第23話 星空と肖像

 カザック王国の都カザレナから、ハイドランドへの旅は重苦しいもの……にはならなかった。

 急ぎは急ぎの旅だったし、祖国と兄が心配なのも追っ手が気になるのも確かだったけれど、自分の足で歩いたりする森や街、村は美しく、人々はカザレナ同様みな親切で、逸るソフィーナの心を宥めてくれた。


 もう一つ、旅について行くのに必死だったという理由もある。馬に乗ったことがほとんどなかったソフィーナは、騎士の2人から常に遅れがちで、少なくとも日中は他のことを考える余裕がなかった。


 街道の関所を避けるために、森に入ることもしょっちゅうだった。ジーラットは森のこともそこに住まう生き物たちのこともよく知っていて、色々な話をしてくれた。

 そういう時は大抵野宿した。闇の中、焚火を囲んで、バードナーやジーラットと話し、2人が作ってくれる食事を口にする。

 することがなくなると、兄やハイドランドを考えて落ち込むソフィーナを、彼らは手伝いを言いつけてくれたり、何気なく笑わせてくれたりして、それに何度も救われた。


「すみません。本当なら宿の予定だったんですが、少し気になることがあるので、念のため」

「大丈夫よ。毛布にくるまって、土や草の香りに包まれて寝るのも、星空を見られるのも好きなの」

 今日もそんな夜になるらしい。火を起こし始めたバードナーの傍らで、ソフィーナは薪になりそうな枝などを集める。


「山鳥とナキリタケが採れた。シチューにしよう」

 夜の帳が降りた森の闇の合間から、ジーラットが収穫を手に、気配もなく現れた。

 出発時に言っていた通り、ジーラットは狩り上手で、いつもその場で鳥やウサギを狩り、野草や木の実、キノコなどと併せて、野営の食事とは思えないほど、おいしい料理を作ってくれる。

「ねえ、ジーラット、この辺にも魔物はいるの?」

「――ダメですよ」

 慣れた手つきで、シチューの準備にかかった彼に薪を渡せば、真剣な表情で見つめられた。赤い炎に照らされたその顔にドキッとする。

「え、じゃあ、」

「あれは食べられません。とんでもなくまずいし、お腹を壊して、動けなくなります」

「……食べたいなんて一言も言っていません。というか、食べたこと、あるのね……」

「何食べても大概平気なマットがそういうんです、本気でダメですよ。一度付き合わされたアレックスはひどい目に遭ってましたし」

「だから食べないってば。アレクサンダーまで一体何をやっているの……」

 何か恐ろしい魔物がいたのか、と一瞬緊張を覚えたのが、バカバカしくなって、ソフィーナは脱力した。

 相変わらず変わっているけれど、魔物を“食料”と見られる彼らは頼もしいに違いない、と思っておくことにして、ソフィーナはジーラットの横に腰を下ろした。


 今でこそそれなりに慣れたが、生まれて初めて野宿した夜は、獣の声も草木の葉擦れの音も恐ろしくて仕方がなかった。

 だが、恐る恐る地面に寝転がって、樹冠の合間から見上げた星はひどく美しくて、それからソフィーナは、眠れない夜はひたすら夜空を眺めるようになった。


「あっ、流れ星」

 今日もそんな風にしながら、ハイドに帰ってからの手筈をあれこれ考えていた時、天空を明るい流れ星が横切った。思わず声を上げたソフィーナに、横で寝ていたジーラットと、火の番をしていたバードナーが気付き、2人はソフィーナを挟んでころりと寝転がる。

「カザレナとは違って、星がよく見えますね」

「北星があった。あれとそっちの白いのを結んだのがドラゴン座だって、昔爺さまに教えてもらった」

「へえ、星見る人だったの?」

「全然。迷子になった時の目安になるからって、それだけ」

「ソフィーナさまはお詳しいですか?」

「私もあまり知らないの」

「じゃあ、作っちゃいましょう」

 そのまま3人で、星と星を結んで、勝手な星座を作り始める。

「西の山際にある5つの星でフォーク座」

「じゃあ、真上のあれとあれで、針座」

「星が2つあれば、全部針じゃない」

などと言いながら、一緒に笑って、穏やかに時間が流れて行く。


 不意に、ジーラットが木々の合間に見える、南の星を指さした。

「あの星、目立ちますね。明るい割に、光が揺らがない」

(あの赤い星、は……)

「……あの星は、他の星と違った動きをするそうよ。行ったり来たりして見えるのですって」



 カザレナに着いて、数か月ぐらい経った、月のない晩だった。

 私室を訪ねてきたフェルドリックに、いきなり薄手のガウンを渡され、ソフィーナは部屋の外へと連れ出された。戸惑うソフィーナにも、驚く侍従たちや警護の近衛騎士たちにも一切かまわず、彼が向かったのは、カザレナの城で一番高い塔のバルコニーだった。

『……』

 強く吹き付ける風に乱れた髪を抑えつければ、眼下にはカザレナの街の明かりが広がり、頭上には、遮るものの一切ない、満天の星空が広がっていた。

 地にも天にも宝石を散らしたような、ひどく美しいその光景に、ソフィーナは言葉を失った。


『街の光もここまでは届かない』

 フェルドリックはそう呟き、空を指さした。

『南にある赤い星がわかるか? あの星は、他の星と違う動きをするから、相対的な位置が変わる。煌めくこともない。見えなくなる時もあるしな。その東にある青い星は……』

『……お詳しいですね』

『祖父が好きなんだ。戦地で仲間たちと眺めた空の美しさをよく話してくれた』

『建国王さまが……』

 ソフィーナの脳裏に、その数日前に彼とかわした会話が思い浮かんだ。


 その晩、いつもいつも聞かされるカザック自慢にちょっと対抗したくなって、ソフィーナはつい、『ハイドランドにも優れたものはいっぱいあります』と言ってしまった。

 ムッとするかと思ったのに、彼は興味を持って聞いてくれて、ソフィーナも調子に乗って、色々話してしまった。

 話が進むうちに故郷が恋しくなってきて、ソフィーナは話の最後に、『山々の黒い影に囲まれた夜空に瞬く星が、本当に美しいのです。あまり工業が進んでいないせいでもあるので、自慢できるようなことではないかもしれませんが……多分今晩のように冬の冷気の残る春夜の空は、一際美しいはずです』とついこぼしてしまった。


『カザレナの夜空も十分美しい』

 バルコニーの上で2人、ひとしきりカザックの夜空を見上げた後、フェルドリックはそう独り言のように呟いた。

『……否定しません。山影はありませんが』

 やっぱり対抗し返されたのだ、変なところで子供っぽい、と呆れたソフィーナに、彼は面白くなさそうに肩をすくめ、『街明かりは比べるべくもないだろう』と当て擦り、踵を返した。

『いつまでそんなとこにいるんだ? 風邪をひきたいのか』

『……連れてきたのはどなたでしたかしら』

『たとえ嘘でも、連れて来てくれてありがとうとぐらい言ったらどうだ』

 そうやって、言い合いをしながら、部屋に戻ったことを思い出す。



(なんでそんなことを思い出すのかしら……)

「ソフィーナさま? どうかなさいましたか?」

「……少し眠くなってきたのかもしれないわ」

 鋭いバードナーを心配させまいと、ソフィーナは小さくあくびして見せる。

「では、そろそろ寝ましょうか」

「ええ、おやすみなさい、バードナー、ジーラット」


(次に会う時は、もうあんな顔は、見られない……)

 フェルドリックを信頼せず、カザックを捨てて、国に戻ったソフィーナに、彼はどんな目を向けるだろう? 冷たい目線だろうか、それともそういう時にこそ猫を被るのだろうか?

「……」

(あっちだって、シャダの王女の茶会が罠だとわかっていながら、私を囮にした。私はそれを利用させてもらっただけ。継承権の話だってお互い様だもの。逃げたことに罪悪感を持つ必要なんてない)

 ソフィーナは、何かから隠れるような気分で毛布を顔まで引っ張り上げ、目を閉じた。



* * *



 翌日、ソフィーナたち3人は、国境にほど近い街、タンタールに着いた。すぐ目の前に聳える山脈の向こうが、ハイドランドだ。明後日には峠を越えられるだろう。


(またここにも……)

 昼食を取ろうと入った裏通りの小さな食堂で、フェルドリックの肖像画を見つけたソフィーナはつい、眉を下げた。

(忘れようと思っているのに、昨日の晩と言い、なんなの、一体……)


「いい男だろう、うちの国の次の王様だよ」

「え、ええ、その、歴代の国王陛下の肖像は珍しくないけれど、太子殿下の肖像があるのは、少し変わっている気がして……この辺はそういうお店が多いなあと」

 注文を取りに来た給仕の中年女性に快活に話しかけられ、そんなにあからさまに見ていたのかと、ソフィーナは動揺する。


「ああ、言われればそうだね。私ら、飾るだけじゃなくって、何なら拝んだりもするよ? ねえ、あんた」

「おー、朝夕、商売の始まりと終わりにな」

「前のここの領主がひっどいやつでさ、元々高い税をさらに重くするわ、魔物を飼った挙句、逃がしちまって村一つ全滅させるわ……王太子殿下は騎士団を連れ来て、私らを助けてくださったんだ。頭が上がらないよ」

「……好かれているのね」

「あたりまえだろ、恩人なんだから。って、言いたいとこだけど、なんかさあ、一昨日、シャダの姫が王都にいるって噂を聞いちまってさ……」

 ソフィーナは心臓を跳ねさせる。

「フェルドリックさまは、ハイドランドの姫さんと結婚したとこだろ? ただの噂に決まってるって言ってんだけど、その話聞いてから、うちのおっかあ、怒っちまって怒っちまって……あんたたち、南から来たんだろ? なんか知ってるかい?」

「い、いいえ、なにも……」

 まさか“噂じゃないです”とも、“そのハイドランドの本人です、逃げ出しました”とも言えず、ソフィーナは顔を引きつらせる。

 横のジーラットと前のバードナーから、視線が突き刺さっているのを感じて、そっちに顔を逸らすこともできない。


「その、シャダはダメ、なの……?」

「ダメに決まってる! うちの国にちょっかい出しまくってるんだ。前の領主もシャダと繋がってたって話なんだから」

「シャダから逃げてくる奴は、みんなガリっガリだし、あの国はろくなもんじゃねえ。あんたもそう思うだろ?」

「え、ええ、そうね」

「フェルドリックさまもその辺はわかってらっしゃるって、ほれ、料理出来たぞ。運んでくれ」

「あいよ」


(わかっていても、どうにもならないことって、私たちにはあるし……)

 そこだけはフェルドリックと分かり合える気がする。嫌いでも結婚しなきゃいけないこと、好きでも諦めなきゃいけないこと――

「……」

 元気のいい給仕の彼女が行ってしまった後、ソフィーナはもう一度フェルドリックの肖像画を見つめた。

(猫かぶりの時の顔だわ、取り澄まして……皆、彼に騙され過ぎ)

 それから、カザックという国について見誤っていたことがあるらしい、と重いため息を吐き出した。

(カザックのフェルドリック、そして、シャダのジェイゥリット……)

 ハイドランドのために、正解を導き出さなくてはならない。けれど、その誤認を含めて、2人について、冷静に計算し直せるかわからなくて、ソフィーナは胃の前でぎゅっと右手を握り締めた。


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