第38話 死地と勧告

 その夜、ソフィーナは護衛の2人と共に、ゼアン要塞の屋上に上がった。この要塞は背後の山脈が一部北にせり出した高台にあり、眼下では川が蛇行している。今、その川の向こうに黒い影が広がっていた。

(なんて大群……)

 秋の始まりを思わせる乾いた風に吹かれながら、ソフィーナは川越しにこちらの様子を窺っている影を見つめた。所々点在している松明の炎のせいで、一層不気味に見える。


 傷だらけの伝令がこの要塞の北西にある砦が陥落したと伝えてきたのは、夕刻のことだった。

 戻ってきたハイドランド軍を収容し、門を閉ざしたが、要塞を取り囲むシャダ兵はそれからさらに増えて行った。数は正確にはわからない。だが、今動かせるハイドランド軍より圧倒的に多いのは明らかだった。

 ここが落ちれば、この国の穀物地帯はおろか王都もすぐに抑えられてしまうだろう。そして、裕福とは言えないながら、平和に暮らしてきた皆の日常が失われる――。


(……思いを伝えるも何も機会は多分もうない)

 そんな予感にソフィーナは目を瞑る。瞼の裏で、今まさに思い浮かべていた人がこっちを見て微笑んだ。

(こんなことになるなら、カザレナを出る前に全部吐き出しておけばよかった)

と思ったところで、ソフィーナは自嘲を零した。結局自分は考えが甘かったのだ。死ぬ可能性を低く見積もり過ぎていた。

(私が死んだら、フェルドリックはなんて言うのかしら。馬鹿な奴? 自業自得? 他には……)

 この期に及んで考えるのはまた彼なのか、と思ったら、少しだけ笑えた。


「囲まれましたね」

「……ええ」

「午前の挟撃でかなり数を減らしたと思ったんだけどなあ」

「獲得地には最低限の兵しか残していないんだろう。総軍を集めてきて……プラス5000ぐらい?」

「……必要な情報だと思うけど、少しは希望を持たせてやろうって思わないのか?」

「それ、昔ロデルセンにも言われた」

「てかさ、フィル、こういう状況、何度目? 絶対なんかに祟られてるよね」

「あー……ねえ?」

「こっちに余力があれば、背後を奪取し返して挟撃に討って出られるんだけどなあ」

「戦地で希望論を語るなよ。副団長の雷が落ちるぞ」

「こわいこわい」

 ソフィーナを間に挟んだフィルとヘンリックは、そんなことを言って小さく笑い合っている。こんな状況にいてなお彼らには悲愴な色がない。それにこそ胸を締め付けられた。


「……ごめんなさい、巻き込んでしまって」

 一方的な思いを抱えただけのソフィーナと彼らは違う。待っている人がいるのに、と申し訳なくて発した謝罪はひどく震えていた。

「本当にごめんなさい。せめてあなたたちだけでも……」

(でないと彼らを待つ人たちに顔向けできない――)

「妃殿下……?」

 そこに足音が聞こえて、ソフィーナは顔を上げた。


「ソフィ」

 振り返れば、ギャザレン騎士団長を伴った兄が、足を引きずりながらやって来る。篝火に赤く照らされたその顔は、やつれてはいるものの、相変わらず穏やかだった。

「どうか私の、兄の願いを叶えて欲しい」

「お兄さま……」

 その彼の眼に浮かんだ色にソフィーナは動揺する。

(どうしよう、きっとお兄さまは私が迷ってることに気付いたんだわ……)

「嫌です」

 一瞬目を見張った兄は、「まだ何も言っていないのに」と苦笑した。


(――アイタイ)


「私は、ソフィに、私の大事な妹に、幸せになって欲しいんだよ」

「知っています」

 声が震える。


(――デモアエナイ)


「待っているよ」

「待ってなんて……」

『ソフィーナ、おいで』

 微かな笑みと共に差し出された手。嘘だと知っているのに、それでもソフィーナの中で1番大事な瞬間の1つだ。それをよりによって今思い出してしまう。


(――デモアイタイ)


「ソフィ、私の我侭だと思って言うことを聞いてくれないか?」

「……嫌です、絶対に嫌です」

 ソフィーナはぎゅっと目を閉じると、かぶりを振った。

(だっておいていけない。私を信じてくれた人たちを、大事な人たちを、おいていくことなんてできない。国なんかじゃない、彼らを諦められない)

 兄やギャザレンだけじゃない。道ですれ違った農夫や街道沿いの宿の主人、ボボクを始めとする任夫たちとティアラやマントをくれたハイドの組合員たち、城への行進に集まってくれた市民、自分なんかをよりどころのように扱ってくれた騎士たち、侍女長のジェミデや侍従たち……次々に顔が浮かんでくる。

 ソフィーナは彼らの名すら満足に知らない。それなのに彼らはソフィーナを信じてくれた。助けようとしてくれた。


(――ダカラアエナイ)


「ディラン殿、バードナー殿、申し訳ないが、姫……貴国太子妃殿下を連れて、ここを出ていただきたい」

「ギャザレンっ」

「ソフィーナさま、ここで敗れてもソフィーナさまさえ存命であれば、ハイドランドの命運は未来へと繋がります。どうかお聞き届けいただきたい。そして……必ず幸せになってください。私の敬愛する賢后陛下もそうお望みのはず」

 生真面目で気位も高いギャザレンが、他国の騎士であるフィルとヘンリックに頭を下げた後ソフィーナを見つめ、柔らかく微笑んだ。

「すまないが、私からも頼む。我が国の希望であると同時に、私が何より愛する妹なんだ」

「っ、お兄さまっ」

 半狂乱になりながら詰め寄ったソフィーナに、いつも通り穏やかに「私情だけど、最後ぐらいいいだろう?」と笑い、兄は腕を広げた。

「ありがとう、君がメリーベルさまの娘として生まれてくれて、私の妹になってくれて、私は本当に幸せだった――さあ、フィル、バードナー、連れて行ってくれ」

「嫌、嫌です……っ」

 ぎゅっとソフィーナを抱きしめた後、離れていこうとする兄に必死にしがみつく。


「……妃殿下」

「お願い、やだ、お願い、フィル……」

 悲愴な顔をしたヘンリックに腕を引かれたソフィーナは、ぼろぼろと泣きながら、フィルへと視線を向ける。これまでソフィーナの願いをずっと叶えてくれた人だ。最後の希望だった。

「……」

 涙でぼやける視界の向こうでこちらをじっと見つめていたフィルが、音を立てて背後を振り返った。

「――来た」

 そして、目を眇め、闇夜の篝火に浮かび上がるシャダの軍を睨み、そうぼそりと呟く。


「……フィル?」

「諦めるのはまだ早いです、セルシウス陛下、ギャザレン騎士団長」

 彼女の唇の両端が上へと吊り上がった。猫目気味の緑の目に好戦的な色が浮かぶ。

「やっとか……。遅いよ、殿下」

「ね。後で嫌味言ってやろう」

「あ、いいなあ、それ俺も参加する」

 ヘンリックがソフィーナの腕を放し、息を吐き出すと、気楽な雰囲気でフィルへと笑いかけた。

(来た……?)

 ソフィーナは目を瞬かせながら、さっきフィルが見ていた方角へと涙に濡れる目を向けた。

(……やっと? でんか?)

 心臓の鼓動がうるさいほど、早くなっていく。

(まさか……)

 勝手に期待したところで、また惨めになるだけだとわかっている。でも……

(あ、いたい……会いたい、もう一度だけでいい、どうしても会いたい――)


「フィル、一体……」

「援軍がシャダの背後に迫ってきています。挟撃の準備をしましょう、陛下。もうひと働きです」

「援軍? 一体どこのことを? ハイドランド内で今動かせるところはすべて動かした。他国への救援要請は、ようやく各地に届いた頃だ」

「カザックです。先王陛下の崩御から有事を想定しておりましたので」

「カザック……だが、ソフィーナは勝手に帰ってきたと……」

 困惑を露にした兄に、フィルは「それはほら、ソフィーナさまはこう見えて行動派の方ですから」と苦笑を零した。そして「そもそも勝手ですらなかったり?」と付け足すと、兄の背を押した。


「フィル、だが、私は君にもこれ以上、傷ついてほしくない。カザックが来ていると言うなら、なおのことここから」

「私はカザックの騎士です――我が国の太子妃殿下がここから離れたくないと仰る以上、従います。あなたたちを死なせたくない、ハイドランドを滅ぼしたくないというご希望にも全力で」

 苦しそうに告白した兄に、フィルは迷いのない顔でそう言い切った。

「可能性がある限り勝ちに行きましょう。それで勝って帰って、そうですね、ハイドの美味しいお茶のお店を教えてください」

「さ、ギャザレン騎士団長も老体にもう少しだけ鞭打ってくださいねー」

「う、うるさいわ、誰が老体じゃっ」

 唖然としていたギャザレンの肩をヘンリックが叩いた。


「妃殿下もおいでになりますか? 個人的には、セルシウス陛下と一緒にここでお待ちになってはいかがと思うのですが」

「っ、い、いいえ、私も行くわ」

 正気に戻って、ソフィーナはかぶりを振った。


 フィルとヘンリックは顔を見合わせると、「……やっぱりそうくるね」「迷子姫だもん、仕方ないよ」と苦笑を零した。

「では、我が主の掌中の珠であらせられる妃殿下、全力でお守りいたします」

「彼の望みの通りかすり傷1つ負わせません。絶対に離れないでくださいね」


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