第12話 悟りと動揺

「ごきげんよう、殿下」

 先ほどまで、ただただほのぼのとしていた温室の空気に、微妙な緊張が混じった。

 もちろんと言うべきか、ソフィーナとアンナ、ジーラットとバードナー、それぞれ理由は違うのだが。


「その花、私の執務室にも適当に持って来てくれるかな」

「え、あ、はい。で、では、お好みがありましたら、」

「アンナのセンスはソフィーナの部屋で確認済みだ。任せる」

 にこりとアンナに笑いかけるフェルドリックの顔は、お話の中の王子さまそのもの。金の髪はガラスに乱反射する温室の日差しを受けて、今は光そのものに見えた。緑と金の双瞳も、この世に二つとない宝石のように輝いている。


「暑い」

「……温室ですし、もう春も終わりますから」

 側にやって来て、挨拶もなしに文句を呟いた彼に、ソフィーナは呆れ顔を向けた。アンナへの愛想の半分もない。

「ですよね。それこそいつも殿下が仰る、“少し頭を使って考えればわかるだろう”的な話、な気、が……し、しませんとも……っ」

「いい加減、口を噤む賢明さを身に付けたらどうだ……?」

 いらないことを言うという点では、いい勝負のフェルドリックとジーラットが、いつも通りにやり取りし、アンナが顔を引きつらせてその光景を見守る。基本要領のいいバードナーは知らん顔だ。


 ジーラットを睨んでいたフェルドリックが、ソフィーナへと顔を向け、すぐに視線を手元に落とした。

「…………花は好きなのか」

「え、ええ……」

「……」

 皮肉や嫌味が続くだろうと身構えたソフィーナを、フェルドリックに不思議なものを見るように、ただじっと見つめている。

(絶対に「花に見劣りする」とか、言うと思ったのに……)

 怪訝に思ってちらりと横を見れば、ジーラットとバードナーも眉をひそめ、露骨に訝しんでいる。


(なんなの? それとも私、何かしたかしら……?)

 昨日の夜は、フェルドリックにハイドランドの盤上ゲームであるメスケルについて説明した。

 以前は応接室のソファでやっていたのに、フェルドリックが「面倒だ」と言い出したせいで、最近ではベッドの上に持ち込んでいる。

 昨日もあくびをしながらベッドに寝転がって、「オテレットで負けてばかりのソフィーナが気の毒だから」とわざわざ嫌味を言ってから、ソフィーナにメスケルについて話すよう促したことと言い、「まあ、ルールさえ覚えれば、どの道僕が勝つけど」と憎まれ口を叩いていたことと言い、その時点では彼におかしな様子はなかったように思う。

 今朝起きた時も、朝食をともに取った後部屋を出ていく時も、少し寝ぼけているようだったが、特におかしな点はなかった。


(となると、午前中……? 出会ってもいないし、私、特に何もしていないはずだけど……)

 じぃっと観察するように見られて、居心地の悪さのあまり、ソフィーナはつい身じろぎする。

 その瞬間、フェルドリックが口を開いた。

「……」

 が、眉をひそめ、すぐに閉じてしまうと、ソフィーナの脇を通り過ぎ、遅咲きのチューリップが植えられている区画にしゃがんだ。

「――こっち」

 彼が手折って差し出してきた花は八重の花びらのもので、付け根の白にかすかな新緑が浮かび、花弁の中央から先端に向かって淡いピンクのグラデーションを見せている。

(……私、に、くれる、ということ、かしら)

「あ、りがとう、ございます……」

 不愛想に差し出されたそれを、ソフィーナは半ば呆然としながら受け取った。


(新種、かしら、奇麗な色……)

 手の中にある、かわいらしい、見たことのない花を見つめているうちに、じわじわと喜びが湧き上がってきた。

「ふふ、かわいい」

 知らず笑い声を漏らしながら、ソフィーナは微笑み、フェルドリックを見上げた。


「…………この花じゃ、お似合い過ぎて笑えない」

 目の合ったフェルドリックは、無表情にソフィーナが元々持っていた白い花を奪うと、踵を返していった。



(……そ、っか、地味な私に、ぱっとしない花の組み合わせは洒落にならない、ということだわ。なのに、喜んだりして……。何回こんな目に遭えば懲りるのかしら、私)

 フェルドリックがいつもどおりであったことに、ほっとしようとしてみるが、気分が沈んでいくのを止められない。

「……」

 自分の迂闊さを呪いつつ、ソフィーナは手元の花をただただ見つめた。


「本当にかわいらしいですね、妃殿下にお似合いです」

 バードナーの声にうつろに返した気はする。

「……それ、殿下が取り寄せた新種ですよ」

 だが、ジーラットがそう呟きながら、いつになくきつい視線でフェルドリックの後ろ姿を見ていることには、気付けなかった。



* * *



 夜、いつものようにやってきたフェルドリックは、まだ少し不機嫌そうに見えた。

 やはり理由が思いつかず、困惑していたソフィーナだったが、彼は寝室に入った途端、これもまた理由がわからないまま上機嫌になる。

 これこそが彼がソフィーナを気にかけていない証拠だと知っているのに、また動揺してしまって、さらに自分が嫌になる。

(完全に振りまわされているわ……)

 母が眉をひそめている光景が思い浮かんで、ソフィーナはそっと息を吐き出した。


 出来るだけ無難にやり過ごそうと決めて、ソフィーナは昨日フェルドリックにルールを教えたメスケルの盤と駒をベッドの上に出す。

「これが風の妖精、そっちは土、こっちが火で、これが水だったかな……」

 フェルドリックが駒の一つ一つを手に取って確認しているのを見て、少しだけ緊張を緩めた。


 相変わらずではあるけれど、当初と比べれば、どうしようもなく緊張することはなくなったし、フェルドリックの方でも棘があるセリフが減ってきたように思う。

 夫と妻という関係ではまったくなくても、険悪ではない雰囲気ではいられるというのはとてもありがたかった。


「ハンデをつけますか?」

「いらない。僕が勝った時に言い訳にされたくない」

「自信家なのも、そこまで行くと嫌味を通り越して、いっそ清々しいです。というか、負けませんから」

「勝つと言わないあたり、謙虚と言うべきか、身の程を知っていると言うべきか」

(いちいちムカつく)

 睨んだのに笑われて、もっとムカついて……もっと切なくなった。


 メスケルを始めながら、深く考える必要も落ち込むこともない話題を探し、ソフィーナは護衛の2人について話すことにした。

 フェルドリックが自分の本性をさらしている人間は多くない。その人たちについて彼がどんな反応をするのか、見てみたいという興味もあった。


「ハイドランドと比べると、なんと言うか、ものすごく気さくなのですが、カザックでは普通のことなのですか?」

「まあ、元々平民出身者ばかりだったせいか、騎士にはあんなのが多いかな。他者に敬意を払うことは重視するけど、形式としての作法にはあまり気を払わない」

 創設者も元々は平民だったしね、と言って、何かを懐かしむかのようにひどく柔らかく笑った彼に心臓がはねた。気付かれないよう、体表の血管が拡張しようとするのを必死で抑える。

「退屈しないだろう」

 だが、ベッドに寝転がって、片手で駒を弄びながらフェルドリックが向けてきた視線に、その試みは失敗する。

 くつくつと笑い出したフェルドリックを、ソフィーナは真っ赤になったまま睨みつけて、その隙に彼の駒――風の妖精を奪った。

「げ」

「いつまでも負けていると思ったら、大間違いです」

「……成長していると言いたい訳か」

「そもそもメスケルです、絶対に負けません。……じゃなくて、か、勝ちます」

「生意気」

 そう顔をひそめた彼に、さらに気を良くする。


「そういえば、この間カザレナの西区に行ったって?」

「はい。運河に浚渫がいるように思いました」

 お互い盤だけを見つめたまま、色気のない話をする、これもいつものことだ。

「ジーラットは昔一度そこに落ちたことがある、と。水が少なすぎたせいで結構衝撃が大きかった、と笑っていました」

「……笑い事じゃなかったんだけどね」

 その時の彼を思い出して笑ったソフィーナに、フェルドリックはため息を吐きだした。

「じゃあ、それ、任せる」

「え? 運河の浚渫、を、私、ですか? え、ええと、では、明日北部の水資源の利用状況を……あっ」

「まだまだだよねえ、考え事なんかでやられるなんて。王族たる者、一度に3、4つのことを考えられなくては」

 ソフィーナのドラゴンの駒を片手に、フェルドリックは艶やかに笑った。

「外見はどうでもいいけど、頭は違う、いくらでも改良できる――せいぜい頑張れば?」

「……性格も改良の余地があるはずですから、善処をお願いしたいものです」

 憎まれ口を叩いて、胸の痛みを隠す。

 

 ソフィーナは確かにこの国に来て変わった。それでも変わらない部分もある。

 フェルドリックの言動に振り回され、勝手に希望を持っては失望し、そのたびに痛みを感じるところだ。

 もっとも、そんな無様さを隠す演技だけは、完璧になりつつある。痛みの感覚にも、いい加減慣れてきた。

 普通の夫婦を、男女の関係を望んで、それゆえに相手を憎むような事態になってもいいことは何もない。

 こうして話ができる、時には笑うこともできる。より多くの人々が幸せを感じられるように、一緒に仕事をすることもできる。

 今、彼が任せると言ってくれた仕事は、国内の調整が必要な、つまりは権力が関わる仕事だ。少しは信頼されるようにもなってきたということだ。


 自分とフェルドリックの関係はこれでいい――ソフィーナは、そう自分に言い聞かせる。

(そうしているうちに、この恋を流し去って、いつか…………いつか?)


「生憎と自分ではこの性格、気に入っているんだ」

「そ、んな風に、感じられる頭も、いつか改良できるようになる、とよいのですけれど」


(いつか? いつか誰かに恋をする? それで……? 私、の場合は、彼を忘れて、他の誰かに恋することができたとしても、それが成就することはない。この人の側にずっといなくてはいけない……)


「……」

 ――どの道、私には、いつか見たあの新婦たちのような幸せは得られない。

 唐突にそう悟って、愕然とした。


「ソフィーナ?」

「っ、なんでしょう」

 フェルドリックが怪訝そうに眉根を寄せたことに気付いて、ソフィーナは慌てて顔を作り直した。


「そういえば、あの2人、護衛としての力量はどうなのですか?」

「……何かあった?」

 注意を逸らすためだけの質問だったのに、フェルドリックの空気が一瞬で尖った。思わず息を呑む。

「そ、ういうわけではないのですが、とても若いですし、それになんと申し上げたらいいのか……その、ほのぼのしている、とでも申しますか…」

「ああ、そういうこと。ほのぼのと言えば、聞こえはいいけれど、馬鹿なんだよ」

 そうやって2人を貶すことも忘れない。だからあの2人にあんな風に警戒されるのだ、とソフィーナは口をへの字に曲げた。

 ジーラットを見ていれば、フェルドリックが近くにいるかどうか、たとえ壁を隔てていても分かる。

 それをすごいと思う一方で、その能力を「生存に必要なので」と真面目に言いきるジーラットの感覚に、ソフィーナは心底あきれてもいる。


「それでも腕は確かだ。騎士団のどの幹部に聞いても、折紙付きだよ」

「そうなのですか」

「だから……安心していい」

 意外な気がして目を丸くしたソフィーナに、フェルドリックは言い聞かせるように呟き、かすかに微笑んだ。

「……」

 優しく見えるその顔に、ソフィーナは息を止める。

(なんで、なんでそんな顔をするの、どこまで残酷なの――)

「まあ、君みたいなのに興味を持つ人間なんてそういないだろうから、元々安全だろうけど」

(――そうやってすぐに突き放すくせに)



「そろそろ寝るか」

 フェルドリックはそう言って、ゲームも何もかも放ったまま、ベッドにその長身を横たえ、毛布に包まって目を閉じた。

 それを白い目で見ているふりをしながら、ソフィーナは震える手を叱咤して、ゲームの駒を拾って箱へと戻した。明かりを落とす。


 フェルドリックが早々に目を閉じたこと、そしてその後広がった暗がりに、ソフィーナは心底感謝した。

 顔の赤みと心の震え、それに気付かれれば、今度こそ死んでしまいたくなる。ハイドランドでの夜のように内心を暴かれて蔑まれたら、もう耐えられない。


(あの2人をつけてくれたのは、私を気遣ってくれたからなの? 安心して、ここに馴染むことができるように?)


 あの2人が自分を笑わせるたびに、喜ばせてくれるたびに、ほっとさせてくれるたびに。

 あの2人がいて周囲との距離が縮まったと気付くたびに、祖国への郷愁が薄れていくのを感じるたびに。

 あの2人と自分の前で、この人が素顔をさらして、毒を吐き、それでも他には見せない顔で笑うたびに。

――希望を抱いてしまう自分がいた。


 あんなにはっきりと希望を打ち砕かれて惨めになったと言うのに。

 この人はそういうことを平気でする人なのに。


 暗がりの中で、ソフィーナの傍らに横たわるフェルドリックの呼吸音が、小さく小さく繰り返される。


「……」

 その音を聞きたくなくて、ソフィーナは膝を丸めると、両耳を手で覆った。

 叶わない未来を望んで、勝手に希望を見出そうとする心が心底疎ましくて、壊してしまいたい、そう心から望んだ。

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