第39話 再会
要塞左手の山の端から、十三夜月が顔を出した。その明かりにほのかに照らされたシャダ国軍の向こうに、忽然と松明が灯った。
瞠目するソフィーナたちの視線の先で、次々に灯火の赤が広がっていく。目がくらむほどになった光に、炎の主たちの全容が浮かび上がる。
「……」
それまで半信半疑だったソフィーナは、突如姿を現した黒い軍隊の圧倒的な数に息を飲んだ。
漆黒の軍隊は、数にそぐわない静けさと速さで見る間に押し寄せてきて、椋鳥の大群のように自在に形を変えた。その動きのたびに、シャダの軍隊を切り離しては包囲し、せん滅していく。
シャダの軍の統制が乱れていくのが、手に取るように分かった。
「総指揮はフェルドリック殿下。あの陣形なら先頭はウェズ小隊長、背後に第2のオーウェン、右翼が第3のフォトン補佐、回り込む気だろう」
「左翼の1団はおそらく誘導だね。多分、第4のニゼット小隊長と補佐で挟撃にかかるはずだ――相変わらずえげつない作戦を立てる」
「……となれば、シャダは川沿いに敗走せざるを得なくなりますな」
「ハイドランド軍は、それを下手から迎え撃つということでいかがでしょう? 問題は、残兵が北東の丘陵地帯に逃げ込みかねないことですが」
「では、その方面には、元々この要塞にいた者たちを中心に待機させよう。闇は地形に明るい彼らに味方する。ギャザレン、頼んだ」
ヘンリックとフィルは手早くカザック軍の動きを読むと、兄セルシウスとギャザレンと作戦を確認し、要塞の外へと向かった。
装備を整えたソフィーナは、ギャザレンに促されるまま、要塞正面の門前で、兵士たちに向かい合った。斜め後ろには、フィルとヘンリックが控えていてくれる。
ソフィーナは震えながら、篝火に照らされたハイドランド兵たち1人1人の顔を見つめた。彼らは、血や泥にまみれ、既にボロボロだ。包帯をしているものも目立つ。申し訳なさのあまり、ソフィーナは拳をぎゅっと握りしめた。
「シャダ国軍排除のため、これより総攻撃に出る――祖国のため、覚悟ある者は私に続きなさい」
ソフィーナは、兄を温存しつつ、兵士を鼓舞するための飾りだ。それなのに、彼らは呼びかけに、呼応の雄叫びを上げてくれる。多分この場の誰より怯えているというのに、そんなソフィーナを信頼してくれる。
「開門っ」
彼らと、彼らが愛している人たちをみすみすシャダに蹂躙させたくない、その一心でソフィーナは馬にしがみつくと、門の外に走り出た。
闇の中、高台からの坂道を、馬が凄まじい速さで下っていく。湿気を含んだ夜風が全身を撫で、遠ざかる。馬を操るなどという余裕は一切なく、ただただ振り落とされないよう、必死だった。
(――いた)
川向こうに、憎んでも憎み切れないシャダ軍を見つけた。隊列を崩し、兵たちは混乱している。
「せん滅せよ」
ソフィーナの傍らのフィルが声を張り上げた。
味方の喚声と共に、天空の月明かりにほんのりと浮かび上がる川の浅瀬を渡り、狼狽するシャダ軍の横腹へと突っ込んでいく。
「怯むなっ、天は必ず我らに味方するっ」
馬の荒い呼吸音と蹄の音、殺気を含んで高揚した空気、狂気を含んだ雄叫び、血飛沫と臭い、骨と肉の断たれる音、断末魔、自分へと向かってくる殺気――押しつぶされそうになるのをフィルとヘンリックに支えられて、味方を叱咤する。
左手奥から、また喚声が上がった。
敵に援軍が来たのかと、冷や汗を流したソフィーナの視線の先で、次々と崩れていくのはシャダ兵――闇の中から、黒い軍隊が押し寄せてくる。
正体の分からない黒い軍隊と、ハイドランド兵が呼応しての挟撃に、完全に浮足立ったシャダ軍は、暗がりの中で完全な恐慌状態に陥った。
強固でこれまで押しても押しても押し返されていた戦線が、ソフィーナの目の前であっさり瓦解していく。
そして……これまでの苦戦が嘘のように、一夜にして勝敗は決した。
地平線から太陽が顔を出した。川に倒れ伏したシャダ兵の遺体の傍ら、朝の明るい日の光が、勝ち鬨に湧く兵士たちを照らす。
(勝、った……生きて、る……)
高揚し、はしゃぐ彼らを前に、ソフィーナは放心する。
喜んでいるのは、臙脂色の制服のハイドランド兵、そして、濃緑もしく黒衣のカザック兵だ。
「味方とハイドランド兵の要救護者を確認せよ」
「フォトンさんっ」
「よお、ヘンリック、よく生きてた。フィルも無事で何より。けど、お前ら、この後覚悟したほうがいいぞ」
「命令に従っただけ……」
「って言うだろうな、お前のことだから。それ、副団長にもカーランにももう読まれてるから」
「……」
「俺、全部フィルのせいにするから。あとよろしく」
「ちょ、裏切る気かっ」
「内輪揉めはやめとけよー、余計怒られるぞ――敵兵の拘束も並行するように」
フィルたちの知り合いらしい、壮年のカザック騎士がやって来て、自国の兵士たちに指示を出し始めた。
(本当に、カザック兵、だわ……でも、なんで……? わざわざハイドランドを救援しに来るメリット、って、何かあったかしら……)
その様子を見ながら、ソフィーナはぼんやりとした頭で、どういう事情でカザックが動いたのか考えようとするが、うまく行かない。
(でも、フィルたちは、カザックが来ることを予想していたようだった……)
「ソフィーナっ!」
「っ」
突如名を呼ばれ、ソフィーナはびくりと体を震わせた。
目線を声の方向へとさまよわせれば、両国の兵が入り乱れ、朝日を乱反射する土ぼこりの向こうに、絶対に見間違えようのない人を見つけた。だが、現実感が湧かない。
(なんで、この人が、今ここにいるの……)
「無事か……っ」
(確か、前にも一度あんな風に走ってきて、あの時はシャダの姫が……ああ、そうか)
ソフィーナは周囲を見回して、目があった護衛騎士2人に声をかけた。
「……フィル、ヘンリック、無事かと訊かれているわよ」
ボロボロの2人は目を見張った後、吹き出す。怪訝に思い、首を傾げたところで、体に衝撃が走った。
「っ」
倒れると思って冷や汗が出たのに、伸びてきた腕に力強く抱き込まれた。
(……な、に)
思考がついていかないまま、全身をきつく抱き締められる。
「怪我はないか」
「……」
顔を押し付けた先から鼻腔に届く香りに覚えがあった。ただ、今は汗と土の香りが混ざっている。
「っ、なんでこんな所にまで……馬鹿にもほどがある。城で大人しくしていればいいだろうが……っ」
強い抱擁と共に、毒を含んだ言葉が、直接耳朶を打った。だが、その音はソフィーナの記憶にあるものと違って、絞り出すように掠れていた。
――……フェルドリック、だ、本当に。
そう認識した瞬間、神経が働きを取り戻した。
「……」
つまり、無事か、と、怪我は、と、彼はソフィーナに聞いていたらしい。
(本当に私……? なぜ? ……わからない。でも、どうしよう、嬉しい……)
「ば、か、ではない、です」
なのに、口から出てきたのはそんな言葉だった。
「馬鹿に決まってる。怪我でもしたらどうする気だ。まして……」
言いたいのはこれじゃないはずなのに、と焦ったソフィーナを、フェルドリックはさらにきつく拘束する。
「その、大丈夫、です。怪我なんて1つも……」
苦しげな声に動揺しながら、なんとかそう返せば、顔を押し付けている先の彼の胸が、細かく震えていることに気づいた。
(……ああ、違う、震えているのは、私だ。生きている……それで、また、会えた……)
気管が大きく震えた。
「……っ」
嗚咽がこみ上げそうになるのを必死で抑えながら、その背を縋るように抱き返せば、覆いかぶさるようにソフィーナを包む体が、大きく揺れた。
「ソフィーナ……」
聞いたことのない声で名を呼ばれて、一際強く心臓が跳ねた。
「顔を見せてくれ。ちゃんと君がここにいると確かめたい」
わずかに離れた体の隙間から、フェルドリックの腕が上がってきて、その長い指が顎にかかった。
緩やかにそこを上へと押し上げられ、あの緑と金の瞳に見つめられて動けなくなる。
また落ち込むことになるだけ――そう警告が鳴り響くのに抗えない。
「……」
距離を縮めてくる彼の目線から逃れたくて、ソフィーナは瞼を閉じた。
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