第30話 同志と迷子

 北の国の夏は貴重だ。

 爽やかな風に、若い麦の穂が揺れて、陽光に光る。そこかしこで虫が飛び交い、それを渡ってきた鳥が空中でとらえ、子を育てる巣へと持ち帰る。

 一見すればいつもの夏の風景に見えるのに、王都ハイドへ向かう道すがら、すれ違う人々の顔には、色濃い憂いが浮かんでいた。


「王后さまがちょっと前に亡くなったとこだってのに、王さまも亡くなって、セルシウスさまもご病気……」

「ソフィーナさまもカザックに行っちまったし、オーレリアさまはどうなんだろう……、お美しいとしか聞いたことがないが……」

「どうなるのかねえ。なんだかハイド近くじゃ、どっかの貴族が騎士団と睨みあってるって言うじゃないか」

「戦でも起きたら、畑がな……」

「ハイドの商人たちが逃げ出そうとして、私兵たちと揉めてるって」

「騎士団は何でハイドにいないんだろ……。シャダがうろついてるってのも、関係あるのかね」

「混乱に乗っかって、攻めて来たりしたら……」

「縁起でもないことを言うんじゃねえ! ……と言うか、言わないでくれ、頼む。そんなことになったら、一家で飢え死にだよ、うち……」


「母がいつも言っていたの」

 馬を操りながら、ソフィーナは、横のヘンリックへとぼそりと呟く。

「勘違いをしては駄目だと、王の持つ権力は、民を守るからこそのものだと」

 だからその義務を無視して、権力だけを振るってはならない――そう言いながら、彼女は誰よりも働いて、その疲労ゆえにさほど強くない病にかかって亡くなってしまった。


 厳しい人だった。ソフィーナが思い出すのは、母としての顔より王后としての顔ばかり。

 それでも、いくら忙しくても、ソフィーナが寂しくなって執務室を訪れれば、書類から顔を上げてくれた。

「なあに、ソフィーナ?」

 そう訊いてくれる瞬間が、とても好きだった。そして、しばらく膝の上に載せてくれた。

 そうして話すのは、今手掛けている公務のことだったり、王族としての心構えだったり。でも、母から伝わってくる体温が温かくて、声も優しくて、本当に幸せな時間だった。

 ソフィーナが、誰より敬愛する人、その人が愛した国と人々。


「……ソフィーナさまのいらっしゃる国は、いい国になりますね」

 そうヘンリックが言ってくれて、泣き笑いを零す。

 聡く、優しい彼がくれる、ソフィーナへの最大の褒め言葉だった。



(帰ってきた、本当に……)

 ハイドランドの王都ハイドは、北方の山脈から流れ出る川が作った、扇状地の端にある。豊富に湧き出てくる清水を利用した水路が街の縦横に張り巡らされ、そこを荷や人を積んだ小船が行きかう。澄んだ水の下で、様々な色合いの魚が泳いでいるのを見ることもできた。今の季節であれば、子供たちは水辺でその魚を追いかけているはずだ。

「……」

 ソフィーナの視線の先、山脈の特産である乳色石で作られた街の外郭は、その向こうに見えるハイド城と併せて、黄金色の小麦の海に漂う白い船のように輝いていた。

 だが、今、その周囲には、武装した兵士がうろついていて、門は固く閉ざされている。

 ハイド城のソフィーナの自室から見える位置にあったあの門は、人々がいつもにぎやかに出入りしていたというのに、口惜しくて仕方がない。


 ハイドの東側を流れる河に添って、上流に向かい、ソフィーナとヘンリックは、水門を備えた荷船の係留場に足を踏み入れた。

 立ち並ぶ倉庫からは物が溢れ、人々はそこかしこで暗い顔で何かを囁き合ったり、ただただぼんやりと蹲ったりしている。ハイドの街が閉ざされていることで、物流も滞っているのだろう。

「……ひどいですね」

「ええ……」

 以前来た時は活気に満ちていた。たくさんの川船が船着き場に出入りし、荷と人々、ロバや荷車が行きかって、荷主や任夫(※)たちの大声で耳が痛いほどだったというのに。


 唇を噛みしめながら、ソフィーナはカザックの鉱物商メケルスが教えてくれた、人物のいる場所を目指す。

 ハイドランドの水運業に長く携わってきたその人は、既に涸れたものを含め、ハイドの街郭の内外を繋ぐ水路を知り尽くしているという。メケルスのところの従業員も、彼の手引きによって、ハイドから抜け出したそうだ。


「どけっ、それは、ルートヴィ侯爵の名において、押収するっ」

「おかしなこと言ってんじゃねえ、こちとら、セルシウスさまから許可をいただいて商売してんだ、たかが侯爵が何だって言うんだっ」

「ついに食いもんが無くなって来たかあ? 閉じこもれば、敵が入って来ねえ代わりに、物も入らねえ。食いもんがどっからか目の前に現れると思ってるバカなお貴族様は、ようやくそこにお気づきになったってわけだ」

「だまれっ、そのセルシウス殿下がご不在の中、尊くも国のために戦おうという侯爵さまを侮辱する気かっ。お前らの長のような目に遭わせてやってもいいんだぞっ」

「尊くも、ねえ……それが嘘だってこたあ、その辺の鼻タレのガキだって知ってるぜ……?」


(長? 水運組合の? ……のような目に遭わせる?)

 今まさに訪ねようとしていた人に言及する、剣呑な怒鳴り合いに、ソフィーナは馬を止めると、喧騒へと目を向けた。

 川の水を引き込んだ船着き場の手前、扉を閉ざした倉庫を背に、任夫たちの集団が兵士たちと睨み合っている。


「なあ、勘違いすんなよ……? 長がお前らに大人しく連れていかれたのは、この時期に揉め事を起こしちゃなんねえってだけだ」

「な、なんだと……?」

「俺たちがお前らごときに敵わねえって思ってんなら、とんだ勘違いってことだよ」

「いいか、ここにある荷は小麦の一粒だって、おまえらにゃやらねえ。ハイドに籠るってんなら、好きにやれや――飢えて死ね」

「お、オーレリア姫さまがおいでになるんだぞ」

「さて、そんなお姫さん、いたっけか? 知らねえなあ。ちょろちょろと走り回っては口出してくる、はしこい姫さんの方ならいざ知らず、そっちにゃなんの義理もねえよ」

「っ、無辜の民も犠牲になるんだぞ……?」

「今度はハイドの市民を人質にしようってか? 腐ってやがる――おい、やっちまうぞ」

「っ」

 剣と鎧で武装した兵士を、屈強な任夫たちが取り囲む。彼らが手にしているのはせいぜい棒っ切れぐらいなのに、兵士たちの顔色が目に見えて蒼褪めていく。


「――待ちなさい」

 苛立ちと怒りが、殺気へと変わったことを肌で感じた瞬間、ソフィーナは声をかけていた。

「ああ?」

 血走った無数の眼が、自分へと集中し、ソフィーナは冷や汗を流す。

「水運組合の隠居であるアーベルク・ジャルマンに用があってきたのだけれど、どちらに所在を訊ねればよいのかしら?」

 声に脅えが出ていないことに、ソフィーナは胸を撫で下ろすと、任夫たちの中心の男を見据えた。


『おい、こらチビ、お前、いいとこの子なんだって? ちょろちょろすんじゃねえよ、あっぶねえな』 

 記憶が確かなら、ボボクという人ではないか。大分昔、母に連れられてこの辺を訪れた時に、会ったことがある気がする。


「……」

 疑念と攻撃の意志を露に、こちらを見据えてくるボボクの黒い目を見つめ返せば、視界の端にルートヴィの私兵が逃げていくのが見えた。

(なんて情けない……でもよかった)

 思わず息を吐き出すと、ボボクの太い眉が跳ね上がった。


「あんた、ひょっとして、あん時の小賢しい迷子姫か」

「……覚えていてくれてありがとう、ボボク。でも、もう少し何とかした表現でお願いし」

「っ、バカかっ、あんた、なんでここにいるんだ……っっ」



* * *



 ボボクの説得と打ち合わせを終え、ソフィーナは休む間もなく、騎士団長ギャザレンの居城を目指した。

 事前に聞いていた通り、彼の領地の中、ハイド寄りの場所に反乱軍が布陣している。

 丘陵地帯を辿って反乱軍を迂回しながら、遠目に観察すれば、収穫前の畑を無残に踏みつぶしている連中もいて、ソフィーナは嫌悪と憤りに顔を歪めた。


「ところで、なんで迷子姫なんです?」

「……子供の頃、13年も前の話」

 押し黙ったソフィーナの気を紛らわせようとしてくれているのだと思う。が、ヘンリックのその問いは、微妙に気まずい。

「お母さまに連れられて、あの辺りを視察に行った時、勝手にいなくなって、興味のまま色んな人を捕まえて、あれはどうなってる、これは何って聞いて歩いたのですって。挙句、それはこうしたらどうか、とか嘴を突っ込みまくったの。おもしろがった任夫たちが、あれこれ連れまわして、色んなものを見せてくれて……。誰も私が王女だって気付かなくて、あそこで働いている誰かの子供だと思ったみたい。その時私を見つけたのがあの人だったの」

「なるほど、そりゃ印象に残りますね。というか、そんな子だったんなら、別の意味でも納得です」

「どういう意味?」

「基本変わってないんだなって。カザックから勝手に帰っちゃうところとか」

「……」

 思わず口をへの字に曲げれば、彼はクスっと笑って肩を竦めた。


 その後に着いたギャザレンの城の周囲の街も、やはり重苦しい空気をしていた。隣接するハイドと繋がりの深い、文化的な街で、いつもは街中には音楽が響き、あちこちで画家や工芸作家の卵が自分の作品を路上で売り込んでいたりするのに、一切それがない。

「……あの人たち、逃げていくところなんでしょうか」

「ギャザレンの性格を考えれば、皆に避難するよう呼び掛けているのだと思うわ」

 通りに面した店や民家も固く扉を閉ざし、行きかう数少ない人々も顔を俯け、足早に歩き去っていく。その横を、家財と家族を乗せた荷馬車がぞくぞくとすれ違っていった。

「急がなきゃ」

 彼は交戦を決意しつつあるのだろう。シャダがやってくるのだ。ハイドランド人同士で傷つけ合っている場合ではない。血が流れ、皆が疲弊してしまう前に止めなくては――。






――――――――――――――――――――――――――――――――――

※ ハイドランドの水運業で力仕事に従事する労働者をさす造語

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