第40話 戸惑いと距離
「アレックスっ」
「っ」
突如響いたフィルの声に、ソフィーナはびくっと体を硬直させた。
(そ、うだった、2人、2人がすぐそばに……)
音が立つような勢いで顔を真っ赤にし、慌てて顔を俯けると、ソフィーナは両手でフェルドリックの胸を押し戻す。そして、目だけ横に動かし、騎士の2人を窺った。
「フィル……っ」
彼女に反応して、姿も見えないような距離から駆けて来たのは、長身のアレクサンダー。その顔は泣くのを必死で堪えているように見えた。
彼に向かって、フィルが走って行く。一秒でも早くその彼女を手にしようというように、彼はぐっと腕を伸ばし、彼女をかき抱いた。
「フィル、心配、した……」
「……ごめん」
強い抱擁の後、アレクサンダーはフィルの顔を両手で捕らえて覗き込むと、確かめるかのようなキスを彼女に繰り返し落とし始めて……その先は正視出来なかった。
「あーあ、俺だけ……メアリー、寂しいよ……」
目を逸らせば、いじけているヘンリックと目が合ってしまって、ソフィーナは指の先まで赤く染め上げると、急いでフェルドリックの腕から逃げる。
「……」
頭上から、フェルドリックの呻くような声が響いてきたことで、余計に後悔した。
きっと彼も、ソフィーナと同様、気まずさを覚えているのだろう。自分たちはフィルたちのような間柄じゃない。戦場などで気分が高揚した後にはよくあることだと書物に記されていたことを思い出して、ソフィーナはさらに身を小さくする。
「……その、ソフィーナ、」
「え、ええと、その、フィルとヘンリックに、色々助けてもらったので、お礼を言わなくては、と思い出しまして。あ、2人を付けてくださった殿下にも、もちろんお礼申し上」
「――名前呼び」
「え? フィルとヘンリックのこと? でしたら、2人がそのほうがいいと……」
「……そう」
何とか取り繕ったソフィーナをじっと見ていたフェルドリックが、おもむろにヘンリックへと顔を向けた。
「げ。いや、それ、こだわる? え、しかも、ねぎらいより先? ……っ、て、フィル、助けろっ、薄情者っ」
ヘンリックが真っ青な顔で、頬を引きつらせた。
「あの、さ、さすがにちょっと放してくれないかと……ほ、ほら、なんかヘンリックが必死っぽい」
「駄目だ。また勝手にいなくなって、どれだけ心配したと思っている」
そう言いながら、見ているこちらが赤面しそうな目線のまま、数え切れないほどのキスをフィルの首から上の部分に余すことなく降らせているアレクサンダーに、ソフィーナは目を見張る。
(誰、あの人……? いえ、赤くなって恥らっているフィルも、可愛いとしか言いようがなくて別人なのだけれど、それより何よりアレクサンダーだわ……)
冷たい容貌と研ぎ澄まされた雰囲気で、場の空気を支配する人。だけど、本当は優しくて、こちらの気持ちを測ってくれて、とても親切にしてくれる大人の男性……だったはずだ。
その人が人目を憚らず、べたべたとまるで甘えるかのようにフィルに触れている。
「ええと、あんな人、だったかしら……?」
戸惑いと共に、彼の従兄であるフェルドリックを見上げれば、なぜか苦虫を噛み潰したような顔をされた。
「あーあ……アレックスがまた壊れた。こうやってフィルと離れて心配が限界を越えると、ああなるんです」
代わりに説明してくれたヘンリックは、いつの間にかソフィーナの陰に隠れて、フェルドリックの視線から逃れている。
(ひょっとして、私たちもあんな風に見えたのかしら……全然そんなんじゃないのに)
そう思いついたら、居たたまれなくなって、ソフィーナはまた頬を染める。そして、明後日の方向を向きながら、フェルドリックからさりげなく遠ざかった。
「……っ、アレックスっ、恥知らずも大概にしろっ」
「知っているが、愚かな囚われ方をしないだけだ。むしろ見習え」
フィルを抱き締めたまま、目も向けないアレクサンダーに、フェルドリックは呻き声をあげた。
「と、とにかくごめんってば。だから、そろそろ……」
「許さない、どれだけ離れていたと思っているんだ。しかもこんな状況で……覚悟しておけ、当分寝かせてやらな」
「っ、いちゃつくなら他でやれ……! フィル、責任とってそれ、何とかしろっ。まだ色々残っているんだ、壊したままにしておくなっ」
「そ、そうは言われても……」
「許可も出たし、フィル、2人きりになるか」
「い、やいやいやいや、そ、その解釈はどうかと……ほほほほら、に、睨んでるし! 真っ黒!」
盛大に顔を引きつらせ、逃げ腰になるフィルにも、本性をさらけ出してドス黒い空気で睨みつける王太子にも一切構わず、アレクサンダーは腕の中のフィルだけを見つめている。そして、「気にするな」と言いながら、また彼女の頬にキスを落とした。
「自分が上手くやれないから、僻んでいるだけだ」
「あー……」
「っ、フィル、お前も大概にしろよ……? 全部お前のせいだろうが……っ」
憐れむような目を向けたフィルに、フェルドリックは切れたらしい。フィルたちが言うところの“瘴気”を、ソフィーナも感じて思わず後退る。
「は? な、なななんで私…………って、元々、は何もかもフェルドリックのせいじゃないか、人のせいにするなっ。あーもーっ、アレックスもいい加減にしろっ」
怒鳴るフェルドリックと、その彼を意に介さないアレクサンダー、その2人に露骨にドン引きしつつ、最後には切れ返すフィル。
「おさななじみ……」
「建国の英雄の孫で、親の代も親しいらしいので、筋金入りです。仲いいのか悪いのか、微妙ですけど、それぞれ信頼はあるんじゃないですかね」
ソフィーナの呟きに、背後のヘンリックが「とりあえず窮地は脱した」と息を吐き出した。
「今だって詰めが甘いし、結局何1つ伝わってないじゃないか」
「っ、だから、それはお前らが邪魔したせいだろっ。そもそもどうしようもなく鈍いんだ、あれをどうしろって言うんだっ」
「自分のことにすら気付かないお前が鈍さを語るな、失礼だ」
(……色々わからないことだらけだけれど、2つは決定っぽいかも)
言い合い続ける3人を呆然と見つつ、ソフィーナはそう結論付ける。1つは兄の失恋。2つ目は、フェルドリックとフィルが恋仲という話、あれは本当になさそうだ。
「……」
ほっとしてしまった自分に気付いて、ソフィーナは情けなく眉根を下げた。
「殿下、ハイドランドのセルシウス陛下がお会いになりたいと」
やっと場の空気が戻ったのは、カザックの副騎士団長のポトマックがやってきてからだった。
「すぐに行く」
「シャダの将軍は無事ハイドランドが抑えたようです」
「でなければ困る」
彼に応じたフェルドリックが、ソフィーナへと視線を向けた。その物言いたげな目に、ソフィーナの心臓は再び跳ねあがる。
「……おいで、ソフィーナ」
「え、あ、はい」
(そ、そうよね、兄に会うのだもの、私も行かなくては……)
足を踏み出したところで、目の前に差し出された手に、ソフィーナは固まった。
(握れ、ということ、かしら……?)
思わずその顔を見上げれば、フェルドリックの顔に表情はない。いつものように皮肉気に笑っているかと思ったのに。
(気のせい、かしら? また都合のいい妄想に基づいて、希望と思えそうなものを拾っている? それとも……)
どこまでも愚かだ、また同じ失敗を繰り返す気か、と嘲笑っている自分がいるのに、でも、抗えない。
「……」
ソフィーナはその手に視線を落として、そこだけを見つめながら、自分の手を伸ばす。指先が震えていて、あまりの無様さに、また少し泣けてきた。
「っ」
触れ合った場所から、驚くような痺れが走って、慌ててのけようとした瞬間、その手をしっかりと握られる。
「……」
眩い朝日の中、ソフィーナを見て、小さく緩んだ目元は、作り物ではないように見えた。
「ほっとした、意外……」
「悪魔に一抹の純情……」
「……それ、聞かれたら、瘴気に呑まれて死ぬぞ」
フィルとヘンリック、そしてアレクサンダーが背後で何か話しているのに、握られた手の温かみにばかり気を取られて、全く頭に入ってこない。そんなこと、あってはならないと知っているのに。
「――さて、ディラン、バードナー、申し開きを聞こうか。カーランが後方で剣を研いで待っている。フォルデリーク、私と共に殿下方の護衛に付け」
ポトマック副騎士団長の声に続いて、3人の呻き声が聞こえた気もしたけれど、それに気をまわす余裕もなかった。
* * *
「っ、お兄さま……っ」
「ソフィっ」
「勝った、勝ったわ、みんな頑張ってくれたのっ、本当にカザックが来てくれたのっ」
要塞に戻ったソフィーナは、門外で出迎えに出てきたセルシウスを見つけて駆け出すと、勢いのまま抱きつく。
「ああ、全部見ていた。君も無事で本当に良かった。……フィルは?」
「彼女も無事よ。ヘンリックも一緒に、向こうでカザックのカーラン小隊長と話をしているわ。ギャザレンはどこ? 無事?」
「カロセリアの英雄だよ? バードナーに老体呼ばわりされて、奮起したんだろうね。鬼神もかくや、と言う活躍をしてくれた。今は残兵の掃討にあたっている」
セルシウスはソフィーナの頭や頬を確かめるように撫でると、おもむろにフェルドリックに向き直った。
「ご無沙汰しております、ハイドランド国王陛下。急なご即位、さぞかしご心労の多いことかと。お力添えのために、馳せ参じました」
「カザック太子殿下、この度の救援、感謝の言葉もありません。ついては、我が城にてお礼申し上げたい。急なことではありますが、せめて殿下と騎士団の皆さまだけでも、ご足労願いたく」
「……ありがたくお受けいたします、陛下」
フェルドリックの顔が微妙に歪んだ。
「戦地故、満足な饗応とはなりませんが、まずはこちらにてご休息いただきたい」
(……危険性を排除しつつ、とことんカザックを利用する気なんだわ)
フェルドリックたちカザック人を、にこやかに要塞内へと導く兄の考えを悟って、ソフィーナは苦笑を零す。
王都ハイドは未だに浮き足立っている。このままカザック軍がハイドに近づけば、今度はカザックによる支配を民は疑うだろう。
一方で、フェルドリックと騎士のみが城を訪れれば? その危険を冒すことなく、カザックと同盟関係にあると示せる――理には適っているけれど、兄も大概狸だった。
「ところで、セルシウス陛下、場を移すまでの話題として、我が妻ソフィーナが戦地、しかも危険な戦場に出ていた理由などはいかがでしょう?」
一緒に歩き出したところで、フェルドリックの口から思いがけない言葉が飛び出した。びっくりして彼を見上げれば、いつも通り笑みを浮かべているものの、目つきがきつい。
「民、そして兄想いでいてくれる、優しい自慢の妹です。当然私たちも彼女を愛していますが、少々行動的なもので、カザックでもご迷惑をおかけしていないかと……ああ、ちょうどいい。私の方からは、分別も忍耐力もある我が妹ソフィーナが、カザックからあまりに性急に、不穏なハイドランドに戻ってきた理由について、話題とすることを提案いたしましょう」
にこにこと応じた兄の方の目も、笑っているようには見えない。
(これ、どちらからも微妙に責められてるわよね、私……)
2人の間で身を縮めつつ、助けを求めてアレクサンダーとポトマックを窺ったが、アレクサンダーには苦笑を、ポトマックには無表情に肩を竦めて返された。
「……」
フィルとヘンリックが心底恋しい。
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