第21話 危難と自覚
(もう少し身を守る術を身に付けておけばよかった。もし子供を授かることがあれば、息子だけでなく、娘にも剣術を習わせよう。いえ、むしろ女の子の方にこそ必要かもしれない)
「だめだよー、お姉ちゃん、こんなとこに入って来ちゃ」
「そーそ、変なのがいるからさ。あ、俺たちのことじゃないよ?」
若い男が3人、ニヤニヤと笑って、ソフィーナを値踏みするように見ながら、近寄ってくる。離れていてもわかるほど酒臭い彼らを前に、ソフィーナは現実逃避気味にそんなことを考える。
夏の日は長い。陽はまだ高い位置にあるのに、ソフィーナが迷い込んだカザレナ北部の路地には、光が上手く届かず、微妙に薄暗い。
「へえ、そこそこ綺麗な顔してんじゃん」
「ああ、地味だけどな」
(皆同じことを言うわ)
そんなところが気になるのも、現実から逃避している証拠なのかもしれない。
「あの、人を待たせているので、そこをどいていただけませんか?」
緊張していることを悟られないよう、平静を装って頼んでみた。
待ち人が来ないとなれば、その相手が探しに来る可能性がある。そうすれば、それを警戒してこの場を立ち去る確率が上がるはず。
「嫌だなあ、俺らが悪いことしてるみたいに」
「少し話をしようって言ってるだけだっての」
「……時間がありませんので」
生憎とそこまで考えが至る頭を持っていないらしくて、効き目がなかったけれど、時間がないということだけは真実だった。
一刻も早くカザレナから離れ、騎士の目が緩くなる場所まで行かなくてはいけない。
「幸い、騎士もこの時間帯はいないし、ゆっくり出来るよ?」
「あいつらうるせえからな」
その言葉に、ソフィーナはわずかに息を吐いた。
彼らのような者達もまずいが、騎士に見つかるほうが今のソフィーナにはまずい。城に連れ戻されれば、次の機会はない。
けれど、じりじりと包囲を狭めてくる男達の顔に浮かぶ下卑た笑いに、背に冷たい汗が流れた。
「可愛くねえな、泣きもしねえ」
「そういう気の強いほうがいいんじゃねえか」
「そうそう、泣き喚かしたくなる」
「何にも知らないって顔してるぜ?」
「それでいきなり3人かあ、こんな路地に入ってきた自分を恨みなよ?」
「っ!」
腕をとられた瞬間に、鳥肌が立った。
「っ」
(気持ち悪い……っ)
嫌悪に任せて、思いっきり腕を振り払えば、一瞬隙が生じた。
「……っ」
踵を返して、人通りのある通りを目指して、必死に駆け出す。
建物の影と合間から差す強い西日、明暗がきつくて、視界がうまく働かない。焦りもあって、足がもつれ、前に進んでいる気がまったくしない。情けなさで涙がこみ上げてくる。
「っ!」
「ちっ、逃がさねえよ」
「抵抗してくれるほうが面白いけどな」
「はは、獲物を狩ってるって感じだ」
だが、あと少しというところで、後ろから捕らえられて、ソフィーナは顔から血の気を失った。
「たす、」
(ああ、だめだ、そんなことをしたら連れ戻される……)
遠くに見える人影に叫ぼうとして、ソフィーナは口を噤んだ。そのまま、ずるずると引き摺られていく。また暗がりに落ちていく。
こんなことをしている場合じゃない。あと少しでカザレナを抜ける。
そうしたら街道沿いの最初の街で宿をとって、それから馬を買って、国境を越えて、兄を見つけて、兵を取り戻して、反乱した者を捕らえて、民が秋の収穫を安心して迎えられるようにして――
「っ、放してっ」
「いーからいーから」
何度も逃げ出そうとするのに、腕はびくともせず、さらに奥、すえた匂いのする物影へと引っ張り込まれた。
「っ!」
両腕を頭上にあげさせられ、背後の壁へと押さえつけられた。屈辱的な扱いと、腕と背に走った痛みに、ソフィーナは顔を歪める。
下卑た笑いの男に濁った呼気を、吹きかけられて、思わず顔を背けた。
「かわいくねえなあ、手荒にされたくなきゃいい子にしてろっての」
「っ」
顎を鷲掴みにされて、顔を無理やり正面に向けさせられたソフィーナは、込み上げてきた激怒のまま、目の前の男を睨みつける。
「やめとけやめとけ、大人しそうな顔して、気ぃ強いタイプだぜ? 噛まれるぞ」
「お楽しみはこっちだろ」
「……」
誰にも触れられたことのない場所へと、横側から武骨な手が伸びるのを見た瞬間、頭が真っ白になった。
『変な子だなあ』
出会って7年、結婚してもう半年。
『まあ、いいや、君に欲情しろと言われても、正直中々厳しいし?』
本性をばらしてからは、対象外と露骨な態度を見せて、実際に1度も興味を示さなかった人。
『おいで、ソフィーナ』
『大丈夫、安心していい』
元々小指の先ほどしかなかった、女性としての自尊心を粉々にしたあの人が笑った顔を、今思い出す――それが悔しい。
「いってえっ、この女、マジで噛み付きやがったっ」
「暴れんじゃねえ、痛い目に遭いたいのかっ」
「っ、私に触れるな……っ」
ソフィーナは、暴れるだけ暴れ、叫ぶ。
(分かっている、オテレットやメスケルだけじゃない。私はきっとあの人に一生勝てない。だって……、)
『さっきは随分と喜んでいたくせに。僕に惚れているんだろう?』
(だって、好き、なんだもの――)
悔しいけど、腹が立つけど、馬鹿だと思うけど、それでも。
全然理想じゃなくて、最悪な性格だと知っていて、いっぱい傷つけられて、自分でも不思議だと思うけれど、それでも好きなのだ、彼が。
目の前の男たちを凝視する目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。
(ごめんなさい、お母さま。あれほど感情をちゃんとコントロールしなさいって仰っていたのに、できないの。それでも、思い通りには絶対にならないから、だから、だから、許して――)
「ちっ、付け上がりやがって」
振りあがる拳に身を固くしながらも、ソフィーナはきっと相手の目を睨み据えた。
「暴力で、人の心を屈従できると思うな……っ」
あの人に絶対に報われない片思いをしていると認めて? 知らない男達にこんな扱いを受けて?
――それでも私の心は私のものだ。
相手が誰だろうと、何をされようと、絶対に心の主導権だけは渡さない。誰の言いなりにもならない。
「少し痛い目に遭えば、わかるだろ、なあっ」
「っ」
振り下ろされる拳に、反射で目を瞑った瞬間。
「――お前たちがな」
怒気をはらんだ低い声と共に、打撃音が響き、目の前の男が横に吹っ飛んだ。
背後からの日に照らされて、フードの影になった顔はよく見えない。
けれど、別の男に殴りかかられて、その人が身をかわした瞬間、一瞬だけ緑の目が垣間見えた。
「…………ジ、ラット……」
あれほど苛烈できれいな瞳が他にあるわけがない、とソフィーナは青ざめる。
(ああ、どうしよう、捕まってしまう、逃げなくては……)
そう思うのに、足が震えてしまって、上手く動けず、あまつさえへたり込んでしまった。
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