第18話 隠し事と隠し事

 侍従に通された先、フェルドリックの執務室はいつもと特に変わりがないようだった。

 大きく開け放たれた窓から夏風が吹き込んで来て、白いレースのカーテンを揺らす。その向こうで、庭師のコッドが丹精を込めて育てた夏バラやユリが同じ風に靡いていた。


 窓の手前に据えられた広大な机の前で、部屋の主がソフィーナに向かって口を開いた。

「ハイドランド国王が暗殺された」

「そうですか。兄、セルシウスは?」

(やはりそういう手で来た――)

 疎遠だったとはいえ、実の父だった人が死んだ。なのに、気になるのは兄と国のことだけ――なんてかわいくないの、と我ながら呆れる。

 そのソフィーナにフェルドリックは微妙に目を眇めた。

「辛くも難を逃れたそうだ。詳細は不明だが、今は一部貴族によって軟禁されているらしい」

 思わず安堵の息を吐きだせば、気管が大きく震えた。ほっとして滲んできた涙を堪えるために、ソフィーナは両脇の拳をぎゅっと握り締める。

(お兄さまは生きている……)

 ハイドランド王族としても個人としても、ソフィーナがもっとも危惧していた事態が避けられたことは喜ばしい。

 だが、それが意味するのは、と唇を引き結んだ。

 ――兄を亡き者にした場合、王位がソフィーナに移ることを知られてしまった。



 この国に嫁する前日の夜更けに、兄セルシウスは『可愛い妹と最後にゆっくり語らいたい』と言って、ソフィーナを訪ねてきた。

『ソフィ、メリーベルさまが父上の遺言を用意している』

 そうして人払いした密室で声を潜めた兄の顔を、ソフィーナは鮮やかに覚えている。

『父上はあの通りだから、おそらくメリーベルさまが用意したものに、ろくに目も通さずサインなさったのだろう』

 そう苦笑した後、彼は何かに耐えるかのようにぎゅっと眉根を寄せた。

『父亡き後、王位に僕を、その太子にソフィを指名している。父と僕が同時に死んだ場合はソフィだ。メリーベルさまはオーレリアに王の役目は果たせないとお考えになったのだろう』

『……』

 絶句したソフィーナを見、兄は口を噤んだ。長い沈黙と冬夜の空気が、ひんやりと自分たちを包んでいた。

『……ソフィ、君がカザックに嫁することになった今、本当ならこれは書き換えるべきなのだと思う』

 苦悶を顔に浮かべながら、兄はソフィーナを見た。

『兄として君に幸せになってほしい。けれど……僕は太子としてこの国、というより民を見捨てられない』

(――ああ、この人は血が繋がっていなかろうと、間違いなく母の、メリーベルの息子だ、私の兄だ)

 泣きそうになるのをこらえながら、ソフィーナは兄の顔を見つめた。姉と同じ、美しい金の髪と青い瞳。なのに、まったく違った顔に見えた。

 母の存在で多少持ち直したものの、ハイドランドは未だ不安定だ。隣国シャダの介入も止まらない。そんな国を維持して、民を貧困や戦乱から守っていけるのは兄、その彼に万が一のことがあれば、後はソフィーナしかいない。たとえ他国の妃となったソフィーナであっても、姉が王位に立つよりはこの国の民衆にとってはよい、と兄は考えた。

 だが、それをフェルドリック、カザックに知られるわけにはいかない。

(……話せない)

 背信を抱えてカザックへ嫁ぐしかない、と悟って、ソフィーナは膝の上に置いたこぶしを握り締めた。

 視線を落とした兄から、掠れた『…ごめん』という音が響いてきた。年に似つかわしくない分別を備えた彼が発した子供のような言葉に、ソフィーナは泣き笑いを零した。

『はい』

 そう頷いて、兄の悲愴さを取り除こうと、芝居がかった非難の視線を向ける。

『さっさとご結婚なさって御子を成しておくべきだったのに、選り好みなさるから、荷が増えてしまっているのですよ?』

『……僕としては、カザックのナシュアナ姫のような方が、理想だったのだけれど』

 母が死んでからそれどころじゃなかったというのは、よく知っている。それでも、あえてそう言ったソフィーナの意図を酌んでくれたのだろう、兄は兄で演技めかして『去年ご結婚なさったそうだよ』と嘆いて見せた。

『今からでも遅くないですから、早急にご縁談を見つけてください。そうすれば、生まれてくる御子が太子になって問題解決です』

『プレッシャーだ……』

 これ見よがしに肩を落とした兄と一緒に笑って……。

『まあ、そうそう死ぬことにはならないと思うから』

 部屋を去る際、ソフィーナを宥めようと兄が呟いた言葉を、今鮮明に思い出した。



「セルシウス殿下の性格を考えると、シャダに屈するとは思えない。となると、シャダはなぜ彼を殺してしまわないんだろうね? 姉姫殿下は叛乱勢力の手の内にあるようなのに」

 回想の傍らで、フェルドリックの試すかのような視線を受けて、ソフィーナは自分の仮面の強度を高める。

 特別な計らいがない限り、ハイドランドの王位継承は生まれの順。自分と兄、そして遺言を見た者以外は、次の王位継承者は姉であると信じているはずだ。

「兄の人気は民の間で絶大ですから、民衆の反発を警戒しているのかと」

 こちらとしてはあの白痴姫に王位が移るよりはいいけれど、と言いながら、こちらを見たフェルドリックにソフィーナはしれっと嘘をついた。


 父の死去に伴って、兄がハイドランド国王となった。その彼を殺せば、次はソフィーナが王だ。それを知った反乱勢力は兄を殺せない。おそらく拷問などで、兄自身の遺書を書かせようとはするだろうが。

「……」

 その考えに顔が歪みそうになるのを、ソフィーナは必死で抑える。


 今、ハイドランドの王位継承について、カザックに知られれば?

 カザックは兄を見殺し、もしくは積極的にこの世から消そうとすらするだろう。ハイドランド王となったソフィーナは、この国の王太子妃でもある。労せずしてかの国はカザックに併合状態となる。


「……」

 ソフィーナは静かに目の前のフェルドリックの顔を見つめた。

 彼はとても善良な為政者だ。彼であれば、ハイドランドの人々は苦しまないで済むかもしれない。

 だが、彼以外の考えはどうだろう。この国はシャダやハイドランドのような、絶対的な専制ではない。重要な政策の決定にあたっては、貴族や学識者、利害関係者を集め、合議を行うと決まっている。

 彼らは特産などがあるわけでない、貧しい北国にどれほど手を差し伸べてくれるだろう?

 それに……兄は? 無償でソフィーナを愛してくれる、この世に残った、ただ一人の肉親をみすみす見殺しに出来るわけがない。


「ソフィーナ」

「なんでしょう?」

 ソフィーナに隠し事の匂いがあることを感じ取ったのかもしれない。フェルドリックの視線が鋭さを増したのを感じながら、素知らぬ顔をする。

「助けてって言わないの? 君が何より大事にしてきた国だろう?」

「私はもうカザックの人間だと仰ったのは、あなたでしょう」

 そう答えながら、視線を落として頭を巡らせた。

 兄が遺言を書くことを拒む以上、シャダは兄より先にソフィーナを殺しに来るはず。となれば、ジェイゥリットの従者の中に多分刺客が紛れている。


(……そうか)

 目から鱗が落ちた。

 護衛を付けた頃どころか、最初からフェルドリックはそんな情報を持っていたのだ。

(この人は、カザックはシャダの動向のみならず、母が仕向けた父の遺言も知っている。兄がそれを書き換えさせていないことも――)

 ソフィーナは再びフェルドリックの顔を凝視した。全身に鳥肌が広がっていく。

 ソフィーナとの結婚を望んだのは、兄の力を削ぐためとか、着飾らせなくていいとか、そんな理由じゃない。刺客を恐れてソフィーナに護衛を付けたのも、そのくせシャダの姫を追い返さないのも、すべて同じ理由だ――ハイドランドを駒として確実に押さえつつ、シャダといがみ合わせ、互いをけん制させ続けるため。


(なんて、恐ろしい国、なの……)

 他国の機密中の機密を握り、実質何1つ対価を払わないまま、他を踊らせ、欲しいものを得る。

 そして……そのすべてはソフィーナにも秘されていた。

『王族の結婚なんてそんなものだ』

 いつかのフェルドリックの言葉を思い返して、ソフィーナは唇を引き結んだ。そこが震える。

 だが、自分だってそうじゃないか。ハイドランドの王位継承について、フェルドリックに隠してきた。今も言う気はない。彼を非難する権利はない。

(結局、私の、私たちの『結婚』はそんなものだったということだわ……。想い合うどころか、信頼の欠片すらお互いに持っていない……)


「ソフィーナ」

「っ」

 頬に指が触れる感覚に、現実に引き戻される。そして、その距離に息をつめた。フェルドリックは無表情にこちらを見下ろしている。

 既視感のある光景に、またぼうっとしていたと悟って、ソフィーナは動揺する。

「何を考えている?」

「……なにも。敢えて言うなら、兄の身の上です」

 心配をしているかのように響く声と、頬にあたるわずかな熱に、狼狽がさらに強まった。精一杯平静を装ったのに、声が震えてしまう。

(違う、引っかかってはだめ。希望にすがって、勝手に1人堕ちていくだけじゃすまない。兄や優しいハイドランドの人たちまで危険にさらしてしまう)

 その手と、金と緑の瞳から逃れようと、ソフィーナは後退った。


「……君が僕にいつも手を読まれて負ける理由を知っている?」

「私があなたに惚れているから、とでも仰るのでしょう」

 一体何の話を、と思ったが、ソフィーナは話が逸れることを期待して、彼の言葉に乗った。

 落とした視線に彼の足が踏み込んでくるのが見えた。先ほどやっとの思いでとった距離が再び縮まる。

「へえ、ようやく分かったわけ?」

「でも外れです。本当に何も考えておりませんので」

 ふうん、と面白くもなさそうに呟いた彼は、もう片方の腕をソフィーナの腰へと持ち上げた。

 その光景も腰にあたる温かい感触も、どこか別世界の出来事のように思える。


「もう1つ、可能性があると思わない?」

「……っ」

 一際強い心臓の拍動と共に、視線があの美しい瞳に絡め捕らえられる。真っ直ぐ、真剣に見つめられている。

(っ、違う……っ)

 また勝手な解釈をしようとしていると気づいて、ソフィーナは固く目を瞑ると、フェルドリックから顔を背けた。

「ソフィーナ、こっちを見るんだ……目を開けろ」

 いつもと同じ命令調。それなのに声が違う気がして、ソフィーナは目を閉じたまま、首を横に振った。それにどんな意味であろうと、どのみち見てはいけないことだけはわかったから。


「ソフィーナ」

 背後に回された腕が、ソフィーナをフェルドリックへと押し遣る。直後、全身が熱に包み込まれて息を止めた。

「僕は」

「……」

 全身が無様なまでに震え出したのがわかった。なのに、止められない。耳をふさぎたいのに、凍り付いたかのように動かせない――



「お待ちくださ…」

「先ほどと言い、下賤の出の分際で差し出がましい……っ」

 勝手に開けられる扉の音と、ほぼ同時に響いたフォースン、そしてシャダ王女の怒鳴り声に硬直は解けた。


 近づいてくる足音と、「フェルドリック殿下、ジェイゥリットです。お会いしたくて……」という打って変わって愛らしい王女の声に、ソフィーナは目の前の胸板を押し返す。

「お客さま、です、殿下」

「……」

 無言で離れていく熱と呼吸の音に、ソフィーナは詰めていた息を吐き出した。


(私らしいと言えば本当に私らしい。どこまで馬鹿なのかしら……)

 そう自身をソフィーナは嘲笑う。

 その顔をドアへと顔を向けたフェルドリックが見ていなかったこと、それだけが救いだった。

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