第35話 友情と虚像

 城の廊下を全力で走る。

「妃殿下ってばっ」

 ヘンリックが追ってくるけれど、待っていられなかった。


 普段会議などが行われる評議の間の中央に、武装したままのギャザレンたち騎士の一団が見えた。

「なんとお労しい……」

「絶対に許さぬ、ルードヴィめ……っ」

 その真ん中で、簡素なドレスを着たフィルに支えられているのは、間違いなく兄だった。


「っ、お兄さま……っ」

「っ、本当にソフィだ……。馬鹿だな、こんな無茶をして……」

 悲鳴のような声を上げながら、勢いよく抱きついたソフィーナに、兄は呻き声を上げた。

 けれど、それからぎゅっと抱きしめ返してくれて、彼も涙声で「すまなかった。それから……ありがとう」と呟く。


「ぅ、うぅ……」

(生きていた、ちゃんと生きている、もうダメかとずっと……)

 ソフィーナに残された、たった1人の、大事な、大事な家族――。

 伝わってくる温もりに安堵が生まれた瞬間、ソフィーナは兄に縋り付き、全身を震わせながら、涙を零した。次々に流れる雫が、兄のズタボロの服を濡らしていく。泣き声だけは必死で押し殺したものの、嗚咽はどうにもならなかった。


「ソフィーナ妃殿下」

 どれぐらいそうしていたのだろう。傍らから響いたフィルのためらうような声に、ソフィーナはようやく兄の胸から顔を上げた。

 そうだ、フィルにお礼を言わなくては、と思って目を合わせれば、彼女は顔を歪ませていた。

「その、再会の邪魔をして申し訳ないのですが、」

「ソフィ、シャダが既に進軍して来ている」

「っ!」

 兄の声に、心臓が嫌な音を立てて収縮した。


「シャダのカルゼンダから3万ほどが、街道をハイドランド国境に向かって進軍中との連絡がありました」

「ソフィーナさま、セルシウスさま、こちらは?」

「か、のじょも、バードナーと同様、カザックの私の護衛です、フィル・ディランと言って……」

「ひょっとして、勝負を挑んできたドムスクスの狂将軍を大衆の面前で返り討ちにしたという女性騎士ですか……?」

 ギャザレンの声に虚ろに返事をしながら、ソフィーナは顔色を失っていく。

(どう、しよう、まさか、こんなに早く進軍してくるなんて……)

 シャダが動くとすれば、ハイドもしくは兄セルシウスを奪い返されたことを、知ってからだと思っていた。

 ギャザレンたちの方の軍はともかく、今日見た限り、ハイドにいた方は、浮足立っていて役に立たない。それだけじゃない、ルートヴィを始め、内乱に加担した者たちの処分どころか、選別も済んでいない。

 なのに、ハイドを空けて、他国と開戦する? ――満足に戦えるわけがない。

 軍事的な知識や経験に欠けたソフィーナにもわかるほどの窮境だ。その証拠に、その場にいた騎士たちのほとんどが顔を強張らせている。

「……」

(色んな人に助けてもらって、ここまで来たのに、全部無駄になる……?)

 彼らにつられて唇を引き結ぶと、ソフィーナは細かく震え出した。


「ギャザレン、疑いを含め、ルードヴィに与した役付きの者をすべて集めてくれ。オルケル、同じく貴族たちをここに」

「ロダン、1時間以内に軍を再編成する。ここに残す余力は2千でいい。ジアンセに管理させる。ハイドの自治長らを呼んでくれ」

「陛下、伝書が参りました。国境にてシャダと交戦中につき、援軍を乞うとのことです」

「街道周辺の領主たちに交戦の準備と、民の避難を行うよう、伝書を飛ばせ。すぐに救援に向かうと」

「各国の大使を招集してくれ。救援を要請する」

 だが、フィルに支えられていても、兄は兄だった。落ち着いた様子のまま、次々と指示を飛ばし、その様子にだろう、先ほどまでの皆の動揺が静まっていく。

「……」

 ソフィーナは、安堵でまた泣きそうになるのと同時に、みっともなく動揺した自分と比較して、彼を誇らしく思った。


(私は口出ししないほうがいい)

 ソフィーナはそう判断すると、そっと兄から離れる。同時に、兄を身近にいた騎士に託し、フィルも人垣の外に出てきた。

「……」

 多くの人々に取り囲まれて情報を得ながら、山積する問題に速やかに決断を下し、矢継ぎ早に命令を発する兄を、ソフィーナは離れた場所からじっと見つめた。

 姉ほどには整っていないけれど、ソフィーナよりはるかに美しい彼の顔はすっかり窶れ、ひどい怪我までしている。

(でも、ちゃんと生きていらっしゃる――)

「……」

 それに再び涙腺が緩んで、ソフィーナは泣き笑いを零した。


「フィル、本当にありがとう」

「妃殿下こそご無事で何よりです……よく頑張りましたね」

「っ」

 目の前にやってきた彼女に、いつも通り柔らかく微笑まれて、ソフィーナは言葉を詰まらせた。

 彼女はいつもそうだ。ソフィーナを王女や王太子妃として見ず、あくまでソフィーナという1人の人間として見てくれる。だから、王女や王太子妃に相応しくあろうとするソフィーナの努力を褒めてくれる。“そういう立場”にいると言って、ソフィーナ個人の気持ちを慮ってくれる。


(……そう、か、だから特別扱い、なのだわ)

 彼女といつも不毛な言い合いをしているフェルドリックが、それでも、彼女を重用する理由を不意に悟った。大国の太子として完璧な彼は、ソフィーナには手の届かない、雲の上の存在だと思っていた。でも、そうじゃないのかもしれない、と初めて思い至った。

(私、彼をちゃんと見ていた、かしら……)

 思わず視線を下げれば、フィルの腕にも包帯が巻かれている。

「怪我したの……?」

「あ、これ、ドレスと併せて、形だけです」

 顔色を失ったソフィーナに、フィルは肩を竦めた。


「なるほど、馬車を拾うためか」

「うん、事故で重い怪我を負った夫を、王都の医者に見せに行くって設定。息子夫婦を心配してハイドに行くっていう老夫婦と運よく行き会って、乗せてもらった。おかげで検問もあっさり越えられたし、ものすごくいい人たちで、同情してくれて、ただでお昼をくれた。朝ごはんを抜いていたから、神様かと思った」

「ご飯、大事だよね」

「住まいは聞いたから、騙したお詫びもかねて、改めてお礼しなくては」


(……相変わらずだわ)

 事態が切迫しても、2人は普段通りで、なぜか緊張感がない。彼らに申し訳なさを抱えていたソフィーナは、ようやく少し息を吐くことができた。

(生きている、兄だけじゃない、私もヘンリックもフィルも――)

 それから、安堵と幸運を噛み締めた。


「それはそうとヘンリック、その制服くれ」

「はあ?」

 変装した時に持っていくわけには行かなくて、と言いながら、フィルはヘンリックの制服の袖を引く。

「あと妃殿下、この紙に書いたもの、揃えていただけますか」

「フィル?」

「だって妃殿下、このままシャダとの戦線に行く気でしょう?」

 ヘンリックの制服とこの紙とそれがどう関係するのか、さっぱり分からず、ソフィーナは目を瞬かせる。それから、はたと思い当たった。相変わらずフィルの考えることは分からないが、行動だけは読めるようになってきた。


「……フィル、まさか、一緒に来る気、なの……?」

「はい」

「駄目よっ、もう十分っ」

「じゃないです。個人的にもそうですが、何より厳命されているんです。妃殿下を守れ、絶対に傷付けないでくれって」

 どこか遠い目をして、「失敗すれば、魂を抜かれる……」と言いながら、フィルは身震いした。

(傷付けないでくれ……?)

 騎士団が下す命令としては不自然な言葉に、心臓が音を立てた。


「なんにせよ制服! 私の方が有効活用できる!」

「きゃあっ、な、なに勝手に脱がそうとしてんだっ、馬鹿フィルっ」

「ドレス、ヒラヒラスカスカして嫌なんだ。剣も大っぴらに持てないし。あ、何なら交換する? ヘンリックなら結構似合」

「ってたまるかっ」


「……」

(……どこから何を突っ込めばいいか分からない)

 何かひっかかることがあった気がするけれど、目の前のやり取りのせいで、吹き飛んでしまった。

「妃殿下も、そのつもりなら、装備を整えないと」

「私たちの防具ももらえますかね?」

「え、ええ……」

 そうこうしている内に、いつの間にか、彼らが一緒に行くことで、また勝手に話が進んでいることに気付く。


「……」

『安心していい』

(本当にどこまでも思惑通り――)

 悔しい、心底そう思うのに、落ち込む気にはなれなくて、ソフィーナは静かに視線を伏せた。


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