによれば、随分と妹を“可愛がって”いただいたようで、兄としては耳目をしょくしておりました」

「……」

 信じられないことに、フェルドリックが言葉に窮した。

 多分、殊更に強調された“可愛がる”という言葉を、額面通りに受け取るかどうかで悩んでいるのだろう。耳目を属すとは注視するという意味で、良くも悪くも解釈できるが、目と耳をそばだてる、つまり情報を集めていたという意図があるなら、兄はフェルドリックを暗に責めている。


「お、お兄さま、その、色々、していただきました。驚くぐらい自由にさせていただいていますし、贈り物も」

「自由と放置の区別、贈り物への真心の付随、大事なのはその辺だと私は思うのだが、ソフィーナはどう思う?」

(ど、どこまで何をご存じなのかしら……?)

 思わずフェルドリックをかばってみたものの、笑顔のままの兄にいつになく強い調子でたずね返され、ソフィーナも顔を引きつらせた。


「ええと……殿下からいただいたものは、私のために選んでくださったとわかるものばかりで、すべて気に入っています。その、ちゃんとお伝えしてなかったので、殿下にも改めてお礼を」

 もごもごと兄に返しながら、ちらりとフェルドリックに目をやれば、目を丸くしていて、ますます居心地が悪くなった。


「自由にさせていただいているのも、確かです。殿下は、私の望みを叶えるため、最大限のことをしてくださいました。ここに至るまでのことをご存じのお兄さまには、ご理解いただけると信じています」

 白い結婚でいたいと願ったこと、仕事をさせてほしいと頼んだこと、ソフィーナの願いを無茶してでも叶えてくれるだろう、フィルとヘンリックをつけてくれたこと、強引な方法を取ってでも、兄とハイドランドを救ってくれたこと、ソフィーナがカザックに居続けられるようにしてくれたこと――色々あって、傷つきもしたが、そこは紛れもない事実だ。

「……」

 万感の思いを込めて、フェルドリックを見つめれば、彼は唇を引き結び、ソフィーナから顔を殊更に背けた。その端が戦慄いたのが見える。


『嫌いな相手に嫁がされて』

(ああ、そうか……フェルドリックだけじゃない、私もだ。本当に、まったく伝わってなかった、伝えられていなかった……)

 そう実感して、ソフィーナは眉根を下げると、隣り合うフェルドリックの手を取り、ぎゅっと握る。

「……」

 顔も目もそっぽを向いたままだったが、その手はしっかり握り返された。


「……なるほど、随分と仲良しなようだ」

「っ、あ、あまりからかわないでください」

 苦笑する兄に、フェルドリックのみならず自分まで居心地が悪くなったのは辛いけれど、1年近く前、ソフィーナは同じこの場所で泣くのを必死で堪えていた。それに比べたら、ひどく遠いところまで来た気がした。


「なら、もうばらしてもいいか」

「ばらす?」

「?」

 兄の朗らかな声に不穏な響きを感じ取ったのは、ソフィーナだけではなかったようだ。まだ顔に赤みを残したフェルドリックが、いぶかしげな顔で兄を見た。

「2年前のカザックのコルツァーで開かれた会議。ソフィが出ることになっていたけれど、病気になって、私が急遽代わりに参加しただろう?」

「っ、セルシ……陛下っ」

 焦ったように自分を呼ぶフェルドリックを、兄はにこやかに無視する。

「あの時「妹姫のご様子は?」と訊かれて、いつものようにオーレリアのことだと思って答えたら、不思議そうな顔をして「そちらの方ではない」と。実はあの時からなんとなくそうかなとは思っていたんだ」

「え……」

 思わずフェルドリックを見れば、再度顔を染めつつ、「あ、の時は、別にそんな意図は……」と呻くようにつぶやいた。

「だが、本性はこの通りでいらっしゃるだろう? 可愛い妹を託していいものかと悩んで、知らない顔をしていたんだ。ごめんね、ソフィ」

「っ、知らない顔どころじゃなかっただろうが……」

「あ、気づいてた」

 敬語を取り払ってどす黒い声を出したフェルドリックに、同じく敬語をやめて、兄が意味深に微笑み返す。


「今でも気持ちは変わっていないから、辛いことがあったら、いつでも帰っておいで、ソフィ。君にはその“資格”もある」

「っ、とっとと結婚して子をなしていただこう……っ」

「いやあ、色々落ち着くまで、のんびり行こうかと。この調子なら、それまで僕のことは、カザックが守ってくれそうですし?」

(これ、王位継承順位の話かしら? つまり……私、餌? に、なるんだ……)

 ソフィーナを王として、ハイドランドに帰す気はない、そのために兄に王でいてもらわなくてはならない――そういうことだと悟った瞬間、ソフィーナは顔を深紅に染めた。

 そんなソフィーナと、顔を歪めて自分を睨むフェルドリックを見比べて、心底楽しそうに笑う兄は、ひょっとして結構性格が悪いのかもしれない。

 何せ形勢はソフィーナも巻き添えを食らって、9対1――兄完勝の様相を呈していた。



 だが、その辺が兄の限界らしい。彼はフェルドリックをからかうのをやめると、フェルドリックとシャダの動きについて話し始める。

 ソフィーナも一緒に聞いていて、一区切りついたところに、それは起きた。


「おや」

 兄のかすかな驚きを耳に、彼の視線をたどれば、姉のオーレリアがいた。取り巻きを引きつれ、別の人垣の中心にいるアレクサンダーの所に向かっている。


 珍しいと思って、ソフィーナは瞠目する。彼女は気位の高い人で、滅多に自分から誰かに寄って行ったりはしない。

(ひょっとして踊りの誘い……? お姉さまは常に注目の中にいらっしゃるし、アレクサンダーほど人気の人であれば、気を払っても不思議はないけれど……)

 ちらりとフィルを見れば、彼女は彼女で人に囲まれていて、見えていないようだ。

(フィル、まずいんじゃないかしら? そりゃあ、フィルはお姉さまとはまた違う美人だけれど、今喧嘩しているんでしょう?)

 

「中々いい組み合わせかな。寛容だし、懐も深い。彼ならあのオーレリアも……」

「え」

 はらはらして、フィルと姉を見比べていたソフィーナは、横から響いた兄の独り言に硬直した。

(じ、自分のことに精一杯で、フィルとアレクサンダーが夫婦だと兄に告げるのを、結局忘れてしまっていた――)


「お、お兄さま、あ、あの2人ですが、ふ」

「どうしたの、ソフィーナ、疲れたのかい?」

 咄嗟に頬を撫でるようなふりをして、ソフィーナの口を塞いだのは、性悪フェルドリックだ。楽しそうに弧を描く目と空気の黒さに確信する。

(9対1から巻き返す気なんだわ、しかもなんて悪質な方法……。さっきは手が触れただけで、赤くなったくせに、こんな時は全然平気って、一体どんな神経しているの……)


「だが、確かアレクサンダー殿は、ご結婚なさっているんだったか……」

 口を押えられたまま、ソフィーナは兄の独り言にこくこく頷く。

(気付いてお兄さま、すぐそこに彼の妻もいるの……っ)

「私は幸い機会に恵まれましたが、相応しい相手を探すのは、中々難しいものです。先ほども話題に出ましたが、急なご即位でいらっしゃいましたし、陛下のご結婚もまだまだ先になりそうですね……」

 いかにも同情します、という響きの悪魔の声。いつもの兄なら絶対に気付くはずなのに、彼は心あらずといった様相で、視線を動かす。その先に――フィル。

「……」

 にやりとフェルドリックが笑ったのを見て、ソフィーナは涙目になる。

「そう、ですね……いや、でも……」

 それから兄は明らかに落ち着きを失くし、そして「少し失礼します」と言って、フィルのいる人だかりの方へ歩いていった。


「……最低」

「何もしていない」

「しました、焚き付けました」

「言いがかり」

「大体フィルたちだって、拗れてしまうじゃないですか。ただでさえ喧嘩していて、今も一緒にいないのに」

「それで気まずくなったら、人を散々からかった罰だ」

 フェルドリックはフェルドリックだった。どこまでも我がままで、性格が悪い。


(あ、あれだけ皆私たちを心配してくれていたのに、信じられない……)

『あれは悪魔、悪魔です。大事なことなので2回言いました』

『優しく呪いの言葉を吐き、笑顔から瘴気を吹き出す――油断すると魂を取られますよ』

 フィルとヘンリックの言葉が頭に響き、「やっぱり早まったんだ……」と思った瞬間、広間にざわりとざわめきが広がり、直後に静まり返った。


「フィル・ディラン嬢、命を懸けて私を助けてくださったお礼をさせていただきたい。私と共に踊っていただけないでしょうか?」

「え……、いや、あ、当たり前のことをしただけですので、お礼など恐れ多」

「最も礼になるかどうか……美しいあなたと踊ることは、私にとって無上の喜びでしかない」

 戸惑って遠慮するフィルを上手く遮ると、彼女の前に跪いている兄は、その手の甲にキスを落とし、じっと見あげた。


「……すてき」

「やっぱりブラコンか」

 絵本の1ページにありそうな光景に、思わず兄の苦境を忘れてうっとりすると、横でフェルドリックが不機嫌そうに呟く。

「ち、違います、そうじゃなくて、大切に想われている感じがして、憧れるというだけで」

「似たようなことなら、してやっているだろう?」

「“やっている”…………その神経が嫌です」

「…………君だって、何をされても嫌そうにしかしないじゃないか」

「そ、それは殿下が、」

「はあ? 僕のせいだけじゃないだろ」

「だけって、自覚、あるんじゃないですか」

「はいはい、お2人ともどうせ余計なこと口走るんですから、そこで止めてください」

 険悪に睨み合い始めたところに、ひょっこりと現れたのは、茶色の目の大きなヘンリック。

「で、あれ何とかしてください」

 彼が片手で顔を覆いつつ、指さした先には、結局断り切れなかったらしい、青い顔をしたフィルと、彼女を愛しそうに見つめながら踊り始めた兄。

 そして、周囲に構わず、殺気を露にその2人を見据えるアレクサンダーの姿があった。


「……私に死ねと言うの?」

 思わずそう呟いたソフィーナは、間違っていないはずだ。この状況を楽しめるのは、この世にフェルドリックと、あっちでニヤニヤしているカザックの騎士たちだけ――

 それにしても、とソフィーナは現実逃避気味に、アレクサンダーを見つめた。彼の冷たい、大人のイメージは、フィルの前だと全く、らしい。

 それに気づいたらしい姉が逃げ出したことだけは、幸いと喜んでおこう。


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