第14話 壁の花とダンス

 会場内の照明は、宴の趣向か、普段より落とされていて、庭園のそこかしこに設置された青いガラス灯篭に照らされる外の池と、盛りを迎えた睡蓮の花が、神秘的に浮かび上がって見えた。


「……」

 その窓の前でフェルドリックがノーベルブルク侯爵夫人と踊っているのを、ソフィーナは見るともなしに眺める。

 周辺には、夢でも見ているかのような顔つきの女性たちが自分の番を待っていた。

(今日も大人気……本当に何がいいのかしら。見た目以外、胡散臭さしかないのに)

 そういう自分だって気づかなかったくせに、とため息を吐くと、ソフィーナは手にしていたグラスに口を付けた。


 先ほどまでニステイス伯爵夫妻が一緒にいてくれたが、彼らが中座して以降、ソフィーナの周りには誰も近寄ってこない。アレクサンダーも仕事があると言って帰ってしまった。

(結局どこに行っても壁の花……)

 そう内心でぼやいた後、

「今日のお召し物も、ハイドランドのものかしら? 慎ましやかな感じが、ハイドランド出身のソフィーナさまによくお似合いで。どちらの工房のものですか?」

 権高に響く声に、ただの壁の花で居させてもらえるというのは贅沢なことなのだ、と思い知った。


 嘲笑を露に近づいてくるのは、フェルドリックの異母妹の一人でもあるミレイヌ侯爵夫人と、ホーセルン公爵家の姉妹だ。

(ミレイヌ侯爵家は旧王権派。夫人の母は第二王妃で同じく。ホーセルン公爵家は中立)

 頭の中で、カザックの貴族事情を引っ張り出す。

「あら、セルナディアさまは、ハイドランドのブランド事情にもお詳しいのですか? わたくしは全く聞いたことがなくて」

「まさか。アルマナックのものはチェックしていますが、ハイドランドはねえ……ただ、かの国の王女殿下がオーダーなさるような工房であれば、一度くらい、と思って」

 自分のみならず愛する祖国を貶められて、ソフィーナは微妙に視線を尖らせた。


「クリセリアのものではないかしら。確かに装飾はさほどありませんけれど、そちらの生地はおそらく西大陸のホートラッド産です。このきめ細やかで薄い生地を、光沢を損なわず、縫製できる職人を擁しているのは、かの工房ぐらいかと」

 ソフィーナが答える前に、横から声をかけてくれたのは、まだ年若い、ロンデール公爵夫人だ。横にはちょっと年上のロンデール公爵がいる。

「フェルドリック殿下からの贈り物ですか? 洗練されていて、本日の宴にも妃殿下の雰囲気にもぴったり」

「ネックレスなどの宝飾品もすべてそうでしょう。どちらにも殿下のご趣味が出ています」

「え、ええ、まあ……」

(フェルドリックの趣味? そうか、この人、爵位を継ぐまで長くフェルドリックの護衛をしていたと……)

 ロンデール家も旧王権派、しかも筆頭のはずだが、ソフィーナが何度か話したことのあるロンデール公爵夫人は、三大公爵家の夫人とはにわかに信じがたいほど、善良な人だった。今も彼女はセルナディアたちに目もくれず、微笑ましそうにドレスとソフィーナを見比べている。

 その後を受けた公爵も、柔らかい目をソフィーナに向けてきた。


「……まあ、そうでしたの。道理で素敵なドレスだと」

「ありがとう。殿下にお伝えしておきます。セルナディアさまもガーメラさまもファリーヌさまも美しくていらっしゃいます」

 ハイドランドからソフィーナが持ち込んだドレスだと思っていた時は似合っていると言ってくれたのに、フェルドリックが用意したカザック産のドレスだと知ったら、ドレスを褒める。

(ある意味とても正直な人だわ……)

 ソフィーナは苦笑を押し隠すと、ミレイヌ侯爵夫人に泰然と笑って見せた。


「さすが雪の妖精と呼ばれるだけのことはありますわね」

「残念ながら、人違いをなさっています」

 ソフィーナがホーセルンの三女へと目線を向ければ、彼女の顔には悪意が浮かんでいた。

 雪の妖精と呼ばれているのは、ソフィーナの姉のオーレリアだ。彼女はそうと知っていて、当てこすっているわけだ。

「まああああ、どうしましょう、大変な失礼をいたしました。フェルドリックさまのお妃となられた方ですもの。ハイドランドご出身と聞いて、てっきり美姫と名高いかの方とばかり」

 声高に謝罪してきた彼女の悪意に、ソフィーナ同様気付いたのだろう、優しいロンデール公爵夫人の顔が曇った。

「そう思ってしまうのは、無理のないことだけれど、ガーメラ、あなた、噂に惑わされ過ぎよ」

「本当に。だって、実際のソフィーナさまを拝見すれば、わかるじゃない」

「――雪の妖精以上に、美しく、可憐だとね」

 冷たい声でミレイヌ侯爵夫人らの嘲笑を遮ったのは、驚くべきことにフェルドリックだった。


「お、兄さま…」

「まあ、フェルドリック殿下、ご機嫌よ」

「もっともソフィーナのすばらしさは、内面にこそあるのだけれど」

「……」

 夫人たちを無視したフェルドリックにすっと肩を引き寄せられて、頬に口づけを落とされ、ソフィーナは固まった。周囲から悲鳴のようなものが聞こえたが、顔を引きつらせないだけで、精いっぱいだ。

(よ、くもしれっと……というか、なんの気の迷いなの)

 心臓の鼓動を隠し、剣呑な目でフェルドリックを振り返ったソフィーナは、異母妹に笑い掛ける彼の目が全く笑っていないことに気付いて息を止めた。

『フェルドリック殿下の姉君が幼くして亡くなったのは、旧王権派との権力争いの結果だ。大国ではそういうことが当たり前に起こる。ソフィーナ、くれぐれも注意しなさい』

 嫁ぐ前に兄がくれた警告を思い出す。


「お兄さまったら、いやだわ。可愛い妹の前で、奥方とはいえ、そん……他の女性をお褒めになるなんて」

「仲がよろしくて、羨ましい限り、ですわ……」

「本当、妬けてしまいます……」

(……お兄さま、権力争いと、この目に囲まれるの、どちらが怖いと思います?)

 すさまじい顔で睨まれて再び固まると、ソフィーナは現実逃避がてら内心でぼやいた。壁の花最高と思い直すことにする。

「もちろんあなた方も本当に美しい。今日のドレス姿なんて、水面に浮かぶ月が恥じらって逃げ出すのではないかというほどだ」

 そのソフィーナを一瞥した後、フェルドリックはいつも通りの柔らかい微笑を顔に浮かべ、夫人たちへと一歩距離を詰めた。

「フェルドリック殿下、ご無沙汰しております。お話の機会をいただけて本当に光栄ですわ」

「先日の王立美術館の特別展覧会、本当に感激いたしました。フェルドリック殿下の差配とか。さすがお美しい方は、美しいものをご存じなのだと、皆で話しております」

 そうして生じた隙間にすぐに人が入ってきて、ソフィーナははじき出されてしまった。


(助かったけど…………私、一応王太子妃)

と言ってみたくなる扱いに、怒りも悲しみも呆れも通り越して、つい笑いを零せば、同じ憂き目に遭っているロンデール公爵夫人が「私、この調子でいつも殿下にご挨拶し損ねるんです」と独り言のように呟いた。

 のほほんとした響きが好ましくて、「あそこに入っていく勇気は、私にも中々」とますます笑えば、目元を緩めている公爵と目が合った。

「ソフィーナ妃殿下、私は以前、小さな妃殿下にオーセリンでお目にかかったことがあるのですが、覚えてくださっていますか?」

「……あ」

(あの時だ、初めてフェルドリックに会った時、彼の背後にいた人――)

「覚えています、殿下の護衛をなさっていたわ。あの時は髪が長くていらしたけれど、お切りになったのですね」

 懐かしくなって微笑めば、「あんなに可愛らしかった姫君が、こんなに美しくなられて、カザックにお越しになるとは、感無量です」と彼も微笑み返してくれた。



 その後、誘われるまま、ソフィーナはロンデール公爵とダンスを踊った。

 三大公爵家の一つで現王家より長く続き、旧王家とも深い繋がりのあったロンデール家は、カザック王家とその後ろ盾となってきたフォルデリーク公爵家と、長くいがみ合ってきたと聞いている。

 だが、現公爵自身がフェルドリックと近しいため、最近では表立った争いは減っているらしい。


(おそらくとても優秀な人……)

 この若さで古い一族を切り回しできる才覚はもちろん、軋轢のある相手とうまくやる度量、それに反発する身内を抑え、一族の長で居続けられるバランス感覚――

 話をしていて、その辺はソフィーナにもすぐに分かった。

 意外だったのはその善良さだ。貴族が自身や家を守るための迂遠な物言いはするけれど、彼の奥方がそうであるように、彼自身にはあまり嫌味がないように思う。

「カザックはいかがですか? ハイドランドとは景色も気候も大きく違うでしょう? 以前訪れた時、澄んだ空気と青空、その下に広がる山々の美しさに圧倒されました」

「だいぶ慣れてきました。ただ、夏の暑さにはまだ……真夏はどんな感じかと、少しだけ怯えております」

(計算でそんな風に見せかけているのであれば、大したものね。これだけ注意しているのに、まったくわからない)

 ソフィーナはそう警戒しつつも、少しだけ肩の力を抜く。

 さっきも助けてくれたし、少なくとも今のロンデール公爵にソフィーナへの害意はない。


(……せっかくだし、私も楽しもう)

 少し向こうで、フェルドリックがまた楽しそうに女性と踊り始めたのを見てしまって、ソフィーナはロンデール公爵との踊りに集中することにした。

 夜会も社交も好きではないけれど、ダンスは好きで、こればかりは母にも兄にも教師にも手放しで褒めてもらえた。

「……お得意ですか?」

「得意かどうかは。でも性に合っているようで」

 複雑なステップを踏んだソフィーナに、ロンデール公爵は少し驚きながらも、ついてきてくれた。

「公爵こそお上手です」

「では、少し難易度を上げましょう」

「お手柔らかに」

 茶目っ気を見せて笑い、彼は楽しそうにソフィーナをリードする。つられて笑って、ソフィーナは踊りへと没頭していった。


「殿下のことですが」

 だが、そんな楽しい時間は、曲の終盤に向かって、メロディが緩やかになった時点で、終わりを告げた。

 現実に戻って顔を固くしたソフィーナを見、公爵は苦笑を見せる。

「少し気難しい所がおありなことを、妃殿下は既にご存知かと。ですが……根はとても優しい方です。私も何度も救っていただきました」

「……存じております」

 彼の顔を見ていられなくなって、ソフィーナは足もとへと視線を落とす。

(知っている、優しい人だから、あれほど民を大事にするって。都合がいい相手の私にだって、最低限の気をかけてくれていることも……さっきのだって多分そう)

 公爵に困ったような顔をされたが、続ける言葉が見当たらない。

 結局のところ、自分が望み過ぎなのだ――。


「ソフィーナさまは今騎士団の方に護衛されていますね?」

(来た――)

「ええ」

 探るような言葉に、ソフィーナは笑顔を取り戻す。それを見て、ロンデール公爵はなぜか寂しそうな顔をした。

「あなたにつけられた騎士は、自らの信念に沿って動く人です。そして、殿下はそれをご承知で、あなたにお付けになった――私はそう確信しています」

「? 貴方もあの2人をご存じなのですか?」


「アンドリュー・バロック・ロンデール」

 疑問への答えが返ってくる前に曲が終わり、2人が足を止めると同時にフェルドリックが声をかけてきた。明らかに機嫌が悪い。

(さっきまで機嫌良さそうだったのに。何があったのかしら……)

 踊りに夢中になって彼の様子を見ていなかった時に限って、何か起きたらしい。自分のタイミングの悪さに、ソフィーナは蒼褪める。

「ご機嫌いかがですか、殿下」

「悪くない」

「と仰る時は、大抵逆ですね」

 そんなソフィーナと対照的に、公爵はくすりと笑った。弟に対するようなその顔には、フェルドリックへの親しみが見える。

「では、原因をお返ししましょう――妃殿下、楽しい時間をありがとうございました」

「あ……私こそ得難い時間でした。ありがとう、ロンデール公爵」

「アンドリューとお呼びください。ではまた」

 ロンデール公爵は、元近衛騎士とはっきり納得できる所作で、ソフィーナの前に膝を落とすと、その手に口付け、去っていった。


「殿下……?」

 彼の後ろ姿を無言で見ているフェルドリックに、ソフィーナはおずおずと声をかけた。

「ひょっとして、お疲れですか?」

「体調は?」

「え、いえ、私のことではなく、」

「暑くて、疲れていたんじゃ?」

「だ、いじょうぶ、ですが……」

「そう」

 フェルドリックはようやくソフィーナへと顔を向けた。

「ダンス、好きなの?」

「え? ええ、踊ること自体は、ですけど……」

「……」

 無表情に手を差し出され、ソフィーナは思わずそれを凝視した。

(こうしてみると、思ったより大きいのね。指、長い。あ、爪、綺麗……)

「手」

「え、でも、殿下こそお疲れのご様子ですし、戻られてはいかがかと」

「……」

 露骨に眉を寄せてフェルドリックは、また勝手にソフィーナの手をとった。

 広間の中央へと引っ張っていき、ソフィーナの腰に手を添え、向き合う。

 そして、音楽に合わせて踊り始めたのだが、曲の間中彼は終始無言で、一言も話さないままだった。


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