第15話 解放と囚縛

 あの夜会の晩、様子のおかしなフェルドリックがソフィーナと踊ったからと言って、何が起こる訳もなく――

 強いて言うなら、「好きなだけで、別にうまいわけではないんだな」とフェルドリック本人から言われ、「あんなに楽しくなさそうに踊るフェルドリックさまは初めて見た」と評判になって、ますますソフィーナの立つ瀬がなくなったということぐらいだろう。かばってくれたのかと微妙に覚えた感動を返してほしい。


 逆に面白くなってくるぐらい、本当に何も変わらなかった。

 何が楽しいのか、フェルドリックが毎晩オテレットやメスケルをしに来るのも変わらないし、ソフィーナがほとんど勝てないのも変わらない。

 彼が気分次第でソフィーナに皮肉や嫌味を投げるのも、気まぐれに笑いかけるのも同じ。

 行く必要があるとフェルドリックが判断してきた夜会や茶会にだけ、太子の妻として出、人と接する時だけ大事にされる演技を受け、2人きりになるとその演技がさっぱり消えることにも変化はない。

 そして、ソフィーナがそのフェルドリックに浮き沈みするのも同じだった。そこだけはいい加減変わりたいと思っているのに、変われない。


 ソフィーナは逃避するように、フォースンに仕事を増やしてもらうよう頼んで、「フェルドリックさまに見習わせたい……」と文字通り泣かれながら、その通りにしてもらった。

 調べ物をし、書類を読み、作り、関係する人と議論している間は、何も考えなくていい。自分のことも今以上に嫌わなくて済む。

 合間に、アンナやバードナー、ジーラットとお茶をしたり、宮殿を散策したり、こっそり街に降りたりして息抜きをする。


 そうして、さらに数か月が経つ頃、事態は大きく動くことになった。



* * *



「承知いたしました」

(ああ、これでようやく解放される、いくらあきらめの悪い私でも――)

 その晩、フェルドリックがもたらした知らせに、ソフィーナは笑顔を零した。


 いつものようにソフィーナの部屋を訪れたフェルドリックは、その日、無言で寝室に向かった。戸口でソフィーナを振り返り、目線で一緒に来るように促すと、音を立ててベッドへと身を投げ出す。

「シャダから外交使節団が来ることになった」

 そして、そう話し始めた。


 静かな夜の、静かな城の、ソフィーナの私室。深夜に近い時間帯の、静寂に包まれた空間に響くのはフェルドリックの声だけ。

 周囲の無音さに、ソフィーナは自分の動揺が彼に伝わるのではないかと怯える。

 フェルドリックにばれるのだけは死んでも嫌で、ソフィーナは寝室の窓へと歩み寄った。


 欠けたところのない満月が、明るく窓辺を照らしている。空に浮かぶ銀板はひどく美しい。その月の脇にある、かすんでしまって存在が微妙になっている小さな星。

 それらに何かを連想しそうになったところで思考を止めると、ソフィーナはもう一度フェルドリックに向き直った。


 シャダ王国からカザックに、外交使節団がやって来ることになったらしい。

 彼の国とカザックに現在国交はない。60年程前の王権交代の内戦の際に、シャダは旧王朝に肩入れし、また、それが倒れた後も旧王族らを亡命者として受け入れ、新王朝からの引き渡し要請を拒み続けてきた。その後も事ある毎にカザックに干渉し続けているはずだ。7年前の内乱にもシャダの影があったという。

 使節団の表向きの目的は、そういった関係の改善、そして国交の樹立ということらしいが、その代表はシャダ王国第3王女ジェイゥリットだという。彼女はソフィーナや母のような政治に関わるタイプではなく、姉のような人だと聞いていた。


(滞在期限も決まっていないということであれば、つまり本当の目的は……)

 ソフィーナはベッドの上のフェルドリックを静かに見つめた。

「前からお話はあったのですね」

 いつかの晩、護衛の力量を訊ねたソフィーナに、フェルドリックが「何かあったか」と厳しい雰囲気で問い返してきた理由を今更悟って自嘲した。

(シャダとそれを支持する勢力が私――というより、『ハイドランド出身で、かつカザック太子の“第一”妃』に危害をなす可能性を危惧してのことだったのね……)


「……すがらないの? 私だけを見てって?」

 ベッドの上で身を起こして、フェルドリックは皮肉に笑いかけてくる。

 そんな顔をしているのに秀麗以外の言葉がない彼に、絶対に内心を見せたくない。ソフィーナは窓を背に、にこりと笑みを浮かべた。

「最初に申し上げた通りです――たとえそれがシャダの姫であっても」

「本音を隠すのが上手くなったね」

「私はいつでも正直です。どなたかとは違います」

 嘘ばっかりなのはフェルドリックじゃない、私だ、と、ソフィーナはくすりと笑い声を漏らした。


「ですので、正直に申し上げます。シャダがそう動くとは予想しておりませんでした。ですが、余力が本当に無くなっていると考えればつじつまが合います」


 自らの感情を隠そうと発した言葉につられて、一昨年の冬に見た光景が脳裏に浮かんだ。今度は心のままに顔をしかめる。

 シャダと接するゴルディラ領主から、“シャダから流民が押し寄せている”との報を受けて、ソフィーナは状況の把握と援助物資の輸送のために、西の国境へと向かった。

 近隣住民の好意で作られた簡素なキャンプ地で見たシャダの難民たちは、皆ひどく痩せ衰えて病み、子供は眼球と腹が飛び出ていた。しかも、亡命や移動の自由を認めていないシャダの国軍によって、ひどい怪我を負っている者も珍しくなくて、彼らはハイドランド国内でぞくぞくと死亡していった。


「他国に手を出す前に、なぜ内政に専念しないのかしら。一昨年程度の寒波で餓死者が出るような状況を、なぜ放置できるの」

 絶望が満ちていたあの空間を思い出して、ソフィーナは吐き捨てるように呟いた。

「あんな国に絶対にハイドランドを好きにはさせない。ただでさえ不作が続いて皆苦しんでるのに」

 カザックの民と比べて思う。北のハイドランドの環境は厳しく、民に憂いは多く、貧しい。それでも彼らは母を、兄を、ソフィーナを慕ってくれた。

 兄以外に、あの国を去るソフィーナを心から惜しんで涙してくれたのは、路傍に見送りに来てくれた、名も知らないたくさんの人たちだった。


「そんなに大事? 君はカザック王国王太子妃なのだけれど、名目上はね」

 笑っているのに目が笑っていないという顔をフェルドリックが見せたことで、ソフィーナは我に返り、失態を悟った。

 信頼していないと如実に告げるその目と「名目上」という言葉に限界がきて、目線を彼から足元へと移す。

(これは、愚かな選択の報い――)

「ええ、そういう契約ですから、もちろんこの国の不利になることはいたしません」

 様々な痛みに呻きそうになるのを抑えようと、息を吸い込んでもう一度顔を上げ、そう言い切った。

(そう、これでいい。あとはいつものように適当にゲームでもして、それに集中しよう。いつも気がそぞろになって負けるけれど、もしかしたら勝てるかもしれない。そして、シャダにどう対処するかは、どうせ寝られないその後に考えよう)


「……っ」

 薄闇の中で金と緑の瞳と視線が交差した瞬間、心臓が音を立てて跳ね上がった。いつの間に、彼はソフィーナのすぐ傍らに来たのだろう。

 これまで見たことのない、得体のしれない顔で、彼はソフィーナを見ている。

「――いい心がけだ」

(え……)

 その動揺が収まらないうちに、ソフィーナがふわりと温かいものに全身を包まれる。

(……な、に?)

 微かに響いてくる心臓の音はソフィーナのものではない。

 自分が今顔を押し付けているのは――

 腰に触れているのは――

 しなければいけないと気だけは焦るのに、現状の把握がまったくできない。


「今度は触らないでって言わないんだ」

 呆然としているソフィーナから、その身がわずかに離れる。それと共に言葉の意味を理解して、ソフィーナは体の芯まで凍らせた。

「やっぱり僕に惚れて」

「いません」

「わりに声が震えてる」

 指摘にかっと顔が熱くなる。

「赤くなった」

 淡々としたその声から距離を取ろうとするのに、腰を捕らえられていてままならない。逃げたがっているソフィーナをあざ笑うかのように、その神秘的な瞳は顔を覗き込んできた。

「……王女でよかっただろう」

「おう、じょ、で……」

 涙腺が緩んだのを首を左右に振ってなんとか隠すと、その場を誤魔化そうと口を開いた。


『僕に惚れているんだろう? よかったじゃないか、そんなでも王女で』

 だが、その瞬間、ハイドランドでの晩に聞いた声が頭の中で響いた。


「っ、よく、なんか、ないっ、王女なんかに生まれなきゃ、私でも幸せに結婚したもの……っ」

 結果、ソフィーナの口から出てきたのは、その場をやり過ごすための言葉ではなく、本音だった。

 フェルドリックを睨み付けたいと願ったけれど、目が合えば絶対に泣いてしまう。ソフィーナは全身を固くして顔を俯けた。


 初恋は初恋のままでよかった。

 それでいつか、自分だけを見て、大切にしてくれる人を見つける。その人を大切にして、穏やかに笑って、みんなも笑わせてあげて、それでよかった。分相応な幸せが欲しかった。


「……相手が僕だってのが、相変わらず気に入らない訳だ」

 頭上から響いた声は、低く平坦だった。


「生憎だったね、それでも君はここに――僕に縛り付けられる」

 恐ろしさを感じて、身をさらに縮込めたソフィーナの顎に何かが触れた。

「……っ」

 抵抗をものともせず、そこを持ち上げられ、ソフィーナはぎゅっと目を閉じる。

 吐息の次にゆっくりと唇に触れたのは、言葉の冷たさとは対照的に温かい、やわらかいもの。


「……」

 遠ざかっていく気配に目を開け、ソフィーナはもう見慣れたはずのフェルドリックの顔を呆然と見つめた。

「――逃げられると思うな、ソフィーナ」

 再び体を拘束されながら耳に届けられた言葉は、何より残酷な宣告だった。

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