第48話 告白

 月光の下、風が庭園の木々を微かに揺らし、ソフィーナの頬を撫でた。

(……もうすっかり秋だわ)

 北国ハイドランドの秋は、カザックよりかなり早い。湿度を含んだ冷たい空気に身震いすると、ソフィーナは作物のことを心配する。そして苦笑した。ずっと憧れてきた人と一緒に歩いていて、これ――我ながら色気がない。


(え……)

 フェルドリックが無言のまま上着を脱ぎ、ソフィーナの背後からかけた。

「あ、あの、お返しします。風邪をお召しになってしまいます」

「そういう時は、ただ「ありがとう」と言って、受け取っておけばいいんだ」

 そこに残った彼の体温に動揺し、慌てて上着に手をかけたソフィーナに、彼はいつものように「可愛げがない」とため息をついた。

 だが、違うこともあった。

「“心配してくれて、ありがとう、でも、”――最初にそう付ければいいだけだと気づかない僕も、似たようなものだな」

 彼はそう自嘲しながら、ずれてしまった上着をソフィーナへともう一度掛け直した。


 バラの植え込みの間を2人静かに歩く。足元の石畳が月明かりに白く浮かび上がっている。

 先ほどまで絡めていた腕は、既に離れてしまった。居心地がいいのか寂しいのか、それもわからない。


 ソフィーナは黙ったまま半歩先を歩いている人の横顔を斜め後ろから見た。

(相変わらず嫌味なくらい整ってる……)

 高く通った鼻梁に引き締まった口元。長いまつげは月明かりに影を落としていて、女性と見まごうばかりなのに、鋭利な顎のラインと筋の浮かんだ首には男性性を感じる。

 彼がカザックの王子だと知らない人も含め、いつもたくさんの女性たちが彼に目を奪われているし、気を引こうと努力している。

 それだけじゃない。床を共にしようという露骨な誘いが数知れずあることも、気付かないふりをしていただけで、本当は知っている。

 プライドの高い姉のオーレリアやシャダのジェイゥリットを、あれほど執着させる人だ。

 見れば見るほど、今ソフィーナが横に居るのが不思議な気がしてくる。この人が紙の上だけでも自分の夫だなんてやはり信じられない。


 水音が聞こえてきた。庭園のほぼ中央にある噴水――フェルドリックが“プロポーズ”しに来た晩、彼がアレクサンダーと話しているのを聞いたのもここだった。ひどく遠い昔のように感じられる。 


 吹きあがっては落ちていく飛沫を背に、フェルドリックはソフィーナへと向き直った。ゆっくりと口を開く。

「ハイドランドから妃を迎えるのは、とても実務的な選択だった」

 前置きのない言葉に、「王族の結婚は私情に関係しない、ただの契約」と彼が言い切っていたことを思い出す。


「カザックはシャダと決定的に折り合わない。事実この60年、お互いがお互いの体制をひっくり返そうと、ずっとせめぎ合ってきた。だから、ドムスクスとの状況が落ち着かない今、ハイドランドがシャダとけん制し合うよう、仕向けておきたかった」

 君ももちろん承知だろうけれど、とフェルドリックは乾いた笑いを顔に浮かべ、肩をすくめた。

「君の母君、賢后陛下が身罷られて、ハイドランドは不安定化すると思ったのに、セルシウスと君の働きで踏みとどまった。それどころか再び上昇に転じようとしていると知った。硬鉱石の鉱脈も発見されたし、30年もすればシャダどころか、カザックに再び迫りかねない。それなら、今のうちにハイドランドをこちら側の手札にしておこうと思った。幸いカザック国内にも波風が立たない」

 彼は視線をソフィーナに向けないまま、言葉を紡いでいく。


 少し欠けた丸っこい月が彼の斜め後ろにある。彼に似合うのは完璧な銀盤なのに、と一瞬思った。だが、欠けているそれも満月とは違っていてなお美しい。


「2人いるハイドランド王女のうち君を選んだのは、君がハイドランドに多大な貢献をしていたから。僕でさえやり込められたことがあったから。上手く行けば、こちらの駒になるし、失敗しても少なくともセルシウスの痛手にはなる」

 そう思った――語尾が吹き付けてきた秋の夜風に消えていった。


「……知っています」

 彼はあの晩からずっと同じことを言っている。ソフィーナにとって残酷な言葉ではあったが、そこに嘘は一つもないのだろう。

(機嫌を取ろうと嘘をつかれるのと、どっちがいいのかしら……)

 開き直るわけでもなく気まずそうにするわけでもなく、フェルドリックの顔は静かで表情がない。なのに、なぜかいたずらを咎められている子供のように見えた。


「君が聡明なことは知っていた。分別があるのも。僕の邪魔にならない――そういう意味で君は都合のいい、理想の相手だった」

「……そう」

 それも前に言われた、もう踵を返してもいいだろう、と思うのに動けないのは、その表情のせいだった。


「でも、選択は他にもあったんだ」

 ぼそりと独り言のように彼が呟いて、初めて目線があった。

 初めて見た時、この世のものとは思えなかった、美しい金と緑の瞳――


「実際別の選択をしようとしていた時、君と公爵家の嫡男との婚約が持ちあがっていると耳にした」

「……世間話程度のことで、まったく正式なものでは」

 ガードネルのことだ、と察して、ソフィーナは苦笑した。兄が戯れに気心の知れた友人に話を振っただけで、それも即断られていた。

(でも、大事には思っていてくれた……)

 ほろ苦い記憶を先ほどのガードネルの温かさで上書きすると、一歩近づいてきたフェルドリックが、ゆっくりソフィーナへと手を伸ばしてくる。唇に長い人差し指が触れ、続きの言葉を封じられた。

「知っている。でも気付いたら、選択を君に変えていた」

 唇に感じる彼の指は相変わらず冷たい。なのに、触れられた瞬間、そこから熱さが広がっていく気がした。


「思惑通り君をセルシウスから取り上げて、僕は賢くて分別のある妃を体裁よく据えて、それで終わり――」

 一歩、距離が縮められる。体の熱が空気を伝わってくる。

「なのに、ぜんぜん思惑通りにならなかった。今までないことでものすごく腹が立った」

 そう顔を顰めながら、フェルドリックは唇にあった手を、ソフィーナの頬へと動かした。まるで魅せられでもしたかのように、その向こうにある金と緑の瞳から目が離せない。


「婚姻の申し込みの後、君の前でボロを出したし、ばれたんならもういいかと思って散々ひどいことを言ってやったのに」

 触れるか触れないかの微かな指の感触。けれどそこに全神経が集中してしまう。

「それで泣き喚いて結婚なんて嫌だとセルシウスに馬鹿みたいに言ってくれていればよかったのに、君はそれでもちゃんとカザックにやって来るし」


「……」

(待って……それ、さ、さすがに、理不尽すぎない?)

「ひ、人のせいにしないでくださ」

「したくもなる」

 怒るべきはこっちだと思うのに、彼は眉を下げ、溜息をついた。


「嫌われて当たり前のはずなのに、君は僕を見て普通に笑うし、楽しそうに話に乗ってくるし、そのくせ、この先一生触れるな、世継ぎは他で作れ、仕事はするなんて言い出すし、実際にその通りにするし。なんておかしなのをよりによって選んだんだ、と思った」

「……」

 思わず眉を顰めると、頬にあった手が眉間へと動いた。緩く撫でるその仕草がひどく優しい気がする。


「なのに……悪くない、と思うようになった」

 そんな小さな呟きが耳に届いて、心臓が跳ねた。

「申し訳程度に部屋に通っておけばいいと思っていたのに、気付いたら君の部屋に入り浸っていた」

 彼の眉間にも皺が寄る。

(綺麗な顔なのにもったいない……)

と思ってしまって、ソフィーナもそこへと指を伸ばせば、その手を捕らえられた。


「知らないうちに君を目で追っていると気付いた時は、気が狂ったと思った」

「……し、失礼です」

 奪われた手が彼の口元に導かれた。指に柔らかい唇の感触が落ちる。

 真っ赤になったのを隠したくて抗議したのに、声が思いっきり揺れてしまっている。


「色気も何にもない体だと思うのに、ベッドの中で君が身じろぐたびに落ち着かなくなると気付いた時は、医者を呼んだし」

「……そ、それも」

 なんだかすごいことを言われた気がするけれど、どれにどう反応していいか分からなくて結局そんな言葉になってしまった。

「というか……寝てらっしゃいました、よね……? 普通に」

「本当、何も見てないな」

 おずおずと尋ねれば、整った唇の合間からため息が漏れた。

「それは君だけだ。隣で気持ち良さそうに、すーすーと平和な顔で……完全に対象外にされていると気付いて、かなりむかついた」

「さ、最初にそう言ったのは、貴方ですし……」

「だからって僕の横にいて舞い上がらないなんてありえない」

(そ、その性格、どうにかならないの……?)

と声に出そうとしたけれど、伸びてきたもう片方の手が顎を包み、親指が唇を柔らかく押さえつける。

「僕に惚れてるんだろう、横にいられて嬉しいだろうと訊いたのに、この口は他の人が良かったなんて、無神経なことを平気で言うし」

「だ、だって……」

 苦しげに聞こえるのは気のせいなのだろうか。唇を撫でる指の動きに思考がまとまらなくなって言葉が続かない。

「シャダの姫が来ると言っても、その思惑だって君なら絶対わかってるはずなのに、妬きもしない。何を贈っても嬉しそうじゃないどころか断って来るし、夜会で誰といても、昼誰と出かけても、夜君を訪ねる回数を減らしても、全く反応しない。そのくせ猫と犬と狐には懐いて、奴らにばかり笑っている」

 猫と犬に狐、とも思ったけれど、心臓がうるさすぎて集中して考えられなかった。


「他の奴とは楽しそうに踊るくせに、僕とはいつもつまらなさそうなのも気に入らない」

「それ、は、緊張、しているからで……」

「毎晩安心しきって隣で寝ているくせに。どっちかにしてくれ」

 ムスッとしながら、フェルドリックは自分の頬にあったソフィーナの手を解放する。同時に、また一歩距離が近づいた。

 心臓の音が聞こえてしまう、そう焦って離れようとしたら、腰を抱き寄せられてしまって、ソフィーナは一気に硬直した。


「地味だと思っているのは本当」

「っ」

「でも、どこにいたって見つけられる」

 掠れた、どこか艶を含んだその声に体が痺れていく。呼吸の熱が伝わってくる。

「この間だってちゃんと見つけただろう」

 なんとかその言葉の意味を咀嚼しようとしている間に、強く抱きしめられて全身を赤くさせた。


「着飾らせなくていいと思っているのも本当」

「……」

「君を見るのは僕だけでいい」

 胸の内から恐る恐る見上げれば、彼の顔も赤くて、でも困ったように眉根をしかめている。

 予想だにしなかったその表情を思わず凝視すれば、むっとした顔になって胸へと頭を押さえ込まれた。

 ペースの似た、けれど違う拍動がシンクロしている。

 1つはソフィーナのもの。そしてもう1つは――。


(……ああ、そうか)

『君が僕にいつも手を読まれて負ける理由を知っている?』

『もう1つ、可能性があると思わない?』

 いつかの会話、あの時解けなかった疑問がようやく解けた。


「私が、あなたに手を読まれる理由……」

「…………君が僕に惚れているから」

「もう1つは……?」

(多分正解はもう知ってる。でも、言って欲しい、今度はちゃんと聞くから――)


 体が少し離れて、ソフィーナの顎にフェルドリックの長い指がかかり、持ち上げられた。視界に入った表情はどこか苦しげ。

「僕がずっと君を見ているからだ、ソフィ」

 やわらかく重なった唇から、強い痺れが全身に広がった。

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