第36話 恋情と葛藤

(どうしよう……)


 シャダとの交戦に向けての移動の陣中、天幕の中。

 ソフィーナの視線の先には、ハイドランドの軍医たちと共に、兄の体を診ているフィルの姿がある。


 紙の書付にあった材料を使って、染料を落とした彼女の髪は、見事な金色だ。結婚披露の宴で見たあの色に間違いなく、明かりの欠しい今ですら光を放って目立っている。


「妃殿下、お菓子をもらったので、一緒にいかがですか? フィルも……って診療中かあ」

 彼女も、今そう言いながら天幕の内に入ってきたヘンリックも、あっさりハイドランドの兵士に馴染んでしまっていて、ソフィーナはまた少し祖国の兵士の質を心配してしまっている。


「国王陛下のお具合はどんな感じです?」

「もう大丈夫だろうと、軍医の先生も仰っているわ。フィルのおかげね……」

「そっか……本当に良かったです」

「ええ……」

 笑いかけてきたヘンリックに、心あらずで返せば、彼は小さく首を傾げつつも、「お茶をもらってきます」と言って、再び天幕の外に出て行った。


 兄にもフィルにも濁されてしまったが、ソフィーナの予想通り、兄は拷問を受けていたようだ。折れている骨もあるし、全身傷だらけで、あちこち抉れ、化膿していて、かなりの熱が出ていた。

 宮廷医が深刻な顔をして、兄に王都に留まるよう助言する有り様だったが、兄は『大分ましになってきているから』と押し切り、結局シャダとの戦線に向かっている。

 なんでも、宮廷医や軍医が認めた通り、フィルが昔、西大陸のミドガルド国に行った際に身につけたという医術や、かの国から持ち込んだ薬に、かなり助けられたそうだ。

『ナイフを取り出して炎で熱してね、膿んで爛れた傷に突き刺されて広げられた上で、容赦なく洗われて、消毒されたんだ。殺されるかと思ったけれど、それで本当によくなったし、炎症を止める薬だと言ってくれたものを飲んでからは、腫れも熱も引き始めたんだよ』

とは、兄がソフィーナに聞かせてくれた話だ。


 そう、その兄だ。ソフィーナの気のせいでなければ、彼はずっとフィルを目で追っている。しかも……特別な者を見る視線で。


『闇の中から音も気配もなく、現れたんだ。あまりに美しいから、ついに冥府から使いが来たのかと思ったよ』

『実際に人には見えなかった。1人1人静かに仕留めて行って、騒ぎにすらならないまま、夜明け前には塔内を制圧してしまった。恐ろしさと美しさに魅入られている間に、全部終わっていたんだ』

『なのに、連れられて一緒に移動し始めたら、ものすごく優しくて、楽しくて、そんな状況じゃないというのに、何度も笑ってしまった。彼女は本当に……』

 そう言って視線を伏せ、黙り込んでしまった兄の顔はひどく優しいのに、どこか苦しげに見えた。


(……兄妹揃って、不毛な恋愛体質なのかしら)

 嫌なことを思いついて、ソフィーナはあまりの自虐に顔を歪める。

(フィルは結婚していると教えてあげた方がいい? でも、私の勘違いだったら? 気まずくならない? 大体、聞かれてもいないのに、兄妹とはいえ、そんな心の中にまで踏み込んでいいもの?――わからない)

 ソフィーナはため息を吐くと、母の顔を思い浮かべた。何でも教えてくださったお母さまも、恋愛の仕方は教えてくださらなかった、と恨み言を言いそうになって、ふと思い至る。

「……」

 母の人生において、恋愛などという余裕はなかったのではないか。彼女は物心付いた時には、既に父と婚約していたはずだ。


 ソフィーナの中で、決定的に存在感のない、今は亡き父。

 ソフィーナの記憶に、母が彼と2人で過ごしている場面は、公務の場を除けば、数えるほどしかない。母は父に敬意を払っていたけれど、恋をしていたとは思えない。


 何かから逃げるように天幕の明かり採りへと視線を動かせば、外の陽ざしを反射し、風に揺れる木々が見える。

「……」

 フェルドリックの金と緑の目を連想した瞬間、気持ちが大きく傾いだ。ひょっとして、私は恵まれているのではないか、初めてそう思った。


 彼がソフィーナを望んだのは、それがカザックにとって、最良の選択だったからだ。ソフィーナが彼を想うようには、絶対に想ってくれない。

 そのくせ優しい時もあって、その度にソフィーナは期待を持って、その度に打ち砕かれる。なのに、また希望を与えてくる。

『僕に惚れているんだろう?』

 ソフィーナの気持ちに気付いていて、その態度だというのが、もう泣くに泣けない。


『おいで、ソフィーナ』

 なのに……偶に本当に優しく笑う。


『……悪くない考えだ』

 あれだけひねくれていて、毒を吐きまくるくせに、国や人々を真剣に考えているのが、嘘ではなかったことも知った。

 難しい顔をして、地方の暮らしに関する報告を眺めていることだって珍しくはないし、ソフィーナやフォースンが一般の人たちのために何か提案する時は、いつも柔らかい目を向けてくる。


『風邪でも引いたんじゃないか? 珍しく口数が少ない。特に憎まれ口。熱は……ないな』

 彼は何の気なしに、ソフィーナに触れる。どうしようもなく口が悪いくせに、仕草はいつも優しくて、そのギャップに泣きそうになる。なのに、彼はそれに気付かない。


『今日はゆっくりしているといい。仕事? 君に渡しているものぐらい、僕には負担でも何でもない』

 嫌いたいのに嫌えない。


『非効率的だ。どうせ同じ所に行くんだから、一緒に来たらいい』

 離れたいのに離れられない。


『ほら、手』

 じゃあせめて、と距離を保とうとしたソフィーナの努力を、簡単になかったことにする。


『ソフィーナ』

 好きになりたくないのに、名を呼ばれる度に体が震えた。

 嫌いになりたいのに、偶に目が合って、少しだけ笑う。その顔に目を奪われる。

 関心を持たないでおこうとするのに、気付けば意識が吸い寄せられている。

 馬鹿げていると思うのに、気が付いたら、好きになり過ぎて呼吸が出来なくなるところまで、どっぷり浸かっていた。

 それが嫌で離れたのに、気付けばいつも彼を考えている。

 ――爪の先、髪の一筋一筋、全身の至る場所に、彼が侵食してきている。


「……好き、と認めて、告白して、でも、大事な1人になれないから、耐えられないから、ハイドランドに帰る……」

 以前の決意を確かめようと呟いてみたが、期待したように効果が得られない。

 苦しくて仕方がなくてそう決めたのだ。それしかもう手はないと思った。でなければ、いつか狂ってしまう。

 そうすれば、その時は苦しくても、いつか別の幸せを見つけられるはず、そう思った。

(でも、本当にそれでいい、の、かしら……)

「……」

 ソフィーナは、眉根を寄せ、唇を噛み締める。


 この戦はかなり厳しいかもしれない。

 こちらの兵は2万しか用意できなかった。それぞれの領土や領民の防衛を考えれば、周辺領主たちの兵もさほど期待できないだろう。

 対するシャダの兵は3万。その兵が、被支配層が中心であればいい。けれど、あの国は国力に不釣合いな人数の兵士階級を持っている。それが3万であれば……。

「……」

 今度こそ死ぬかもしれない、そう感じてソフィーナは身震いする。そうしたら……?

 もう会えない――。



「フィル、その……」

 傍らで薬を取り出すフィルを見つめたまま、兄が躊躇いがちに声をかけた。

 その目線と声に含まれる熱に、ソフィーナは意識を奪われる。


「痛みますか? 腫れが完全に引けば、痛みもましになるはずなんですが……」

「いや、その……あ、りがとう」

「ふふ、お礼を仰るようなことは何もないです。早く元気になってくださいね」

「……」

 小さく笑ったフィルに兄が言葉を失う、その気持ちが分かってしまう。


 兄の腕をとって、その傷を診、薬を塗り始めたフィルの距離は、当然彼に近い。

 彼女が動いた拍子に、兄は一瞬ひどく苦しそうな表情をした――その顔がソフィーナの脳裏に焼き付く。

 きっと自分も同じ顔をしていると悟って、ソフィーナは視線を伏せた。


 明日には戦場につく。

 その時までに、この迷いに決別できるのだろうか……。


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