第37話 退転と鬱屈

 ハイドランドとシャダの南半分は、南のベルグ山脈から北に向かって流れだすレダ河を国境としている。シャダとカザックの国境でもあるベルグ山脈は、ちょうどレダ河が流れ出すあたりから緩く低くなり、その一角がシャダが侵攻したガル金山だ。

 国境からガル金山まで3日、そこから王都ハイドは北東に7日の距離にある。


 ハイドからに国境に向かう中途、ガル金山を含むベルグ地方がシャダの手に落ちた、との報が入った。シャダはそのままハイドに向かって進軍を続け、2日後にバトマルケ地方においてハイドからの国軍と衝突した。


 交戦開始から5日、戦況は芳しくない。

「ギョーグ要塞陥落、ビュゼット指揮官死亡……」

 思いの外多かったシャダの正規兵とその常軌を逸した戦法を前に、バトマルケ地方のあちこちの要所が次々に蝕まれていく。

 奪い返した村の様子は悲惨なものだった。子供も含めて信じられない数の人が殺され、その多くには凌辱や虐待の後がある。略奪されつくした後の家や畑には火が放たれ、井戸には毒が入れられていた。

 そんなシャダに人々は恐慌し、彼らの保護や消火にこちらの兵が奪われる。

 新王の戦略と騎士団の奮闘、戦線に姿を現す王女による鼓舞、民衆の抵抗とで、局所的な戦闘には勝利するものの、ハイドランド軍は目に見えて摩耗していった。


 今ソフィーナたちがいるのは、バトマルケの要の地であるゼアンだった。

 ここが陥落すれば、あとはハイドまで平原――穀倉地帯が続いている。そんなところで戦闘が起きれば、とソフィーナは焦燥していた。


「ゼイニーが離脱……」

 また騎士の1人、中隊を率いていた者が怪我によって、戦線を離れることになった。内乱の余波でただでさえ人がいない中、人のやりくりができず厳しさが増していく。

「……」

 眉間に苦悩を浮かべた兄から目配せを受けて、ソフィーナは傍らのフィルを見上げた。彼女が軽く頷いてくれて、安堵と同時に申し訳ない気分になる。

「では、第13中隊はディランの指揮下に」

 能力的には十分とは言え、フィルは他国の人間だ。その人に国軍の指揮を任せるなんて、常識ではありえない。当然ハイドランドの騎士たちも最初は難色を示していたが、ここのところ不満を口にしなくなった。彼女がハイドランド兵に馴染んできたというだけでなく、そうせざるを得ないほど状況が切迫して来たからだろう。

「フィル、悪いが彼らを率いて、カジナ村のシャダ兵を北西西の森へと誘導してほしい」

「承知しました」

 兄がフィルに向かって作戦を説明する。彼が一瞬苦しむような顔をしたのは、ソフィーナの護衛でしかないはずの彼女にそんな協力を強いていることに加え、命令の内容が危険なものだからだろう。


 昔、シャダに多大な損害を与えたというフィルの祖父は、彼女にそっくりらしい。また、彼女自身、7年前に国境を越えてカザックの反乱軍に紛れ込んだシャダ軍を壊滅させたという。

 そのせいか彼女の姿を前にしたシャダ軍は、一種の狂乱状態になる。ある者は恐怖で逃亡を図り、ある者は呪詛をまき散らして我を忘れ、ある者は褒賞を目当てにいきり立つ。

 そうしてソフィーナは戦地で初めて、彼女が髪の色を落とし、ヘンリックからカザック王国騎士団の制服を借り受けた理由を知った。恨みと警戒を利用し、シャダ軍の意識を自分に集中させるためだ、と。

 結果、多くの危険が彼女に集中しているというのに、彼女は気にした様子もなく囮となり、その不敵さで味方を鼓舞し、敵を寄せ付けない――少なくともこれまでのところは。

(でも、それもいつまで続くのかしら……)

 不吉な考えを振り払おうと、ソフィーナは軽く首を振る。


「ギャザレンは左手から、ソフィーナは右から、誘い込まれたシャダ兵を挟撃。バードナー、ソフィーナを頼む」

 兄は彼女にもソフィーナの護衛がてらその兵を統率するヘンリックにも、無茶な要求をすることがここにきて増えた――そう気づいて、ソフィーナはついに顔を曇らせた。




「フィルが怪我……?」

 今朝方の作戦は圧倒的に数に劣っていたにもかかわらず、ハイドランドの勝利で終わった。

 だが、追い立てる側だったソフィーナにも辛くも刃が迫ったような状況だ。囮となっていたフィルの率いていた部隊が心配で、拠点のゼアン要塞に戻るなり、ソフィーナは作戦本部にいた騎士に彼女たちの消息を問いただした。そして、返ってきた答えに顔色を変える。彼女が怪我をしたのは、間違いなく自分のせいだった。


「心配はいらないと思いますけど」

 のんびりしたヘンリックを置いて、ソフィーナは彼女の姿を求めて医務室へと駆け込んだ。


「妃殿下?」

 目を丸くしてソフィーナを迎えた彼女は、ちょうど手当てを終えたところだったらしい。上着を脱ぎ、左肩に包帯を巻いていて、頬にも切り傷があった。

「フィル、怪我は? ひどいの? ごめんなさい、私のせいで……」

「この程度は日常です。大したことはありません。ソフィーナさまのせいでは間違ってもないですし」

 包帯にうっすら滲む血に真っ青な顔をしたソフィーナに、フィルは苦笑を漏らした。

 それでも不安が拭えないソフィーナに、彼女を診ていた初老の軍医は「問題なく動けるレベルですよ」と安心させるように微笑むと、薬箱を持って部屋から出て行った。


 石作りの分厚い壁に申し訳程度に設けられた窓から、日が差し込み、薄暗い室内を照らしている。

 その明かりの下、いつも身に付けている胸を抑える下着1枚の姿となったフィルの半身は、鍛え上げられていて何1つ無駄がない。よく見れば、あちこちに傷跡があった。

「妃殿下こそ、お怪我は……ないですね。何よりです」

 思わずそれらを目で追えば、その不躾さにもかかわらず、フィルはくすっと笑った。

「…………ねえ、フィルはなんで騎士なんてしているの? 迷ったことはない?」

 その顔を見るうちに疑問が口をついて出た。ソフィーナのような立場の人間が口にしていい言葉ではないというのに。


 戦局が悪化するにつれて、ソフィーナも戦場に出ることが増えた。期待される役割は、ハイドランド王家が民と共にあると見せ、兵たちを鼓舞することだ。つまり飾りでしかない。

 “戦意”などというある意味とても曖昧なものに頼らなければならない状況だから、当然今朝のように命の危険を感じることが出てくる。

 必死で平気な顔をしていたけれど、本当は怖くて仕方がなかった。もし死んだら?と思う瞬間に脳裏に浮かぶのは決まって同じ顔で、まだ何も伝えていないのに、とその度に恐怖した。


 その恐怖にフィルたちは常に身を置いている――フィルに対しては特に、なぜ、と思ってしまう。

 結婚披露の夜会で出会って以来、女神のように美しい彼女をソフィーナはずっと羨んでいた。あれぐらい美しければ、誰に対しても自信を持って対峙できる、それこそフェルドリックに対してでさえ、と。

 なのに彼女の体はよく見れば傷だらけで、これを厭う人は男女問わず多いのではないかと思ってしまう。有力な伯爵家に生まれ、望まれて公爵家に嫁ぎ、安穏に暮らせるはずなのに、なぜ騎士なんてしているのだろう……?


「あー、騎士になった直接のきっかけは、剣を捨てろと言われて断って、実家を勘当されたからですね。衣食住に困りそうだったので」

 フィルはいたずらっ子のように笑って身を屈めると、ソフィーナの手をとって額へと導いた。普段は髪で隠れている、生え際の大きな傷跡に触れさせる。そこは歪に盛り上がっていて、その線の部分だけ赤黒く、つるっとしていた。

「これは8つの時に初恋の子……当時は知らなかったんですが、アレックスです、彼を魔物から守ろうとして付いた傷です。こっちは盗賊に襲われていた商人の夫婦を助けようとした時、こっちは麻薬漬けにされて監禁されていた女性を連れ出そうとした時、これは……」

 騎士になる前の傷、なった後の傷、彼女は一つ一つ自分の体に付いた目立つ印を説明していき、最後に「すべて誇りです」と言い切った。


「でも一度だけ、剣を捨てようかと思ったことがありました」

「そうなの?」

 目を瞬かせたソフィーナの手を引いて、ベッドに座るように促し、2人並んで腰かける。傍らのナイトテーブルの上にあった水差しからコップに水を入れると、彼女はソフィーナに差し出してきた。


「私、騎士団に入って、初恋の子だと気付かないまま、アレックスのことを好きになって……そんな時、フェルドリックに指摘されたんです。剣にこだわって親に勘当されるような私は、アレックスに不釣り合いだって」

 思わぬ名前が出て来て、ソフィーナは息を殺した。手の中のカップの水が揺れる。


「その前からフェルドリックのことは知っていたんですけど、間合いの内に入られたら、反射で切ってしまうんじゃないかという程度には嫌いでした。アル・ド・ザルアナックの孫という生まれをそのまま受け入れて、言われるまま剣を取っている私は人形のようだ、どうしようもなく愚かだと面罵されて……彼は彼で、私を本気で憎んでいるようでした」

 お互い文句を言って警戒しつつも、気を許し合っているように見える今の2人からは、想像できない過去だった。ソフィーナは喘ぐように「どうして……」と漏らす。

「あー、他人、この場合は祖父ですね、の期待通りに生きる私が、フェルドリック自身に重なって苛ついていたのかもって今は思います」

「……え」

 ソフィーナは、すべてにおいて完璧なフェルドリックは生まれついての王だと、本人も王になることを当たり前に受け入れていると思い込んでいた。ソフィーナのように努力することでしか王族たりえない人間とは違う、と。でも、そうじゃなかったということだろうか……?


「何が理不尽かって、剣を捨てずに騎士になったらなったで、今度は剣を捨てない私は愚かだと言い始めました。周囲の期待が真逆になっただけで、私自身は変わらなかったんですけど、私が期待に逆らうのも、それはそれで気に入らなかったんでしょうね。で、「剣を捨てるなら、勘当を解くよう実家に働きかけてやる、そうすればアレックスとも釣り合う」って」

「……弱みにつけ込もうとしたってこと? 言っていることが矛盾しているし、性格悪いにもほどがない?」

「私があいつを悪魔っていう理由、ご理解いただけました?」

 思わずドン引きすれば、フィルはケラケラと声を立てて笑った。


「多分フェルドリックが一番嫌いだったのは、彼自身なんです」

「え」

 いつも自信満々で自己評価の高いフェルドリックに対する、ひどく意外な言葉に、ソフィーナは唖然としてフィルを見上げた。

「周囲の期待通りにふるまう自分自身を馬鹿みたいだと思っているくせに、彼は周囲を裏切ることもできなかった。私みたいに勝手にできなかったんです」

(ああ、そうだ。彼はあんなふうだけれど、責任感が強くて、本当は優しい……)

「そりゃあ、嫌にもなるでしょう。国のため、人のために、自分の感情を押し殺して、嫌いな相手に笑って、まとわりつかれて、好きな相手とは距離を置いて……みんな当たり前にそう期待するんです。なのに逃げられない。自分が逃げれば困る人がいると知っているから」


「……フィルのような理解者がいて、彼は幸せね」

 幼馴染の絆を感じて、そう呟いたソフィーナに、フィルは「私は彼を追い込む側の人間です。それでも王は彼がいいと思っている」と首を横に振った。

「だから私も、彼の従弟のアレックスすらも、多分本当の意味での彼の孤独は分かりません。でも……ソフィーナさまはそうじゃないのでは」

「……」

 静かな言葉にソフィーナは息を止めると、逃げるように視線を伏せた。


 困った顔をしたフィルがその頭を優しく叩く。宥めるような感触につい愚痴が口をついて出た。

「……彼が好きなのはシャダのジェイゥリットだと思う」

「私の次はあれ……なるほど、恋は人をバ……何とかにするってやつだ」

「い、今バカって言おうとした!」

 半眼でため息を吐いたフィルを涙目で睨んだのに、彼女はあろうことか小さく笑い、舌を出してきた。


「それでも私はソフィーナさまの味方です。まずはこの戦争を乗り切りましょう」

「…………うん」

 すべては生き延びて、ハイドランドからシャダの脅威を除いてからだ、とソフィーナは曖昧に頷くと、ぬるくなったコップの水を一気にあおった。

 またフィルの手がソフィーナの頭に伸びる。その動きはやはり優しい。


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