第16話 転機と決意
「滞在を許可しよう」
「ありがとうございます、カザック国王陛下。両国の関係改善の機会となるよう、精一杯努めさせていただきますわ」
カザレナの王城の最奥、玉座の間にて、シャダの王女ジェイゥリットは、ソフィーナの義理の父に当たるカザック国王陛下に嫣然と微笑んでみせた。次に、フェルドリック王太子に向き直り、同性のソフィーナでさえため息をつきたくなるような色のある笑みを浮かべる。
それから彼女はフェルドリックの横にいるソフィーナへと目を向けて、頭の先からつま先まで一瞬で眺め回し、明らかな嘲笑を顔に載せた。
そんなシャダ外交使節団の入国から、早1月経とうとしている。
カザックとシャダの和平交渉も、国交正常化交渉も遅々として進んでいない。それもそのはず、シャダの目的は和平や国交の樹立よりもジェイゥリットを、フェルドリックの寵姫とすることにある。
カザックの重臣たちからの面会要求を可能な限り無視し、たまに応じたかと思えば、何一つ具体的な話をせず、ジェイゥリットはひたすらフェルドリックと時間を過ごすことに注力しているらしい。
「お聞きになりまして? シャダのジェイゥリット殿下の護衛に指名されたのは、アレクサンダーさまとジュリアンさまなのですって」
「まあ、わざわざあのアレクサンダーさまが客人の護衛をなさるの?」
「やはり噂どおりただのお客さまではないということかしら? ソフィーナさまとのご結婚からたった半年だというのに、残酷なことをなさるのね」
「でも、こうも考えられませんこと? アレクサンダーさまにジェイゥリット殿下をあてがっておいて……」
「嫌だわ、その間にご自分はフィリシアさまと?」
「なんにせよソフィーナさまがお気の毒で……。皆さまがお開きになる催しにも、最近ではジェイゥリットさまのお出ましのほうが多いくらいですものね。それに夜のほうも最近では……」
「聞きまして? ジェイゥリットさまに殿下から贈られたという宝石の話」
その日、いつもの秘密の場所にこっそり行こうとしていたソフィーナは、聞こえてきた噂話に足を止めた。
「……」
宮殿の建物の間からわずかに覗く、狭い空。そこを見上げて、ソフィーナは母に謝る。それから彼女たちに見つからないよう、踵を返した。
(噂って案外馬鹿にならないわ……)
目的地を決めていないというのに、ソフィーナは視線を足もとに落とし、足早に歩く。
最有力の公爵家の跡継ぎであり、かつ従弟でもあるアレクサンダーを、フェルドリックはひどく重用している。
かつて彼はフェルドリックの側役、将来の執務補佐官として、フェルドリックと一緒の教育を受けていたという。
その後軍への抑えとするためにか、彼は騎士としての道を歩んだわけだが、それでもフェルドリックは彼に全幅の信頼を置き続けている。
彼ゆえに、フェルドリックは想い人であるフィリシア・ザルアナック・フォルデリークを手にしなかったのだろうと簡単に納得できる、それほどの関係だ。
そのアレクサンダーが、フェルドリックの妃の座を、しかも正妃の座をあからさまに狙っているシャダの姫の護衛に当たる――その意味が分からないほど、ソフィーナは愚かではない。
夜、ソフィーナの部屋を訪れる回数が減っているというのも事実だ。それ以外の日、彼がどこで何をしているのかは全く伝わってこない。
その程度の思いやりを持ってもらっていることに、いっそ感謝すべきかもしれない、とソフィーナは薄く笑った。
「……」
ふと顔を上げれば、来たことがあるような、ないような、小さな庭園の目の前にいた。
盛りを迎えている白い花はオレンジだ。
香りに誘われるようにソフィーナはそこに足を踏み入れると、見つけたベンチに腰を下ろし、ようやく息を吐きだした。
『長旅でお疲れでしょうから、まずはごゆっくりお寛ぎください』
『お噂通り実に美しい。歓迎の夜会を設けましょう。できるだけ多くの者に目の保養の機会を与えなくては』
フェルドリックがシャダの王女をエスコートする様、その言葉、目線、表情。それを受けて陶酔していく彼女に、フェルドリックは柔らかく微笑み返し、しばらく2人は見つめ合っていた。
その全てをソフィーナは自分自身の目で見ている。
「……猫かぶりもいいところ……って、違うか。あれこそがあるべき態度だったわ」
(そんな当たり前の礼儀すらとってもらえない私って一体……)
つい零れた文句につい自分で突っ込んでしまって、余計凹んだ。
フェルドリックにとって、ソフィーナは都合のいい正妃、よくてそれに退屈しのぎが加わる程度だろう。そう理解していたから、ソフィーナ自身飾りでいいと頼んだし、彼もそれを受け入れた。彼がソフィーナに対して、おざなりな態度になるのは、当たり前の結果だ。
だからあの新婦のように、バードナーのように、アレクサンダーの兄夫妻のように、笑い合うことはない――。
『生憎だったね。それでも君はここに、僕に縛り付けられる』
憎しみのように響いた言葉を思い返し、ソフィーナは泣き笑いを零した。
(そのくせ、なぜあんなことをするのかしら。嫌がらせ? それともまた勘違いさせて、また笑う気だった?)
「……」
あの時触れ合った唇に指を置くと、その先が震え出す。
「……」
こぼれそうになった涙を落とすまいと祖国のある方角の空を見て、余計に泣きたくなった。
カザックの夏空は美しく高く青く澄んでいる。けれど、ここから見る空はソフィーナが今いる世界のように狭い。
(ここではないどこかへ行ければいいのに……)
そう感じてしまった瞬間、ついに雫が零れた。
堰を切ったように次から次へと涙が溢れて来て、止めなくてはいけないのに止まらない。
「ねえ、あちらに座っていらっしゃるの、ソフィーナさまではなくて?」
「いやだわ、お妃さまがあんな場所にいらっしゃるはずが…………あら?」
「っ」
背後から響いた声に、ソフィーナはびくりと体を震わせる。
「っ、ジーラッ……」
動揺するソフィーナの顔を、背後に現れたジーラットが斜め上からひょいっと覗き込んだ。
見られた、と息を止めたソフィーナの頭に、彼は手にしていたタオルをばさっとかけて、視界から彼の奇麗な緑の瞳を遮った。
あれからソフィーナはタオルを被ったまま、彼に手を引かれて人気のないところへ連れて行かれた。
「……汗の匂いがする」
1時間ほどしてやっと落ち着いたソフィーナが見つけた言葉は、そんなものだった。
(でも、嫌な臭いに感じないのは、ジーラットだからかしら。それとも美形な人って皆そうなのかしら?)
これ以上泣きたくなくて、そんな意味のないことを考える。
「使った後ですから」
「……さすがに無礼と言っていい?」
「えー……ってそりゃそうか。ええーと、じゃあ、今更ってことで」
何にも知らない顔でいつもどおり振るまってくれるジーラットに、止まったはずの涙がまた零れた。
「ぅわっ」
あたふたと動揺して、頬を伝う雫を慌ててタオルで拭ってくれる彼に、ソフィーナは泣きながら笑う。本当に人がいい。
「……ねえ、今から話すこと、内緒にしてね」
(だから少しだけ――)
隙を見せてはいけないと諭した母にソフィーナは許しを懇願してから、言葉を紡いだ。
「……はい」
ジーラットはソフィーナと目を合わせて一瞬で動揺を鎮めると、その深い緑色の目を真っ直ぐこちらへと向けてきた。何かを見透かそうとするかのような、とても強い視線をありがたく思った。その力を借りれば、全て吐き出してしまえる気がした。
「ジーラットの初恋はいつ?」
「5歳くらいに、離れて暮らしていたあ、ねに。中も外も、驚くくらいきれいな人なんです。家族以外なら8歳の時です」
「そう……。どんな子だった?」
「その、華奢で可憐な、月の妖精のような子でした。とても優しくて……」
頬を染めながらも、どこか懐かしそうな顔をして話してくれるジーラットにまた羨望を覚えた。
「私の場合は12歳だったの。しかも、相手はなんと今の夫」
「げ」
と呟いて、信じられないものを見る目で自分を見たジーラットに、ソフィーナは思わず笑った。本当に正直でほっとして……泣きそうになる。
「本当に「げ」よね、今思うと。でも、あの時はこんな性格だなんて知らなかったんだもの」
「ああ、あの猫かぶり、完璧ですもんね」
心底嫌そうに言う彼にまた笑った。なのに、彼はそのソフィーナに「無理に笑う必要はないです」と悲しそうな顔をした。
「……」
それで結局ぽろぽろと泣く羽目になった。
「そ、れが困ったことにね、その初恋、続いているの……」
「……」
表情を全て落として、こちらを真っ直ぐ見つめてくるジーラットの瞳をソフィーナは見つめ返した。
「性格悪いだけじゃなくて、好きな人がいると知っているのに」
「好きな人、って、あのフェ、殿下に……?」
「そう、あなたの同僚」
「……ア、アレックス?」
盛大に顔を引き攣らせたジーラットに、ソフィーナは泣きながら吹き出した。
「本当、あなた変ね」
「そ、それはそうですけど。いや、そ、れはちょっと洒落にならないかなあ、なんて」
「違うわ。フィリシア・ザルアナック・フォルデリークよ」
「……」
その瞬間、口をぽかんと開けて、ジーラットはソフィーナを見つめたまま固まった。その間たっぷり1分はあっただろう。
「い、や……ない、です、絶対に」
不可解で奇妙なものを見るように頬を痙攣させ、絞るように出した声が再開第一声だった。
「だってそう評判だもの。私もそうだと思う。だって彼女だけ本当に特別な扱いだわ」
彼と彼女が交わしていた意味深な目線、距離の近さ、お互いを呼び捨てにし合う関係性、相手にふさわしいものを贈る気遣い――ソフィーナはもちろんジェイゥリットでさえ、その比ではないように見えた。今のジェイゥリット、と言うべきかもしれないが。
「噂って無責任……。というか、特別っていい意味ばっかりじゃないような気がするんですけどね……」
どこか遠い場所を見るような目をしていたジーラットは、気を取り直すように頬を自分の手で叩くと、唸るように呟いた。
「とにかく妃殿下が、フェルドリックを好きなのはよく分かりました。でなきゃ、妃殿下ほど聡明な方が、そんな噂、信じるはずがないですから……」
「そうか、あなたも彼女を知っているのね」
「あー、はい。ええと、とにかく、荒唐無稽極まりないその噂、今は亡き祖父母に誓って、嘘だと断言します」
彼がそう言うと本当に聞こえた。ただ、それがただの願望なのか、相変わらずわからなくて、ソフィーナはごまかすように笑う。
「私ね、お嫁さんに憧れていたの」
突然変わった話題に、ジーラットが目を丸くした。幼く見えるその顔にソフィーナはくすりと音を漏らす。
「私、自分のこと、美人じゃないと知っているのだけれど、たった1人を見つけて、それで幸せになると信じていたの」
憧れていたのは、正確には花嫁になることではない。あの日、誰とも知らないあの女性が見せた、あの笑顔だった。相手を信頼し、相手に信頼してもらって、お互いの幸せを祈り、喜ぶ――幸福の象徴そのもの。
「見つけたと思ったけれど、自分の特別にはならないと諦めて、でも思いかけず見つけてくれたと喜んで、でもただの勘違いで……本当に馬鹿」
「それは殿下のことですか……?」
痛みを含んだその声にまた泣きそうになる。
「私の姉、すごく美人なの。最初カザックから婚姻の申し込みがあった時、私、確かめもしないで姉への話だと思い込んだのよ」
皆もそうだった。
「私ではなく姉の間違いだろうと確認する父たちを前に、私に跪いて「一目惚れした、妻になるとあなたの口からきかせて欲しい」と言ったの。猫を被ったままだったし、舞い上がったわ」
まるでおとぎ話のよう――でも、現実はやはりおとぎ話なんかじゃなかった。
「でも、本性はあのとおり。ハイドランドとの婚姻の目的はシャダへの牽制で、姉でなくて私だったのは、兄から仕事の補佐を奪うことと、地味な私なら姉と違って着飾らせる必要がないからなのですって」
「……」
ソフィーナを凝視しながら話を聞いていたジーラットが、その直後に剣呑な表情で何かを呟く。
その彼にソフィーナは無理に笑った。上手く行かなくて、ジーラットはまた眉を顰めたけれど。
「しかも、何が1番情けないかって、私、そんな扱いをされてなお、まだ幸せになれるんじゃないかとどこかで思ってしまうの……」
希望のかけらでも何でもないものを勝手に拾い集めて、それを希望だと思おうとする。そして違うと気付く度に、自分の愚かさに嘆きと嫌悪が増す。
「でも……でも、それももうおしまい」
「いいのですか……?」
フェルドリックはソフィーナが彼を好いていると気付いている。知っていてあの態度だ。なのに――
「……」
昨日自分に触れた、彼の唇の感触が蘇って、また涙を零した。
「私、誰かのただ1人になりたいの。それで幸せに笑い合いたいの。その相手は彼じゃないと、ようやく受け入れられそうなの」
責任のある者として、国に関わる仕事ができるのは、ソフィーナにとって幸せなことだ。街や村で人々が平和に暮らし、笑っている、その顔を見るのが何より好きだった。
その為なら何だってできると思っていたけれど、やっと分かった。
「きっといい機会なんだわ……」
ソフィーナは膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめ、深呼吸をする。
(この時期に、シャダの姫が来たこと。これを僥倖と思おう。私は、母の、名高きハイドランド賢后の娘だ。いくら愚かなことを続けてきたといっても、そこまで自分をみくびれない)
「ジーラット、ありがとう。ようやく決心が付いたわ」
「……」
じぃっと見つめてくるジーラットの美しい森の緑の瞳を、ソフィーナはまっすぐ見返した。
(この人は鈍いし、人とずれているところもあるけれど、肝心なところでは必ず気付く)
悟られたなと思ったけれど、彼についてソフィーナはもう1つ知っている。
「内緒、よ」
(優しいのよね、どうしようもなく)
それに付け込もうと微笑んだソフィーナに、ジーラットは本当に困った時の顔を見せた。
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